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2016年5月16日月曜日

揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉

見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」にて、次のようにーーテキトウにーー記した。

…………

揺らめかすvaciller とは、70年前後以降からのバルトの鍵言葉のひとつだが、ここではそれに触れない。ただし、現在主流のラカン派でも、この言葉がキーコンセプトの一つであることだけを示しておく。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

…………

というわけだが、ラカン自身にも、バルトの『記号の国』に触れたセミネール18に「主体を揺らめかす」という表現がある、≪…remplacé par le « Il existe » pur de cette inter-signifiance dont je parlais tout à l'heure pour qu'y vacille le sujet.≫(S.18)。(ただし、似たような言い方は、セミネールⅩⅠにもあるので、バルトに影響を受けた、という言い方はしないでおく)。

さて、いくつかわたくしの印象に残っているバルトの「揺らめかす」をーーめったにしないことだがーー仏原文を含めてすこし調べてみたら、次の通り。


◆ロラン・バルト『記号の国』
エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。悟り(「禅」におけるできごと)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺るがせるものである。つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。そして、言葉の空虚こそがエクリチュールをかたちづくる。「禅」は、その描線で、禅庭や、人のしぐさ、家屋、生け花、人の顔、暴力などを、いかなる意味からも免除させながら書いてゆくのである。

le satori (l'évé-nement Zen) est un séisme plus ou moins fort (nullement solennel) qui fait vaciller la connaissance, le sujet : il opère un vide de parole. Et c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture ; c'est de ce vide que partent les traits dont le Zen, dans l'exemption de tout sens, écrit les jardins, les gestes, les maisons, les bouquets, les visages, la violence(Roland Barthes, L'Empire des signes)


◆『テキストの快楽』
快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

Texte de plaisir : celui qui contente, emplit, donne de l'euphorie ; celui qui vient de la culture, ne rompt pas avec elle, est lié à une pratique confortable de la lecture.
悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。

Texte de jouissance : celui qui met en état de perte, celui qui déconforte (peut-être jusqu'à un certain ennui), fait vaciller les assises historiques, culturelles, psychologiques, du lecteur, la consistance de ses goûts, de ses valeurs, et de ses souvenirs, met en crise son rapport au langage.(Roland Barthes, Plaisir du Texte)


◆『明るい部屋』
効果は確かに感じられるのだが、しかしその位置を突きとめることはできず、その記号、その名前が見出せない。その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。

l'effet est sûr, mais il est irrepérable, il ne trouve pas son signe, son nom; il est coupant et atterrit cependant dans une zone vague de moi-même; il est aigu et étouffé, il crie en silence. Bizarre contradiction : c'est un éclair qui flotte.(La Chambre claire)

ーーというわけで、「ゆらめく閃光」は、vaciller ではなく、flotter だった。だが、いずれにせよ明らかにこの二語は関係がある(参照:「固有名とマナ」)。そして、flotter とは、レヴィ=ストロースの浮遊するシニフィアン、マナにかかわる(参照:バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant))。

作家はいつも体系の盲点にあって、漂流している。それはジョーカーであり、マナであり、ゼロ度であり、ブリッジのダミー、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。彼の位置、彼の(交換)価値は、歴史の動きや戦術によって変わる。彼には、すべて、および/あるいは 無が要求される。彼自身は交換の外にあって、利益ゼロ、無所得禅の中に没入する。単語の倒錯的な悦楽以外には何も得ようとせずに(しかし、悦楽は決して獲得ではない。悦楽と悟り、忘我の間に、距離はない)。逆説。すなわち、(悦楽によって死の無償性に接近する)エクリチュールのこの無償性を作家は沈黙させる。彼は体を引き締め、筋肉を堅くし、漂流を否定し、悦楽を抑える。イデオロギーの抑圧とリビドーの抑圧(もちろん、知識人が自分自身に、自分自身の言語活動に加える抑圧)の双方と同時に戦う作家は非常に少ない。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』)
マナとしての語

ひとりの著作者の語彙系の中には、つねにひとつ、マナとしての語の存在する必要があるのではないか。その語の意味作用、燃えさかり、多様な形をもち、補足できず、ほとんど神聖であり、その語から人は、それによって何にでも応えることができる、という錯覚を与えられる。その語は、中心はずれでもなければ、中心的でもない。それはみずから動くことなく、しかも運ばれ、漂流し、決して《仕切りの中にはめ込まれる》ことなく、つねに《アトピック》であり(どんなトピカからも逃れ)、残余であると同時に追加であり、ありとあらゆる記号内容をまとめて代表する記号表現である。その語は彼の仕事の中に徐々に姿をあらわした。それははじめのうち、“真理”の審級(“歴史”のそれ)において覆い隠されていた。次には“妥当性”の審級(体系と構造のそれ)において覆い隠された。が、今、それは開花している。その、マナとしての語、それは「身体」という語である。 (『彼自身によるロラン・バルト』)

※「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」
われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』) 
……すべてのシニフィアン化 signifying 領野は、補充のゼロシニフィアンによって「縫合」される。《ゼロの象徴的価値、すなわち、補充の象徴的内容の必然性(必要性)を徴付ける記号、シニフィエが既に含有するものの上に覆い被さるもの》(レヴィ=ストロース)。

このシニフィアンは、「純粋状態におけるシンボル a symbol in its pure state」である。どんな確定した意味も欠如しており、意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。さらにいっそう弁証法的捻りを加えるなら、意味自体を表すこの補充シニフィアンの顕現の様相は、「非意味」である(ドゥルーズが『意味の論理学』でこの要点を展開したように)。こうして、マナのような概念は、《あらゆる有限の思考から逃れ去る「浮遊するシニフィアン」以外のなにものでもないものを表象する》(レヴィ=ストロース)。ーー(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より私訳ーー「固有名とマナ」)

…………

さて、ここでは浮遊するシニフィアンの話ではなく、焦点を絞って「揺らめかす」に戻る。

バルトの文のなかに、≪読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの≫とあった。これは、歴史的、文化的、心理的土台が擬着していなければ、揺らめかしようがないとさえ言える。

見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」にて、日本のような無イデオロギーの国、見せかけの国、女性の論理が支配的な国、あるいは「いつのまにかそう成る会社主義 corporatism」の国(柄谷行人)、「おみこしの熱狂と無責任」の国(中井久夫)では、いささかファルス的であったほうがいいのではないか?ーーと記したのはこの意味合いでもある。

たとえば、蓮實重彦は次のように言っている。

僕は「ニュー・アカデミズム」は本質的に思想運動ではなく「闘争」だったと思っています。その「闘争」は、出発点において共同体内の戦いだった。浅田彰にしても中沢新一にしても、その戦いを一つの攻撃として組織したんだと思います。そうした姿勢を勇気づける雰囲気はある程度準備されてはいましたけれど、より持続的な戦いの端緒として『構造と力』や『チベットのモーツァルト』は出版されたわけです。その際、共同体内の敵はもっと強力なものだという自覚があったはずです。その自覚とは、あっさり蹴散らされるほどの理論的な強力さではなく、いわば無視されるといった程度の負の強力さを予測していたということです。

ところが、仮想敵がまるで強くなかった。浅田氏にしろ中沢氏にしろ、積極的な敵意に出会う以前に共同体内的な嫉妬によって受け入れられ、それをバネにして共同体内で勝利してしまったのです。これは、日本社会の無責任的な柔構造にからめとられたということにほかなりませんが、大学といった「アカデミズム」の場にまで拡がり出しているこの柔構造の無責任性は、いつでも逆転しうるものだ。王殺しはたえず共同体的な健康維持として可能ですが。ところで、いわゆる「ニュー・アカデミズム」が一時的に占有しえた王の位置というのは、彼らが意図してそこについたわけのものでない。いわば、彼らの書物が読まれたことからくる思想的な勝利ではなく、共同体が容認しうるイメージに翻訳された観念に支えられたものでしょう。「アカデミズム」でさえ、そのイメージに汚染されているわけで、まあ、僕の場合なら、そうしたイメージ汚染の現状を物語批判として展開したのだけれど、「ニュー・アカデミズム」の当事者たちの方は、ある程度、そのイメージ汚染の醜悪さを楽しんでいました。それが柄谷さんのいう「調子に乗ってやってきた」という側面だと思いますが、いまや、彼らの書物が持っていた「闘争」性があらためて問われるときだと思う。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P176)

仮想敵がまるで強くない、かつ柔構造の無責任性をもっている日本では、「揺らめかす」ことを試みてもたいした効果はないのだ。


ところで、若手ラカン派のすぐれた論客の一人、ロレンツォ・キエーザには、ラカンを引用しつつ、「横にずれる」ということの意味合いをたくみに説明する文がある(“Lacan and philosophy : the new generation / edited by Lorenzo Chiesa” 、2014)。≪哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ≫。これは哲学的言説がしっかりしていなければ、揺らめかしようがないではないか、とわたくしは読む。揺らめかすためには、「哲学的言説によって言い表されたある参照点」が必要なのだ。これは哲学的言説に限らない。ここではあえてファルス的言説とっておこう。ファルス的言説がなければ、揺らめかしようがないではないか、と。

以下、ロレンツォの論から、やや長く抜き出しておく(「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)。

もし、一方で、哲学は、m'être (私-在、私-支配)の言説を典型的に表すなら、つまり、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら、《m'être à moi meme[我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる]》(Lacan,S.17)言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie]も同然である:ーー、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(Lacan,S.17)--を代替すべきだとする。それは、par-être の言説への代替である。パラ存在 para-being としてある言説、横にずれてある[être à côté]言説だ。
パラ存在論とは何か? それは、なによりもまず、シニフィアン(文字としての)の偶然性と物質性、その結果として、そのシニフィアンの上に乗る言語の法の偶然性と物質性にかかわる横方向からの lateral 存在論である。

(……)パラ存在論でさえ、必然性の存在論に陥る危険はある。それは、文字の偶然性という必然性の存在論だ。だから反哲学的「悪魔払い」は…結局のところ充分ではない。

ラカンは充分にこの危険に気づいていた。たとえば、セミネールXVIIにて、彼はこう言う、《哲学によるどんなアカデミックな言明、…もしそれが哲学ならいずれにせよ、ボククラシー[je-cratie]が避けがたく出現する》。

しかしながら、ラカンは同じように気づいていた、彼もそれを避けられない事実を(同様に、彼の精神分析的言説もまた、同じレヴェルで、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実を)。

要するに、我々はまず、哲学的存在論を m'être(私-存在)の言説として読むことを学ぶべきだ。それは、究極的に、つねにを「一」としての「世界 uni-verse(一界)」を支配しようとする挫折される試みを前提としている。したがって、その存在論に沿って、いやむしろその傍らでーー哲学的存在論と平行して動いている存在の「裏面 l'envers 」にて--、パラ存在(横にずれてあること[être à côté])を見いだすべきだ。

しかし、最も重要なのは、我々はまた、次のことを認めねばならないことだ。一方で、《言語は、哲学的言説の領野、その言説がそれ自身を繰り返して刻むたんなる領野より、その資源のなかにはるかに豊かさを証している》のだが、それにもかかわらず、「哲学的言説によって言い表されたある参照点」は存続する。《その言説は、どんな言語の使用からも完全には消去することは難しい》(S.17)から。

哲学によって支えられた伝統的な存在論は、ある程度は、超えがたいものだ。パラ存在論は、その名がはっきり示しているように、哲学的存在論を打ち負かしたり揚棄するものではない。哲学的存在論が…無意味だとして、それを除去しようとする動きを装っているのでさえない。(……)そうではなく、パラ存在論はむしろ、哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ。そして、文字の偶然性と物質性を指差し、その裏面 envers を暴く。……(Lorenzo Chiesa、2014)



2016年2月21日日曜日

クッションの綴じ目と社会的縫合

バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant)」の捕捉(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より私訳)

…………


【自己再帰的シニフィアン】

……しかし、不在自体が、現前として或いはポジティブな事実として機能するならーー例えば、女のペニスの欠如自体が「奇妙な事件」ならーー、現前(男のペニスの所有)もまた、その(可能なる)不在の背景に対してのみ生じうる。しかし、正確に言って、どのように? ここで、我々は、徴示的審級 signifying order への自己再帰性 self‐reflexivity を導入する必要がある。すなわち、ひとつのシニフィアンのアイデンティティは、一連の構成的差異以外の何ものでもないのなら、すべての徴示的連鎖は、一つの再帰的シニフィアンによって補充されなければならないーー「縫合 suture」されなければならない--。この再帰的シニフィアン自体は、いかなる確定した意味もない(シニフィエされることはない)。というのは、それは、意味の現前自体、その不在に対立したものとしての意味の現前の代わり「のみ」を表すからだ。


【マナと過剰シニフィアン】

そのような一つのシニフィアンの必要性を最初に全面的に詳述したのは、レヴィ=ストロースだった。それは、彼の有名な「マナ」解釈である。彼の成果は、神話や魔術の非合理的コノテーションを厳密な象徴的機能に還元して、マナを脱神秘化することだった。

レヴィ=ストロースの出発点は、定義上、意味の担い手としての言語は、全地平を覆いつつ、一度に発生するというものだ。《動物の生の上昇のなか、その不意の登場の瞬間と環境がいかなるものであれ、言語は唯一、突如一斉に現れうる。物が漸次に意味し始めたなどということはあり得ない》(レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』)。

しかしながら、この突如の出現は、シニフィアンとシニフィエの二つの秩序のあいだに不均衡を導入する。というのは、徴示する(シニフィアン化する)ネットワークは有限であり、シニフィエ全体の無限の領野を充分には覆い尽くせえないから。このように、《…人間はその出発から、シニフィエにいかに割り当てるかに当惑しつつ…、シニフィアン-全体性を配置する。

二つのあいだには、常に非等価性、あるいは「不適応」がある。この不適合、零れ落ちるものは、神の了解 divine understanding のみが吸収しうる。これが、諸シニフィエの領野に関して、一つのシニフィアン-過剰を生み出す…。

ゆえに、人間は、世界を理解しようとする試みにおいて、意味作用の剰余を常に処理している…。一つの補充配給の分配(ゼロシニフィアン)が、次のことを請け合うために断然必要なのだ。すなわち、全体として、利用できるシニフィアンと配置されたシニフィエが、相互補完性の関係のなかにあり続けるために。相互補完性とは、象徴的思考運動のまさに条件である。》(同、レヴィ=ストロース)

このように、すべてのシニフィアン化 signifying 領野は、補充のゼロシニフィアンによって「縫合」される。《ゼロの象徴的価値、すなわち、補充の象徴的内容の必然性(必要性)を徴付ける記号、シニフィエが既に含有するものの上に覆い被さるもの》(同、レヴィ=ストロース)。


【純粋状態におけるシンボル=浮遊するシニフィアン】

このシニフィアンは、「純粋状態におけるシンボル a symbol in its pure state」である。どんな確定した意味も欠如しており、意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。さらにいっそう弁証法的捻りを加えるなら、意味自体を表すこの補充シニフィアンの顕現の様相は、「非意味」である(ドゥルーズが『意味の論理学』でこの要点を展開したように)。こうして、マナのような概念は、《あらゆる有限の思考から逃れ去る「浮遊するシニフィアン」以外のなにものでもないものを表象する》(同、レヴィ=ストロース)。


【マナ=詩的過剰】

ここで最初に注意することは、レヴィ=ストロースは、科学的ポジティヴィズムに取り組んでいることだ。彼はマナの必然性を基礎づける。我々の言語の束縛と無限の現実とのあいだの裂け目のなかに、である。初期バディウやアルチュセールのように、レヴィ=ストロースは、縫合化要素の必要を生み出す欠如の弁証法から、科学を遮断する。

レヴィ=ストロースにとって、マナは「詩的 poetic」過剰を表す。それは、我々の無限の苦境の束縛を埋め合わせる。他方、科学の奮闘は、まさにマナを宙吊りにし、直接的な程よい知を提供することだ。

アルチュセールに従って、人は主張することができる。マナは、イデオロギーの基礎的作動因子だと。それは、我々の知の欠如を、言語を超えた「意味」の剰余のイマジナリーな経験へとひっくり返す。


【マナのラディカル化】

正当的な「縫合」に向かう次のステップは、三つの相互連関的な取り組みで構成される。

①マナの普遍化(ゼロシニフィアンは、単にイデオロギーの徴ではなく、全てのシニフィアン化構造の特徴である)。

②マナの主体化(シニフィアンの連鎖への主体の刻印の点として、マナを再定義すること)。

③マナの時間化(経験的ではなく論理的な時間性(一時性 temporality)、まさにシニフィアン構造へと刻印されるものとして)。
ジジェク注)レヴィ=ストロースにとって、象徴的構造は、構造のあらゆる可能な置換の「非一時的 atemporal 」母胎である。他方、ラディカル化されたマナは、構造のなかに、還元不能の「一時性 temporality」を導入する。他方、「浮遊する」ゼロシニフィアンは、「一」と「ゼロ」とのあいだ、存在と非存在とのあいだ、言語を絶した意味の充満と非意味とのあいだの、終わりなき揺れ動きである。これは、フロイトが反復性強迫とよぶものの最も基本的形式 formulaだ。


【ラカンのクッションの綴じ目と縫合】

…この三つの取り組みーーマナから「縫合」への決定的ステップーーは、ラカンによって、漸進的に成し遂げられた。始まりは、「ポワン・ド・キャピトン point de capiton」(クッションの綴じ目)概念の分節化だった。これは明らかに、「縫合」への明瞭な参照である。

レヴィ=ストロースにおけるように、「クッションの綴じ目」は、二つの領野、すなわちシニフィアンとシニフィエの領野を縫合する。ラカンは正確に言っている、《シニフィアンはシニフィエのなかに落ち入る》と。

※ジジェクは、“the signifier falls into the signified.”と記しているが、引用元の記載はない。

ただし、ラカンのセミネール20に次の表現はある。《il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié》

il y a du signifiant qui passe sous la barre. S'il n'y avait pas de barre vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié

(フィンク英訳)
Were it not for this bar above which there are signifiers that pass, you could not see that signifiers are injected into the signified.

(フィンク注)
Lacan's French here, vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié, is rendered a bit odd because Lacan doesn't say a signifier or several signifiers, but rather some signifier, in the sense un which we speak in Enghsh about "some bread" or "some water," in other words, as an unquantifiable substance. Here, signifier is injected into the signified, apparently like fuel is injected into an engine.

ーーー「シニフィアンがシニフィエのなかに投入される」とは、見たところ、「ガソリンがエンジンのなかに投入される」というようなものだ、とされている。


【名前による縫合】

《シニフィアンはシニフィエのなかに落ち入る》とは、正確な意味において、名前が、それが指し示す対象に含まれるということだ。ーーシニフィアンはシニフィエのなかに割り込まなければならない has to intervene into 、意味のまとまり unity の劇が上演されるためには。特徴や属性の多様性をたった一つの対象のなかに統合するunites ものは、究極的には、その名前である。

この理由で、どの名前も究極的にはトートロジカルである。例えば、「薔薇」は一連の属性をもった対象だ。しかし、これらの属性すべてのをひとまとめにするのは、名前自身である。

ーーここでジジェクが言っていることは、フレーゲのゼロ、「一」の定義(あるいはゼロから「一」への移行におそらくかかわる(参照:ゼロと縫合 Suture)。

かつまた、微妙な定義の相違を無視すれば、バディウの l'Un n'est pas と compte-pour-un にかかわる(参照:“Badiou, L'être et l'événement”)。

そして、バディウの概念は、ラカンのシニフィアン「一」 l'Un-signifiant(主人のシニフィアンS1)、「一の徴」trait unaire (フロイトの「ein einziger Zug」)に起源がある(参照:Count-as-one, Forming-into-one, Unary Trait, S1 by Lorenzo Chiesa、PDF)。

ジジェクの同じ書の別の箇所(現前と再現前(表象))をめぐる文を抜き出せば、次ぎのような説明がなされている。

「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。

結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳)

ーーこの文にかかわる核心は、ジュパンチッチのバディウ論([現前と再現前])である(Alenka Zupancic、The Fifth Condition”、2004、PDF)。いくらかの私訳は「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?」の後半を見よ。

ジジェクの縫合にかかわる説明は、この後もまだ長々続くが、ここでは、次の文だけを抽出して掲げておく。


【主人のシニフィアンの縫合と新しい階調】


〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー「あらゆるものを包みこむ「名前」による新しい階調」)

ーージジェクはここでランボーの詩「A une raison」に触れている(ラカンの『アンコール』に引用がある)。

Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.(君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる)

要は、ラカンやジジェクの、マナのラディカル化とは、主人のシニフィアンS1やサントームΣの縫合機能へと展開されてゆく。そして、資本の論理(市場原理主義)社会の(倫理的)崩壊状況に対抗するための社会的縫合機能として、マナ、あるいは浮遊するシニフィアンを捉えなおそうとしている。

このあたりのことは、何もラカン派でなくても、無意識的にであれ、気づかれている。

日本でも、辺見庸がしきりにいう「言葉を探そう」とは、この文脈で(も)捉えられる。

小泉義之ならこう言う(ラカン派的観点ーー少なくともセミネールⅥ以降の「大他者の大他者はいない」Ⱥのラカン(参照)ーーからは、超越的シニフィアンではなく、超越論的シニフィアンだが)。

仮に既成政党をガラガラポンするにしても、そのためには、既成政党を少しばかり越え出 る大義が必要である。外部注入が必要である。超越的シニフィアン、空白の玉座、空虚な シニフィアンが必須である。(「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


松浦寿輝は、戦前の「国体」概念を《シニフィエの空虚それ自体によって初めて有効に機能しうるシニフィアン》(松浦寿輝『国体論』)としているが、善悪は別にして、この「国体」という名もゼロシニフィアン(社会的縫合)の機能をもっていた、とすることができる。

現在、右翼側からのそれに近似したものは、「戦後レジームからの脱却」であり、左翼側からは、たとえば「世界共和国」(柄谷行人)だろう。

そもそもドゥルーズの「概念の創造」も、ラディカル化された「マナ」、あるいは「縫合」でありうる。

・単純な概念とは存在しない。あらゆる概念は、いくつかの合成要素をもち、それらによって定義される。

・あらゆる概念は少なくとも二重のものであり、あるいは三重、四 重等々である。一切の合成要素をそなえた概念と言うものもまた存 在しない。

・古代の哲学者たちは、自分たちの概念の創造をおこなったのであって、わた したちの時代の批評家や歴史家のように骨のすすを落とし、骨にぞうきんをか けるだけで満足するようなことはいささかもなかったのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何か』)

…………

ジジェクによる主人のシニフィアン解釈詳細は、「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)」を参照のこと。たとえば、上に掲げたランボーの「新しい階調」解釈のヴァリエーションとして次のような文がある。

主人のシニフィアンとはなにか? 記念すべき第二次世界大戦の最後の段階で、ウィンストン・チャーチルは政治的決定の謎を熟考した。専門家たち(経済的な、また軍事的な分析家、心理学者、気象学者…)は多様かつ念入りで洗練された分析を提供する。誰かが引き受けなければならない、シンプルで、まさにその理由で、最も難しい行為を。この複合的な多数的なもの multitude を置換しなければならない。多数的なものにおいては、どの一つの理屈にとってもそれに反する二つの理屈があり、逆もまたそうだ。それをシンプルな「イエス」あるいは「ノー」ーー攻撃しよう、いや待ちつづけよう…ーーに変換しなければならない。

理屈に全的には基礎づけられえない振舞いが主人の振舞いである。このように、主人の言説は、S2 と S1 のあいだの裂け目、「ふつうの」シニフィアンの連鎖と「法外の」主人のシニフィアンとのあいだのギャップに依拠する。〔ジジェク、2006)

2016年2月20日土曜日

バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant)

マナは神秘的であるのみならず、次元の異なったなにものかでもある。要するにマナは、まず第一にある種の作用、つまり共感的な存在の相互間に生み出される遠隔の霊的作用である。それはまた同時に、重さのない伝達可能な、そして自ら拡散する一種のエーテルである。(マルセル・モース『社会学と人類学 (1)』)
われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』) 

ーーと二つの文を並べたが、レヴィ=ストロースはモースの「マナ」概念を参照しつつも、より形式的に捉えつつ、「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」と言っている(いくらかのモース批判もあったはずだが、詳しいことは知らない)。

これはラカンによって、(まずは)「ポワン・ド・キャピトン point de capiton」(クッションの綴じ目)と言い換えられ、その後、ミレール=ラカンによって「縫合 Suture」概念が前面に出る。

これらは、ファルス、主人のシニフィアン、サントーム概念などにもかかわる(ジジェク2012にその詳細の説明があるが、そのうち訳して掲げるかもしれない。今日は歯痛で訳す気にならない。文章のパッチワーク程度が関の山だ)。


ミレールにとって、縫合は、Σ(サントーム)である。ジジェクにとっては、ファルスのシニフィアンΦS(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーが、主人のシニフィアン S1であり、シニフィアン「一」 l'Un-signifiant」である。


「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。

結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳ーー「ゼロと縫合 Suture」)


ジジェク解釈のサントームΣはどうか。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006ーー父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

ジジェク解釈では、ラカンによる「マナ」のラディカル化により、これらがすべて浮遊するシニフィアン、非意味のシニフィアン(ドゥルーズ)と相同性をもつ、としている。

…………

が、ここでは、それらに触れず、ロラン・バルトのマナをめぐる叙述を掲げるのみにする。

言語活動の生き物として、作家はいつもフィクションの(特殊語法の〔パレル〕)戦争に巻き込まれている。しかし、彼を成立たせている言語活動(エクリチュール)はいつも場所の外にある(アトピックである)から、彼は、そこでは、いつも玩具でしかない。多義的(エクリチュールの初歩段階)であるというだけで、文字のパロールの戦闘参加は始めから怪しい。作家はいつも体系の盲点にあって、漂流している。それはジョーカーであり、マナであり、ゼロ度であり、ブリッジのダミー、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。彼の位置、彼の(交換)価値は、歴史の動きや戦術によって変わる。彼には、すべて、および/あるいは 無が要求される。彼自身は交換の外にあって、利益ゼロ、無所得禅の中に没入する。単語の倒錯的な悦楽以外には何も得ようとせずに(しかし、悦楽は決して獲得ではない。悦楽と悟り、忘我の間に、距離はない)。逆説。すなわち、(悦楽によって死の無償性に接近する)エクリチュールのこの無償性を作家は沈黙させる。彼は体を引き締め、筋肉を堅くし、漂流を否定し、悦楽を抑える。イデオロギーの抑圧とリビドーの抑圧(もちろん、知識人が自分自身に、自分自身の言語活動に加える抑圧)の双方と同時に戦う作家は非常に少ない。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』)
マナとしての語

ひとりの著作者の語彙系の中には、つねにひとつ、マナとしての語の存在する必要があるのではないか。その語の意味作用、燃えさかり、多様な形をもち、補足できず、ほとんど神聖であり、その語から人は、それによって何にでも応えることができる、という錯覚を与えられる。その語は、中心はずれでもなければ、中心的でもない。それはみずから動くことなく、しかも運ばれ、漂流し、決して《仕切りの中にはめ込まれる》ことなく、つねに《アトピック》であり(どんなトピカからも逃れ)、残余であると同時に追加であり、ありとあらゆる記号内容をまとめて代表する記号表現である。その語は彼の仕事の中に徐々に姿をあらわした。それははじめのうち、“真理”の審級(“歴史”のそれ)において覆い隠されていた。次には“妥当性”の審級(体系と構造のそれ)において覆い隠された。が、今、それは開花している。その、マナとしての語、それは「身体」という語である。 (『彼自身によるロラン・バルト』)

悦楽 jouissance とは、享楽とも訳される。かつまた「漂流 dérive」という語にかかわり、身体 corps ともかかわる(参照:L'Autre、c'est le corps ! )。 バルトにとって、「浮遊するシニフィアン」とは、「漂流するシニフィアン」であり、これがマナである(おそらく、ラカンの「波打ち際 littorale」概念も漂流にかかわるだろう)。前回、「マークつきの空虚」も、バルトにとって、マナであるだろうことを見た。

・・・・・《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
フロイトのいう欲動 der Trieb を、ただちに本能 der Instinkt の概念に重ね合わせることはできない。本能とは『遺伝によって固定されたその種に特徴的な行動を示すための概念』であり、欲動とはそのような本能からのずれ、逸脱、漂流 dériveだからである(ラカン、セミネールⅩⅩアンコール.)

ーーということについては、「漂流(出現ー消滅)する女たち」にいくらかのメモがある。

わたくしは、上の文章群から、mana = S(Ⱥ) としたいのだが、ネット上にある英文、仏文では誰もそういっているのに当らないので、何かの間違えだろう。

…………

最後に注意しておくが、バルトの捉え方が、ラカンと同じとは限らない。

たとえば、ラカンのセミネールⅩⅣには次のような文がある。

……signifiant de A barré S(Ⱥ), à savoir la disjonction de la jouissance et du corps (p.197)

この時期の「身体 corps」、あるいは、この文脈での身体ーーマゾヒズムをラカンはこの前文で語っているーーをどう捉えるかにもよるが(ラカンには三つの身体がある)、言葉面だけをみれば、バルトの言い方とは合致しない。







2015年10月12日月曜日

構造的な類似(ネトウヨ/カウンター)

私は歴史に反復があると信じている。そしてそれを科学的に扱うことが可能である。反復されるのは、たしかに、出来事ではなく、構造あるいは反復構造である。驚くべきことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて、しばしば現われる。しかしながら、反復されるのは反復構造のみである。(柄谷行人"Revolution and Repetition"(「革命と反復」)UMBR(a) UTOPIA A Journal of the Unconscious 2008より私訳ーー「柄谷行人の「構造と反復」をめぐって」より)

…………

たとえば、レイシストや一般にネトウヨと呼ばれる種族がいる。それに対してカウンター運動をするーー野間易通氏に代表されるーー集団がある。野間氏は「きみたちのやっていることはネトウヨと変わらない」と指摘されると当然のごとく大いに反撥する。だが彼らが「悪」と決めてかかった対象に集団で叩きのめそうとするそのやり方は、「構造的には」ネトウヨの振舞いとかわらず集団神経症的であるだろう。それを否定しても始まらないということは言える。

肝腎なのは、その同じ構造からは別のファシズムの享楽が生れうるということに常に注意を払わなければならないことだ(参照:レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK))。

ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?(船木亨『ドゥルーズ』
あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。(……)

例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』)


『集団神経症と自我の分析』で集団の同一化(あるいはファシズム化)を研究したフロイト自身、集団神経症を解消するためには、別の集団神経症が必要だ、と言っている。すなわちファシストの集団神経症を解消するためには、カウンターの集団神経症が必要なのだ。それを柄谷行人はフロイトの最晩年の著作『モーセと一神教』に依拠しながら次ぎのようにまとめている。

「感情転移関係」とは、一種の偶像崇拝である。フロイトにとって、治療とは、それを人工的に再現することによってそこからひとを解放させることである。つまり感情転移関係を解消するために、別の種類の感情転移関係が必要なのだ。これは、ある意味で、モーゼにおいて、宗教(神経症)を解消するために、もう一つの宗教(一神教)が不可欠だったのと似ている。実際、世界宗教は「宗教批判」なのだが、それ自体やはり宗教なのだ。

一般に、世界宗教は、偉大な宗教的人格によって開示されたものだといわれている。しかし、そのような人格と弟子たちとの関係は、けっしてフロイトのいう「感情転移関係」をまぬかれるものではない。つまり、世界宗教も集団神経症によってのみ可能なのだ。だからまた、それが始祖の死後に、その死自体を儀礼的に意味づける共同体の宗教を作り出すことも避けられない。さもなければ、どんな偉大な人格も、世界宗教の始祖となりえなかっただろう。

フロイトの運動体においても、同じことが生じている。それは、フロイトへの完全な服従と敵対に二分されてしまう。いずれも「感情転移」なのだ。フロイトは、彼の描くモーゼに似ている。偶像崇拝を摘出しつづける彼は、彼を偶像化する集団を作り出すことになる。精神分析運動は、文字通り“宗教”となる。フロイトがこの危険に気づいていなかったはずはない。しかし、彼はその理論的な核心を放棄することはできない。そうすれば、精神分析が「偶像崇拝」の傾向に押し流されることは眼にみえているからである。(柄谷行人『探求』)

…………

ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)


レヴィ=ストロースなどにより「構造主義」の真の始祖とも呼ばれることがあるマルクスだが、つねに構造的に考えるのがいいわけではない。ただし経験主義者たちばかりが跳梁跋扈している世界では、マルクス的な構造主義的観点はことさら忘れないようにしなければならない。

こうした構造主義的な見方は不可欠である。マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。(柄谷行人『トランスクリティーク』p40-41)

〈あなた〉が途方にくれるようとくれまいとーーいやそれ以前に「構造」などがまるで視野に入っていない連中ばかりにみえる経験主義的日本ではことさら構造主義的観点が必要である。 それは合理論と経験論の対照といってもよい。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」

日本では経験論者がドミナントでありすぎるのではないか。とすれば合理的な構造主義的観点がぜひとも必要だろう。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

《三面記事的な偽の現場主義が支える物語的な真実の限界》 というものがあるのだ。

衆知を集めてことにあたれば、誤った断定をする気遣いのない時代に生きていると確信し、あるとき、根拠の根拠ともいうべきものが理性の統禦を離脱し、識別の基盤を揺るがせはしまいかといった疑念とはいっさい無縁の世界に彼は暮らしている。実証主義的な楽天性ともいうべきものが、彼にたえず断定の根拠を提供しているのだ。(同『凡庸な芸術家の肖像』)

《根拠の根拠ともいうべきものが理性の統禦を離脱し、識別の基盤を揺るがせはしまいかといった疑念とはいっさい無縁の世界に彼は暮らしている》の「彼」を誰もが免れない。ときに自らの行動が正義だと思い込んでいる連中はなおさらである。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(『看護のための精神医学』中井久夫
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)」)

ところで、なぜあんなに経験主義者ばかりが跋扈しているのだろう? わたくしは日本人の言動にはツイッターでしかほとんど遭遇することのない海外暮らしだが、ツイッターとはそもそも経験主義者の場なのだろうか。いやツイッターという「構造の場」で語れば人は経験主義者になってしまうのだろうか。

蓮實)それにも、こっちはやや責任がないわけではないけれども、構造主義が定着しなかったのは、そもそも構造というものが思考しがたいというのが、ひとつあるわけでしょう。構造は図式ではなく機能する形式だという点で、思考の対象たりがたい。それはやはり歴史的な体験の欠如からくるものでしょうね、たぶん。だから機能する構造の歴史を見てゆけば、構造主義になるはずだということがあると思うわけ。

ただし、もうひとつ機能する形式に対する感性の不在ね。三島由紀夫だってそうした形式に対しての感性はまったくないと思うわけ。

柄谷)ないね。

蓮實)形とかフォルムとか、そういうものに対する感性が彼には欠けている。彼が持っているのは、機能を停止したあとの形式のイメージにすぎない。だからせいぜい安保の対応をどうかするという程度のことでしょう。形式は生きられていないですよね。

その形式に僕は魅かれます。だからレヴィ・ストロースを読んで、いろんな不満があったって、最終的にはやっぱり偉い人だ。三島を読むより、文学的に高度な興奮を与えてくれますもの。しかし、なぜ批評がフォルムを括弧に括った形で平気でいられるんだろう。

いわば形式に眩惑されていないわけね、眩惑されれば恐ろしくて逃げるやつが出てくると思う。それはいいのです。フォルムなんて怖くてやってられないっていって。ところが怖くて逃げているわけじゃなくて、それはそういうものもあるだろうけれども、適当にそれなしでやっていけると高を括って無感覚に安住する形で避けているだけなんですね。(蓮實重彦/柄谷行人『闘争のエチカ』)

ラカンの四つの言説理論も、人の発話行為ーーそれだけではないがーーの構造的観点が重視されていることは「シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説)」などでいくらか見た。

……ラカンは逆に内容を超えて作業し、発話行為から導き出された言説の形式的関係にアクセントを置く。これが意味するのは、ラカンの言説理論は先ずはどんな話された言葉からも独立した形式的システムとして理解されなければならない、ということだ。

言説は具体的に話されたどんな言葉以前に存在する。その上こうも言える、言説は具体的な発話行為を決定する、と。決定論の結果はラカンの基本的な仮定の反映である。すなわちどの言説も特定の社会的紐帯によってもたらされる基礎的関係性を描写するのだ。(Paul Verhaeghe,1995)

すなわちラカンの言説論とは、言説主体は、《主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産》(マルクス)であるという理論であり、四つの言説のそれぞれの場に置かれらば、《彼らがおかれる場によって規定されて》(柄谷行人)しまうということを教えている。

…………

「構造」は、はじめのうちは良き価値であったのに、あまりにもおおぜいの人びとの念頭で動きのない形式(「設計図」、「図式」、「モデル」)として考えられているということがあきらかになったとき、信用を失う羽目となった。が、幸いにも「構造化」ということばがそばにあった。そしてそれが、役わりを引き継ぎ、飛切の有力な価値を含意することとなったのだ。すなわち《つくり、おこなうこと》、倒錯的な(「何のあてもない」)費用支出、という価値である。(『彼自身によるロラン・バルト』) 
要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。(レヴィ=ストロース『野性の思考』大橋保夫訳 P65-66) 

もちろんロラン・バルトの文に示唆されているように「構造的」理論ーーあるいは理論一般ーーを妄信してはならないのは既に周知だろう。

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。

(……)理論の批判は、理論によってしか可能でない。そしてそれは、それまでの理論が「思考せずに済ませていたこと」を思考することによってのみ可能なのである。(……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その理論に内在していた盲点と限界とが同時に露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)



2015年9月23日水曜日

貴種流離譚変奏としてのフロイトエディプス理論

(フロイト理論というのは)ある場合は、経験から神話へと進行する、そして神話から構造へと。他の場合は、事実を説明するために神話が発明される。言い換えれば、(フロイトは)患者を診察するかわりに病人のように振る舞っている。(レヴィ=ストロース 『親族の基本構造』)

ーーこのように記すレヴィ=ストロースは、他方、『悲しき熱帯』にて、若き彼の二人の真の師としてマルクス、フロイトを掲げていることに注意しておこう。

…………

マルト・ロベールは、フロイトの「家族小説(ファミリー・ロマンス)」概念を元に「私生児」と「捨子」という類型を提唱したのだが、たとえばあらゆる作家はこの二類型に分類されるとしている(『起源の小説と小説の起源』)。これはいわば貴種流離譚の精神分析ヴァージョンであり、小説の分析ではなく物語の分析としては、実際のところ多くが当てはまる。村上春樹の小説などはその典型だろう。

蓮實重彦もその『小説から遠く離れて』にてマルト・ロベールに言及しているのだが(P.185)、マルト・ロベール=フロイトの「私生児」あるいは「捨て子」概念を援用した日本ヴァージョンの物語分析としてまずはよい。「まずは」、としたのは蓮實重彦はマルト・ロベールのような分析にはウンザリするといっており、『小説から遠く離れて』という表題は反語であり、物語/小説の対比がなされて後者の顕揚がなされるのがこの書のテーマだからだ。

とはいえ実際のところ日本の(すくなくともある時期の)名高い作家たちの作品は似たような物語構造に当て嵌まってしまう。

どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故に、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡されべき権力と発見される貴重品とは、深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛か、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ、貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』P250)

このように物語構造が洗い出されてしまった作品群は主に次ぎの七つの長篇小説だった。

村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982)
井上ひさし『吉里吉里人』(1981)読売文学賞、日本SF大賞
丸谷才一『裏声で歌えよ君が代』(1982)
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)野間文芸新人賞
中上健次『枯木灘』(1977)
大江健三郎『同時代ゲーム』(1979)
石川淳『狂風記』(1980)


…………

ところで貴種流離譚とは、捨て子であれ私生児であれ、私の親はいま私を養育してくれている親とは違う最も偉大な親だ、私は偉大な血統生まれなのだ、とまずは思い込む事態だろう。私生児であるなら、母から生まれた起源は否定しないまでも、父はどこか別の場所にいると空想された「貴人」なのだ、と思い込むことだ。

だがフロイトはこうも書いている、すなわち実際のところ、子どもは父の代替者を創造することはそんなに多くない、むしろ父をひどく高い場に置き直す、と(『ファミリーロマンス』)。

この置き換えは、父(あるいは母の場合もある)が疑いようもなく至高の権威であることを疑わなかった喪われた幼児期への憧憬の表現だ。

フロイトの原父の神話とは、実はファミリーロマンスのフロイトヴァージョンではないか。彼のエディプス理論は神経症の主体が構築する「家族小説」と似ている。疑いようもない父の権威の歴史的な支えをフロイトは幻想的に(神経症的に)作り出したのではないだろうか。

まだ若い頃のラカンは『les complexes familiaux(家族複合)』(1938)にて、当時の家族と社会における父の家父長的なイマーゴの下落が精神病理の主な原因であるとしている。彼は精神分析はこの危機から生まれたとさえ言っている。

この洞察を引き継ぎ、かつラカンの四つの言説理論を援用して、Serge Andre( “What Does a Woman Want? ”2000)は、シニカルなひねりを加えこう言う、《ヒステリーの主体は、主人の形象が必要である。これが精神分析を創作する手助けをした》と。

ラカンも後年(セミネールⅩⅦ)、エディプス理論はフロイトの夢である、と言っている。

Ce qui est clair c'est que… simplement à voir comment FREUD articule ce mythe fondamental : qu'il est véritablement abusif de mettre sous la même accolade qu'ŒDIPE… qu'est-ce que MOÏSE… foutre de nom de Dieu, c'est le cas de le dire ! …a à faire avec ŒDIPE et le père de la horde primitive ? …c'est qu'il doit bien y avoir là-dedans quelque chose qui tient du contenu manifeste et du contenu latent, que pour tout dire et pour conclure aujourd'hui, je vous dirai que ce que nous nous proposons, c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD. (Lacan,Le Seminaire XⅦ)

夢、すなわち症状である。エディプス理論はフロイトの症状なのである。

だが症状であって何がわるいのか、ーーと記せば言い過ぎである。治療者としてのフロイトが患者にフロイト自身の症状を使って治療したらわるいにきまっている(次投稿に記す予定)。

だがラカンは『セミネール22』(RSI)にてこう宣言している、《症状のない主体はない》。もっともラカンの「症状」概念は後年変遷していることに留意しよう(参照)。

いずれにせよ、ラカン晩期のサントーム理論自体エディプス理論の再構成として捉えうる(「主体の解任destitution subjective」後の主人のシニフィアンS1構築とさえいってよい、参照)。とすればラカンのサントーム理論もラカンの症状ではないか・・・、だが我々には症状が必要なのだ、「ポワン・ド・キャピトン(クッションの綴じ目)」が(より詳細には《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)にかかわる、参照)。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

この新しいシニフィアンはS1、あるいはΣとも記されるのだがーーミレールは”S of barred A as sigma”とさえしている、S(Ⱥ)の定義のラカンの変遷はあるにしろ(参照:「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)、ある時期のこのマテームは、すなわち S(Ⱥ)=Σと読めるのだ(“Lacan's Later Teaching”)ーー、実のところ「父の名」の個人ヴァージョンなのだ。イデオロギー的父の名を取り払い(主体の解任)、新しく個人独自の父の名を構築するのがサントーム理論である(参照)。

実際、ミレール派の分析家からはこんな言葉さえ洩れている。

《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。(同Thomas Svolos,私訳)

ここでジジェクの主人のシニフィアンS1の思いがけない簡潔な定義を挿入しておこう。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

ーーそもそもこの私には驚くべき定義がはたして正しいのかを探るために、S1やらΣやらS(Ⱥ)やらΦやら父の名やらの繋がりを調べだしたのだが、ひどく手間がかかった。

ただしおかげで今では次ぎのような文に巡り合っても驚くことはなくなった。

タトゥー(刺青)は身体との関係における父の名になるだろう。(J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009

…………

さて、ここで「偽装された自叙伝」としても読めるフロイトの『夢判断』からぬき出しておこう。彼は名高い「ローマの夢」の記述のあと、次ぎのように書いている。

……ハンニバルは私の少年時代の大好きな英雄だった、少年の誰でもそうであるように、私もカルタゴ戦争のあいだローマの戦士たちではなく、カルタゴの英雄に心を惹かれていた。さて上級生になって自分が異人種の血を引いているといいうことのもたらすいろいろの結果がわかりはじめ、また同級生間の反ユダヤ的な感情を見て、これはぼんやりしていられないぞと思いはじめるときがきてからは、このユダヤの英雄はますます偉いものに見えてきた。青年時代の私には、ハンニバルとローマとは、それぞれユダヤ人の頑張りと旧教教会の組織との象徴のごとくに思われた。爾来反ユダヤ運動がわれわれの情意生活に対して持っている意義は、幼少時代の思念や感情を固定せしめた。かくしてローマを訪れたいという願望は、私の夢の生活にとってはその他いろいろの烈しい願望の仮面かつ象徴となったのである。そして私はそういう数々の願望の実現にはかのハンニバルのごとき忍耐と専心とをもって当らなければならず、また、それらの願望の充足は、ローマに進駐したいというハンニバル畢生の願望のごとく、時には運命の恵みを享けることのまことにすくないもののように思われるのである。

さて今にしてようやく私は、すべてこれらの感情や夢のうちに今日もなおその威力を示している少年時代の一体験に到達するのである。

十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしえこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」 これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢判断』上p254 新潮文庫 高橋義孝訳)

《爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきた》、--ここにエディプス理論の起源のひとつがあるに相違ない。


(つづく)


2015年8月11日火曜日

リベラル学者という道化師たち

「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)
ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです。(fフロイト「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)
建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)

須賀敦子はこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか》と。(『遠い朝の本たち』)

さてこうやって一見「異質」の作家の言葉を並べてなにが言いたいというのか。もう少し並べてみよう。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)
『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(バトラー、ラクラウ、ジジェク))

ここまで列挙して、なにが言いたいのかわからない人たちは、いささか精神の「不自由」をもっていると推定せざるをえないが、ツイッターなどでもっともらしい見解を開陳している学者や研究者たちとはそのたぐいである。

すなわち彼らは《知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れ》えないーーフロイトのいう「ユダヤ人」とはほど遠い存在、共同体の椅子の中に《ちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしている》連中ということになる。

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)
文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)

以上は、ツイッターを眺めていると、ときおり掲げてみたくなる「年だけいった大ども」のたぐいの変奏である。