「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)
ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです。(fフロイト「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)
建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)
さてこうやって一見「異質」の作家の言葉を並べてなにが言いたいというのか。もう少し並べてみよう。
プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)
『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(バトラー、ラクラウ、ジジェク))
ここまで列挙して、なにが言いたいのかわからない人たちは、いささか精神の「不自由」をもっていると推定せざるをえないが、ツイッターなどでもっともらしい見解を開陳している学者や研究者たちとはそのたぐいである。
すなわち彼らは《知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れ》えないーーフロイトのいう「ユダヤ人」とはほど遠い存在、共同体の椅子の中に《ちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしている》連中ということになる。
学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)
文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)
以上は、ツイッターを眺めていると、ときおり掲げてみたくなる「年だけいった大ども」のたぐいの変奏である。