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2015年8月10日月曜日

主体→主語→主観、あるいはラカンのディスクール論

ラカンは1972年ミラノでの講演「Du discours psychanalytique」において次ぎのような図を提示したそうだ(実際にそうだったのか、後に解釈者がラカンの発言を解釈してこう記したのかはたしかではないが)。


La foule à l'heure du discours capitaliste


(ここでは五番目の資本の言説については触れない。)

ここで注目したいのは、この四つの言説論の提示は通常流通しているものとは異なり斜交いの矢印が付け加わっていることだ。

以下は藤田博史氏による通常版である。




ほかに、英語圏では基本文献となっているベルギーの精神分析医ポール・ヴェルハーゲの四つの言説論においてもこれと同じ形の説明がある(参照:「教えることと精神分析」Paul Verhaegheーーラカンの四つのディスクール論)。ジジェクも同様。


では、あの斜交いの矢印はどのように説明されるのか。Serge Lesourdによる次のような解釈がある。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )




…………

四つのディスクール論とは直接的には異なるが、Serge Lesourdの同じ書から間主体性(間主観性)の説明がこのようにある。

最初の要素は次の通り。他the otherは発話環境において主体のパートナーとして含まれている。それは言説の主体としてではない。

事実、人間のコミュニケーションは二人の個人のあいだの均等な交換ではない。そうではなく、コミュニケーションとは言説(ディスクール)なのであり、そこでは主体は主体自身によって構築された他anotherへ話しかける。それはこの他otherが友人であっても変わらない。

それゆえコミュニケーションとは二人の主体のあいだの間主体的なものではない。二人の人物のあいだにおいて、主体Aーー〈私〉と呼ぼうーーは主体Bではない或る主体に話しかける。そして主体Aに応答する〈あなた〉と呼ばれる主体Bは本当は彼の言説の他the otherに応答するのだ。

間主体性という誤解に満ちた特徴の全てのダイナミズムはこの論述構造の特異性から来る。

〈私〉は〈あなた〉に話しかけるのではない。そして〈あなた〉がこの〈私〉に応答するとき、〈あなた〉が応じているのは実際はこの〈私〉ではないのだ。

これがフロイトが転移的反復において発見したことである。すなわち私が話しかける人the oneは内部の他internal other、彼自身の言説の他であり、現実の他者ではない。

《主体は主体自身によって構築された他anotherへ話しかける》とは、とても「おもしろい」指摘だ。というのはつい最近、柄谷行人による西田幾多郎の観点を備忘メモしたところだからだ。

たとえば、一人称が聞き手との関係によって違っているような日本語では、一人称と「主体」が混同されることはけっしてなかった。しかし、日本語に「主語がない」ことは、日本語で語る人間に「主体」が無いことをすこしも意味しない。逆にいって、そうした文法的条件は、近代的な主観を乗り越えることをも意味しない。今日、日本語では、文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体と区別されている。そうしたのは、西田幾多郎であった。この区別は、日本語の性質から直ちに来るものではない。そこに、こうした語が混同されている西洋哲学への「批判」がある。(柄谷行人「非デカルト的コギト」1992『ヒューモアとしての唯物論』所収 p.87ーー「人間の思考はその人間の母語によって決定される」より)


欧米語では混同されているsubjectは、日本語では主語、主観、主体とされるとある。

ここでSerge Lesourdの叙述を活かして、次のように措定してみよう。

主体とは、ラカン派では無意識の主体である。
主語とは、発話主体としよう。
主観とは、主体が構成した他としてみよう。


ラカンの四つの言説の形式的構造を再掲すれば次ぎの通り。




真実のポジションに「主体」、話し手agentのポジションに「主語」、他のポジションに「主観」を入れることができるのではないか。

《主体は主体自身によって構築された他anotherへ話しかける》という文を、主観としての他者に話しかけるとすれば、であるが。

次に四つの言説のうちの一つ、主人の言説の図を掲げる。


真理のポジションにある $ は分裂した主体(無意識の主体)である。ここには西田幾多郎のいう「主体」を置くことができる(もちろん西田には無意識概念はないのだから、同じものではないが)。

話し手AGENT(SEMBLANT 見せかけの主体)は、S1である。ここには「主語」を置くことができる。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom” とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ポール・ヴェルハーゲ 1998)
「私」を意味する(signifies)シニフィアン(言表行為の主体)は、意味されるsignifiedもののないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は、主人のシニフィアン (S1)であり、それは「普通の」シニフィアン(S2)の鎖とは対照的である。(ジジェク2012)

S2のポジションに、「主観」が置かれ得るのは、上に見たとおり、《主体(主語)は主体自身によって構築された他anotherへ話しかける》という文を、主観としての他者に話しかけるとすることができるだろうためである。

あるいはラカンの言葉を持ち出して「シニフィアンS1は、主体を他のシニフィアンS2に対して代表象する」“Le signifiant, c’est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”を援用してもよい。

「(分裂した)主体」という真理を抑圧した「主語(私)」は、主観に代表象されると。

こういうわけで生産物のポジションには剰余享楽aが生まれ、〈私》の発話行為のたえまない循環が続く。



主語  →  主観

↑        ↓

主体    剰余享楽



ーーもちろん、いささか「主観」と「主語」との区別が強引であることは知っている。試みにこう置けるのではないか、という「思いつき」に過ぎない。


…………

※附記:ラカン、セミネールⅩⅦより

Le Je transcendantal, c'est celui que quiconque… à énoncer un savoir d'une certaine façon …recèle comme vérité le S1, le « Je » du Maître. Le « Je » identique à lui-même, c'est très précisément ceci dont se constitue le S1 de l'impératif pur, c'est-à-dire très précisément celui où le « Je » se dérobe, car l'impératif est toujours à la deuxième personne.

Mais le mythe du Je idéal… - du Je qui maîtrise, - du « Je » par où au moins quelque chose est identique à soi-même, à savoir l'énonciateur, …est très précisément ce que le discours universitaire ne peut éliminer de la place où se trouve sa vérité. (Séminaire 17 Staferla 版 p.82)

(英訳)
The transcendental „I‟, is the one that whoever has announced a knowledge in a certain way conceals as truth, the S1, the „I‟ of the master. The „I‟ identical to itself, it is very precisely from this that the S1 of the pure imperative is constituted. The imperative is very precisely where the „I‟ is developed [concealed?], because it is always in the second person.

The myth of the ideal I, of the I that masters, of the I by means of which something at least is identical to itself, namely, the speaker, is very precisely what University discourse cannot eliminate from the place where its truth is found.