すなわち「作家の思考はその作家のスタイル(文体)によって決定される」と。
とすれば、ニーチェやロラン・バルトのいう文脈ではどういうことになるか。
ロラン・バルトのいう《アリストテレス哲学の主要概念が、ギリシア語の主要な分節によっていわば制約をうけていることをわたしたちは知っている》――そうであるならば、作家の思考は、その文体の主要な文節によって制約をうけている、ということができる。
あるいはニーチェのいう《彼らの思考は発見ではなくて、むしろ再認識、回想、それらの概念がかつてそれより生まれきたりしところの遠きいにしえの霊魂の共有財への復帰であり、帰郷である》《ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある》も同じような言い方で変奏できるだろう、文体の呪縛は思考の呪縛である、と。
もっともここでわたくしは「文体」という言葉を安易に取り過ぎているのかもしれない。
「美しい書物は一種の外国語で書かれている・・・・・・」(プルースト)これが文体の定義だ。これはまた生成変化の問題だ。人々はつねに多数者の未来を想う(私が偉くなったら、権力をもった時には・・・・・・)。だが、問題は少数者=になることにかかわる。子供、狂人、女性、動物、どもり、あるいは外国人、彼らのふりをするのではない。彼らをつくり出すのでも模倣するのでもない。新たな力、新たな武器を創出するために、それらすべてになることである。(ドゥルーズ『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)
文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。(同『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)
このドゥルーズ=プルーストの言葉をそのままとれば、文体とはたえざる革新のこととさえ読むことができる。馴れ親しんだ自らの文体を模倣するだけなら、それは「外国語で書かれている」ことにも「吃る」ことにもならないだろうから。
…………
いったん成功した「芸術家」の辿る道として、四つの仕方がある、と中井久夫は指摘している。第一は「自己模倣」、第二は「絶えざる実験」、第三は「沈黙」、第四は「自己破壊」と。この第二と第四は、自らのスタイルに囚われる陥穽を自覚した「芸術家」の「辿る道」といってよいのではないか。すなわち自らの創造行為がそのスタイル(文体)によって決定されてしまっている呪縛から逃れようとする振舞いと。
他方、第一の「自己模倣」に陥る芸術家は腐るほどいる。あのグレン・グールドさえそうであった、と高橋悠治はいっている。
グールドはやはり1950年代に自己形成し そこから一生逃れられなかったのだろう スタッカートで分離された均質な音と 極端に速いか極端に遅いテンポの対照 数学的と言うよりは数字的な精密な細部決定の徹底 それらは同時代アメリカの音列技法による音楽 ディジタルなコンピュータ・アートに向かう制御の思想とおなじ根から生まれた(高橋悠治「グレン・グールドふたたび」)
とはいえ、この「自己模倣」が必ずしも悪いわけではないとも言える。それは第三の「沈黙」に耐える力があるならば、《その世界は深まり、その手法は発展する》ことがありうる。
たとえば〈あなた〉は終生スタイルの変わらなかったゴッホやセザンヌと絶えざるスタイルの変化を実践したピカソのどちらを好むか。
若い画家は、教師を見習うことから始める。すでに完成された様式のいくつかを次々に試みながら、自分自身の世界を見出そうとする。多くの場合には、そういう時期が生涯にわたり、画家は遂に自分自身を見出さないだろう。しかし彼が天才ならば、あるとき、自分自身の様式、その独特の空間と色彩、個性的な手法と共に彼自身の絵画的世界を発見するだろう。オランダの油絵の伝統的な様式で静物画を描き、印象派の手法で風景を描いていた青年画家が、アルルの町である朝眼をさますと、ファン・ゴッホになる。
一度自己の世界を発見した画家は、二度とその世界から離れることがない。その世界は深まり、その手法は発展する。しかし一つの様式から、根本的に異る他の様式へ移ることはなく、殊に二つの様式を併用することはない。その世界は汲めども尽きず、その様式を通して表現し得ることにはかぎりがないだろうからである。たとえばデュフィは、青い海と空、椰子の樹と露台の花を、ルオーは、道化師の顔と月夜の道を行く人物を、生涯描きつづけてやまなかった。逆に、生涯多くの様式を用いつづけた画家は、デュフィやルオーと同じ意味での一流の芸術家ではなかった。
例外はピカソである。周知のように、ピカソの様式は時期によって異る。また同じ時期にも多くの様式が併存する。しかもその各々が、独立した絵画的世界を作り、一流の画家が生涯をかけて到達した仕事に匹敵していた。たとえば「青の時代」の老婆の肖像や自画像は、今世紀の絵画の最高の作品にちがいない。同じことは、立体主義の時代の静物画についてもいえるし、「アヴィニヨンの娘たち」に代表される時期の裸女の絵についてもいえるだろう。ピカソは自己の様式を探していたのではなく、多くの自己の様式を発見したのである。彼だけは、芸術家としての、複数の生涯を生きた。
しかし表現様式の多様性は、必ずしも題材の多様性を意味しない。ピカソは、生涯を通じて、ほとんど常に、人体を、殊に女の身体を、また殊に「モデル」として特定の女の姿態を、描きつづけた。ピカソこそは、あらゆる意味で、女を愛し、女を描いた芸術家である。
一九五三年の夏にペルビニヤンで出会ったというジャクリーヌ・ロークの肖像画の連作を、翌年七月パリの個展で私は見た。その連作は、写実的な具象画から始めて、抽象化の度合を異にする同じ「モデル」の肖像が、遂に女一般となり、さらに抽象化を進めて、もはや、それが女であることさえ判じ難い「もの」と化するまでの過程を、一望の下に明示していた。しかし、それは抽象化の過程の説明ではなかった。そうではなくて、それぞれの段階における画面の、それとして独立した堅固な世界の展示であった。その一つが「花とジャクリーヌ」(1954年6月)である。青と赤の背景、そこに散らした白い薔薇、太く黒い線で浮きあがらせた若い女。その女の顔の表情は、通った鼻すじと結んだ口もとに、険しくはないが断乎として意思を示し、大きな眼の輝きに、優しくはないが微妙な感情の動きを示す。けだし絵のなかの女の表情のこれ以上に美しい例は、少ないだろう。……(加藤周一『ピカソの女たち」)
以下、中井久夫の文を貼りつけておく。
「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」(初出1996)からだが、各パラグラフに小題をつけておこう。
【癒しとスタイル】
私は文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなりうると考える。それは癒しの十分条件ではないが必要条件であると私は思う。
むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。( ……)
【処女作の豊饒さの喪失】
しかし、文体獲得を以て万事よしとすることはできない。
芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。
作家となることは実にしばしば流入する体験が偏り、狭くなることである。わが国の作家が世に知られるとともに文壇と家庭の事件を書くことになってしまう例はいくらでもある。
【創造的てありつづけることの困難】
一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。
一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。
【自己模倣】
「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。
【実験】
「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。
【沈黙】
第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。
【自己破壊】
第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。
【昇華と自己破壊】
サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。
…………
ここでの話とはあまり関係がないかもしれないが、ロラン・バルトのエクリチュールの考え方の推移を附記しておく。
バルトの翻訳者かつ研究者の石川美子さんは次のように書いている、
47年には「文体」との明確な区別がなかった「エクリチュール」は、53年には「文体」とは異なるものとして定義され、70年代になると螺旋を描くように「文体」の近くへもどってきたということである。その後も、彼は「エクリチュール」の意味を自在にひろげてゆく。書く行為、書くことそのもの、書きかた、書かれたもの、といった単純な意味でもちいることもあった。(ロラン・バルト『零度のエクリチュール「解説」』)
バルトにとって、「エクリチュール」はもっとも重要な概念であるが、彼はその意味をたえず変化させてきた。1971年に、彼はつぎのように総括的に語っている、「『零度のエクリチュール』[1953年]では、エクリチュールはむしろ社会学的な、とにかく社会=言語学的な概念でした。集団の、知的グループの個人言語であり(……)、一国民の体系であるラングと一主体の体系である文体のあいだに位置するものでした。(……)そして新しい理論では、むしろわたしが文体と呼んでいたものの位置をしめるようになっているでしょう。(……)今日ではさらに進んで、エクリチュールとは個人言語(かつての文体のような)ではなく、ひとつの言表行為であり(言表されたものではなく)、その行為をとおして主体は、白いページという舞台の上で、みずからを散逸させたり斜めに身を投げかけたりしながら、みずからの分割を演じてゆくのです」(「答え」)。とはいえ、バルトは、書く行為、書くことそのもの、書きかた、書かれたもの、といった単純な意味で(ただし、つねに快楽に結びついたものとして)「エクリチュール」の言葉をもちいることもすくなくない。(ロラン・バルト『記号の国』石川美子訳 本文注 p12)
あまり上の文脈とは関係がないとしたが、おそらく「文体」といわず「エクリチュール」といえば、自己模倣などありえず、たえざる革新ということがいえるのではないか。
上に引用した中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」には次のような文もある。文体が「言語の肉体」であるのなら、それを「革新」するとはどういうことなのか?
「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。
その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。
もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。
傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。
いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫 「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて)
この1996年ーー阪神大震災の翌年ーーに書かれた「文体論」自体、 中井久夫にとってなんらかの「癒し」になっているのではないか、と推測される見事なエクリリュールである。2000年前後につづけざま発表される心的外傷論を当然のこと準備していた時期であろう。
ここには、まさにロラン・バルトのいう《白いページという舞台の上で、みずからを散逸させたり斜めに身を投げかけたりしながら、みずからの分割を演じてゆく》言表行為がありはしないか。