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2024年2月6日火曜日

社会主義はイデオロギーとしての資本主義の最も忠実な体現者

 「カツ、おまえの仕事は、時代を二十年先駆けている」に引き続くが、冷戦終焉当時、最も感心したのはーーああ、こんな見方があるのか、とビックリしたのはーー、岩井克人の「二つの資本主義」の指摘だったね。イヤイヤ、この今だってすこぶる感心する。


◼️『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より


【二つの資本主義:資本の主義/資本の論理】 (イデオロギーとしての資本主義/現実としての資本主義)

岩井克人)じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。


実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 

そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。


と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。


社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。



【資本の論理=差異性の論理】 

……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。


それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)




《社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならない》、主義としての資本主義とは先にあったようにイデオロギーとしての資本主義のことだ。


上のは語りだが、ほぼ同時期に次のように書き直されている。ここでは「理念としての資本主義/現実としての資本主義」だ。



存在と意識は乖離する。現実と理念とは乖離するといってもよいだろう。それは資本主義にかんしても同様である。それゆえ、われわれは、資本主義の「理念」を資本主義の「現実」と区別することからはじめてみよう。


資本主義の「理念」――それは、古典派経済学・マルクス経済学・新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて想定してきた教科書的な資本主義像のことである。そして、その最初の本格的な描き手は、いうまでもなくいま全世界で盛大に没後二百年を記念されているあのアダム・スミスにほかならない。


市場で売り買いされる商品の価格は、日々の需給の条件によってはげしく変動している。だが、スミスは、この一見混沌とした市場価格の動きが、あたかも神の見えざる手にみちびかれるように自然価格に向かっていく傾向をもっていると論じたのである。ここでスミスのいう自然価格とは、商品生産のために投じられた生産要素がすべて正常な報酬率を支払われているときの価格であり、人間の経済活動を究極的に支配する唯一普遍の自然法則を体現したものであるとされる。


「見えざる手」の発見ーーそれは、資本主義をひとつの価格体系によって究極的に支配されている閉じたシステムとみなす、資本主義の「理念」の誕生であった。それは同時に、混沌とした経済現象の背後にある合理的な法則性を見いだす「科学」としての「経済学」の誕生でもあったのである。


その後リカードやマルクスは、スミスの自然価格論を労働価値説におきかえ、商品の価格を生産のために直接間接に投入される人間労働の大きさによって究極的に規定することになる。また、ワルラス、メンガー、ジェヴォンズによって創始された新古典派経済学は、スミスの自然価格を均衡価格と解釈しなおし、消費者の主体的な選好を考慮した限界原理をもちいて決定しなおすことになる。


もちろん、資本主義は資本の蓄積のために利潤を必要とする。それゆえ問題は、単一の価格体系に支配されている閉じたシステムから、いかに正の利潤が生みだされるかを示すことにある。一方のリカードやマルクスは、その源泉を人間労働の剰余価値生産にもとめた。産業革命によって飛躍的に向上した労働生産性により、資本家は労働者にみずから消費する商品の価値以上の価値をもつ商品を生産させうるようになったというのである。他方の新古典派経済学は、利潤率は長期的には利子率に等しくなるとし、この利子率の水準を消費者の時間選好の代価として決定することになる。だが、この二つの経済学派がいかに対立していようとも、いずれも資本主義を閉じたシステムとみなすスミスの「理念」を継承している点では変わりはない。


そして、皮肉なことに、この資本主義の「理念」のもっとも忠実な信奉者であったのは、ほかならぬ社会主義であったのである


もし混沌とした経済現象の背後に合理的な法則性が存在しているとするならば、その法則性を意識的に支配する可能性がうまれることになる。事実、市場の「見えざる手」は、この法則性を無政府的に作用するたんなる平均として実現しているにすぎない。


社会主義とは、この市場の無政府性を廃棄し、中央集権的な国家統制のもとで、労働をはじめとする生産要素の社会的な配分を資本主義以上に「合理」的におこなうことを意図したものである。それは「見えざる手」の実在を信じ、それをいわば「見える手」におきかえる試みとして解釈することができるだろう。その意味で、社会主義とは資本主義の「理念」の真の落とし子にほかならない。


だがじつは、「現実」としての資本主義とは、資本主義の「理念」に根本的に対立するものなのである。

(岩井克人「資本主義「理念」の敗北」1990年『二十一世紀の資本主義論』所収)




で、どうだろう、現在、世界資本主義の至高の体現者、例えばソロスやシュワブ(世界経済フォーラム首領)が共産主義者ーーここでの共産主義は「俗に知られている」マルクス主義だーーと呼ばれることがしばしばある。







これらの連中の共産主義とは、イデオロギーとしての資本主義の真の落とし子ではなかろうか。少なくともこういった視点を取りうるのも岩井克人のこよなくすぐれた「二つの資本主義」区分による。


なおソロスは次のように言っているぐらいだ、「私は自分をある種の神だと思い込んでいた…自分自身を神のような存在、すべての創造主だと考えるのは一種の病気だが、それを実践するようになってから、今はそれが心地よく感じられる」




https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2004-oct-04-oe-ehrenfeld4-story.html



若きマルクスはシェイクスピアを引用しつつ、貨幣は神、貨幣は娼婦と言っている。


シェイクスピアは『アテネのタイモン』のなかでいう、

「黄金か。〔・・・〕

こいつがこのくらいあれば黒も白に、醜も美に、

悪も善に、老も若に、臆病も勇敢に、卑賤も高貴にかえる」

〔・・・〕

シェイクスピアは貨幣についてとくに二つの属性をうきぼりにしている。


(1) 貨幣は目に見える神であり、一切の人間的なまたは自然的な諸属性をその反対のものへと変ずるものであり、諸事物の全般的な倒錯と転倒とである。それはできないことごとを兄弟のように親しくする。


(2) 貨幣は一般的な娼婦であり、人間と諸国民との一般的な取りもち役である。


Shakespeare hebt an dem Geld besonders 2 Eigenschaften heraus:


1. Es ist die sichtbare Gottheit, die Verwandlung aller menschlichen und natürlichen Eigenschaften in ihr Gegenteil, die allgemeine Verwechslung und Verkehrung der Dinge; es verbrüdert Unmöglichkeiten;


2. Es ist die allgemeine Hure, der allgemeine Kuppler der Menschen und Völker.

貨幣が一切の人間的および自然的な性質を転倒させまた倒錯させること、できないことごとを兄弟のように親しくさせることーー神的な力――は、人間の疎外された類的本質、外化されつつあり自己を譲渡しつつある類的本質としての、貨幣の本質のなかに存している。貨幣は人類の外化された能力である。


私が人間としての資格においてはなしえないこと、したがって、貨幣はこれらの各本質諸力のいずれをも、それがそれ自体としてはそうでないようなあるもの、すなわち反対のものに変ずるのである。

Die Verkehrung und Verwechslung aller menschlichen und natürlichen Qualitäten, die Verbrüderung der Unmöglichkeiten – die göttliche Kraft –des Geldes liegt in seinem Wesen als dem entfremdeten, entäußernden und sich veräußernden Gattungswesen der Menschen. Es ist das entäußerte Vermögen der Menschheit.

Was ich qua Mensch nicht vermag, was also alle meine individuellen Wesenskräfte nicht vermögen, das vermag ich durch das Geld. Das Geld macht also jede dieser Wesenskräfte zu etwas, was sie an sich nicht ist, d.h. zu ihrem Gegenteil.

(マルクス『経済学・哲学草稿』Karl Marx, Ökonomisch-philosophische Manuskripte, 1844年)



この観点からも、巨額のマネーを自由に動かせるソロスが自らを神とするのは実に「論理的」だね。


…………


※附記


自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所にのみ存在する[ Eigentliche Handelsvölker existieren nur in den Intermundien der alten Welt, wie Epikurs Götter oder wie Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft.](マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章、1867年)

ユダヤ教の現世的根拠は何か。それは実利的欲求すなわち利己心である。ユダヤ人の現世的崇拝の対象は何か。それはボロ儲けである。ユダヤ人の現世的な神とは何か。それはカネである。よしそうだとすれば、ボロ儲けとカネから、すなわちこの実際的で現実的なユダヤ教から解放されることが現代の自己開放ということになろう。

Welches ist der weltliche Grund des Judentums? Das praktische Bedürfnis, der Eigennutz. Welches ist der weltliche Kultus des Juden? Der Schacher. Welches ist sein weltlicher Gott? Das Geld. Nun wohl! Die Emanzipation vom Schacher und vom Geld, also vom praktischen, realen Judentum wäre die Selbstemanzipation unsrer Zeit.

(マルクス 『ユダヤ人問題によせて』1844年)


自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人「二十一世紀の資本主義論」初出2000年『二十一世紀の資本主義論』所収、2000年)






2024年2月5日月曜日

カツ、おまえの仕事は、時代を二十年先駆けている

 

私にとっての経済的知の基盤は、柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』(1978年)、岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』(1985年)、そして二人の対談集『終わりなき世界』(1990年)だろうな。その後、岩井克人の『貨幣論』(1993年)や柄谷行人の『トランスクリティーク』(2001年)などもあるが、基盤は先の三書だ。


1941年生まれの柄谷は、1947年生まれの岩井について、《私にとってはどんなことでも話し得る友人》(『終わりなき世界』1990)と言っているが、二人はいつの間にか離反したように見える、おそらく1990年代の半ばあたりから二人はほとんど会わなくなっているのではないか。


ここでは松井彰彦氏の書評から、若き岩井克人がいかに「天才」だったかの記述を抜き出しておく。


◼️「経済学の宇宙 岩井克人著」研究と半生を小説風に…書評・松井彰彦 2015年8月30日

大学3年生のとき、著者の「不均衡動学」の講義を受講した。貨幣経済の不安定性を説く壮大な体系で、主流派の新古典派経済学との違いに驚いた。そして、このような一つの経済宇宙を築きあげた著者に畏怖の念を抱いた。本書は、主流派の中での成功を約束されながら、それを捨て、独自の道を歩んだ著者の研究と半生を本格的な小説のような筆致で綴つづった自伝である。〔・・・〕

1969年、学生運動で授業が休講となるなか、著者は日本を脱出するように米マサチューセッツ工科大学(MIT)に留学した。留学してからは一気に「頂点」に駆け上がる。1年次に書いた論文がいきなり一流の専門誌に掲載される。2年次にはノーベル経済学賞受賞者のサムエルソンの研究助手に採用され、講義の代講を務めるなど、破格の信認を得た。〔・・・〕


たったの3年でPh.D.を取得し、ついでエール大学に助教授職を得た著者は「不均衡動学」の研究に邁進する。しかし、時は市場の力を信奉する合理的期待形成学派の全盛時代に入りつつあった。「神の見えざる手」に信を置かない著者の理論は、無神論の如ごとく、学界の潮流と真っ向からぶつかり、砕け散る。ノーベル経済学賞受賞者のトービンは著者に声をかける。「カツ、おまえの仕事は、時代を二十年先駆けている」

1981年、傷心のまま著者は東京大学に就職した。「日本社会の内側の視点からは、東大に就職することは『出世』です。両親も大喜びしていました。ただ、私自身は、世界の学界の中心から離れてしまうという、ある種の悲哀感も感じていました」


ぼくが「不均衡動学」の講義を聴いて感銘を受け、経済学を志したのは、その2年後だった。それから30年余り、日本はバブル期を経て、長期デフレに陥る。時代を先駆けた岩井理論が現代に蘇よみがえる予兆を感じつつ本書を閉じた。


「カツ、おまえの仕事は、時代を二十年先駆けている」というのは、ノーベル経済学賞級の学者なかでの二十年の先駆けであって、巷間の凡庸な経済学者たちにとっては半世紀以上の先駆けかもしれないヨ、と言っておこう。


というわけで、このところ岩井克人の思考をいくらか追っているのだが、それについてはそのうち記すことにする。おそらく?


ここでは私にとってひどく印象的で繰り返し蘇ってくる、比較的わかりやすい一文のみを引用しておく。


資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985年)





2017年4月3日月曜日

資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式

ラカンの「言説」概念は、フーコーのそれとは異なり、「社会的紐帯 lien social」にかかわる。「社会的紐帯」、すなわち「社会的つながり」であり、言語活動とはかならずしも一致しない。

四つの言説は、主体が四つの異なった社会的紐帯の形態を練り上げるための、四つの異なった手段の見取り図である。その社会的紐帯の形態とは、享楽の全的獲得の不能性にかかわる。(Paul Verhaeghe, 2004, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

つまり「言説」には、場合によっては、言葉なき言説(「パロールなき言説 un discours sans parole」(ラカン、S18)もありうる(ようするに主体が他者とかかわる仕方における形式的構造が核心である)。

だがこれらの社会的紐帯(社会的つながり)だけではなく、「生産様式」として「言説」を捉える観点もある。

まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的紐帯を指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf)

「言説」を「生産様式」として捉えれば、フロイトの「文化の中の居心地の悪さ」とは「資本主義の中の居心地の悪さ」と捉える観点も出現する。

…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さ Das Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2016, pdf)

とはいえ「資本主義」にも種々のタイプがある。ここで、「「父/父不在」の交代の世界史」にて掲げた柄谷行人の図式を再掲しよう。



柄谷行人のこの図式では、商人資本→産業資本→金融資本→国家独占資本→多国籍資本の推移があったことになる。

ここから、それぞれの資本様式、つまり「生産様式=言説」によって、異なった社会の病理(参照:「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」)がある、という考え方も生まれうる。

諸個人は社会が彼らに課す理想的イメージに基づいて行動するよう期待される。そして彼らの不成功、いや成功さえも彼らを病気にする。

これは、もちろんフロイトが『文化の中の居心地の悪さ』において提案した古典的考え方のリバイバルである。

…フロイトは、社会と個人とのあいだには、精神的緊張の領域があると想定した。事実、個人の欲望は社会によって拘束されなければならない。問いは、精神的緊張の領域が取りうる異なった形態についてである。人は想定する必要がある。異なった社会構造は、アイデンティティ創造の異なった過程と異なったメンタルディスオーダーをもたらすことを。(ポール・バーハウ 2014, identity and angst: on civilisation's new discontent、pdf)

…………

ここでラカン自身による「資本の言説」をめぐる発言を掲げる。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)


資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

(「愛の問題 les choses de l'amour」とあるが、ラカンの愛の定義(のひとつ)は、《愛とは自分のもっていないものを与えることである l'amour c'est de donner ce qu'on n'a pas》(S8)―― その意味するところは、「愛するということは、あなたの欠如(去勢)を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」(ミレール)ということである。)

ラカンは、1968年の学園紛争にて、《父の溶解霧散 évaporation du père》 が顕著になったという立場をとっている(これが「去勢の排除」にかかわる)。すなわち「権威の死」である。そしてその後、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」が決定打としてある。柄谷行人のいう1990年以降の「多国籍資本」の時代とは、実際は1970年頃から徐々に始まっていたはずである(たとえば1971年のドル金兌換制停止)

こうして「父なき時代」が柄谷行人の図式にあわせるなら1990年から顕著になるが、実質上は、1970年あたりから「父なき時代」は始まっている(ここではニーチェの「神の死」やフーコーの「人間の死」は考慮に入れないでおく)。

少し前柄谷の図式にあわせて提示した次の図は、フロイトが『文化の中の居心地の悪さ』で言う「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 」の観点からは、1970年の区切りをいれるべきだったかもしれない。


中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ここで中井久夫が言う「超自我」とは、ラカンの主人S1である。

上にみたように、ラカンは1972年に主人の言説が資本の言説の代替を指摘しているが、この特徴は「去勢の排除」ともしており、つまり「精神病的」な時代の始まりを示唆している。だが、資本の言説をめぐる現代ラカン派の捉え方は、排除ではなく否認にかかわる「倒錯」の時代とするのが主流である。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)
資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

ラカンの去勢とは、「象徴的去勢」のことであり、その去勢とは、言語を使用することによって、自らの身体の享楽(具体的な生の世界のなかの根)と切り離されるということである。
人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化 articulation signifiante 以外のどの場からも生じない。 (Lacan,S17, 18 Mars 1970)

他方、資本の言説の時代の「倒錯」(去勢の否認)のひとつは、完璧なコミュニケーション(交換)が可能だと錯覚することだろう。 欲望は象徴的去勢に基づくが、欲望は要求と誤認され、要求が満たされればよしとする態度である(消費至上主義)。

個人の精神病理としての倒錯については種々の捉え方があるが(参照:倒錯の三つの特徴)、文化共同体病理学においては、マルクスの価値形態論(商品あるいは貨幣フェティシュ分析(M-C-M' ))が倒錯を捉える上の要となる(柄谷行人による2016年の英語論文、‟Capital as Spirit Kojin Karatani”pdf も「フェティシュ」が主題である)。

「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。

剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

最近のジジェクは、このまだ若い Samo Tomšič の論に強い刺激を受けているようにみえる。

リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。(ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

ラカンは倒錯を、裏返しになった幻想の式$ ◊ a として定義している。すなわち倒錯の定式は、a ◊ $ である。これは、資本の言説の a → $ が示している。





ラカンの対象aには両義性がある。《対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚をあらわす》(ジジェク、2016,pdf)。もちろん資本の言説の a は、幻想的囮/スクリーンである。主人の言説に代表される四つの言説の原動因(真理)の項が、資本の言説では消滅した。




だが資本の言説において、原動因(真理)に近似したものが、この「幻想的囮/スクリーン(a)」=フェティシュであるようにみえる。

ラカンには《le petit marché du Maître 主人の小さな市場》(S17)という表現がある。これを援用して、次のように図示しうる。






この図はもちろん種々の変奏が可能であり、巷間には「観光客」の思想家がいるが、詳しいことはいざ知らず、あれは資本の言説の領野にあるように見える。





他方、従来の「思想家」とは形式的には次のような図で示すことができる。





わたくしは『観光客の哲学』なるものを読んでいないので、なんらかの評価の良し悪しを言い募るつもりはない。ただツイッター上の振舞いにおいては、レスポンス・囮としての対象a・フェティシュに過剰に依存しているように見えるだけである。

本書でぼくが言おうとしているのは、観光客とは小さな人類学者であるべきだという提言として要約できるのかもしれない。(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』)

いずれにせよ肝腎なのは、われわれ誰もが、現在「資本の言説」の時代に生きており、旧来の主人の言説の時代に人格形成期をおえた人びとも、多寡の差はあれフェティシュ的傾向をもつようになっている、ということである。そこから逃れる方策を、ラカンは漠然としか言っていない。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本の言説 discours capitaliste からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョン、1973年)

かつまた基本的な意味での「フェティシュ」という用語に誤解がないようにこう付け加えておこう。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S10)
倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。

La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER

言語自体がフェティシュという観点さえある。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリスティヴァ1980,J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

こういう理解をしてしまえば、岩井克人による「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」における「言語、法、貨幣」とはすべてフェティシュとさえ置けるわけである。すなわち「人間の真のパートナーはフェティシュである」、と。

交換価値とは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。(マルクス『経済学批判』)

ーーコミュニケーションとは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それはフェティシュにおおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。

この解釈に居直ってしまえば、観光客思想家を批判することが至難の技となる(とはいえ、資本の言説にまぐわっている「思想家」たちは、ラカンの原動因(あるいは穴Ⱥ)の定義のひとつとしての《書かれぬことを止めぬもの C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire》に直面する姿勢は、どこかに行ってしまっている気配が濃厚であるには相違ない)。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここまでの文脈での共同体病理学における「覆われなければならない無」とは、「社会的なもの」である。マルクスの 「社会的なもの」とは 《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷『マルクスその可能性の中心』1978年)であり、ラカンの非全体 pas-tout(穴=Ⱥ)と等価である。

…………

ところで岩井克人は1990年に、じつに示唆溢れることを言っている。この岩井克人の見解に則れば、ラカンの主人の言説から資本の言説への移行とは、「資本の主義」の言説から「資本の論理」への言説の移行と相同的である。

◆『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より。

【ふたつの資本主義】 
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。

【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。

【資本の論理=差異性の論理】 
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

…………

岩井克人による資本の論理(資本の欲動)の定義を掲げる。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)

これこそラカンのいう資本の言説ーー《ルーレットように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。/自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う》ーーである。

「資本の主義」の時代、「イデオロギーとしての資本主義」の時代、「主人の言説」(主人の生産様式)の時代とは、この「資本の論理」(資本の欲動)をなんらかの形で抑圧していた( 《オブラートに包んで》いた:浅田彰)時代であるだろう。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)


やや異なった文脈で語っているドゥルーズ&ガタリの叙述を抜き出せば、資本の論理とは、エディプス(主人)の歯止めがない「器官なき身体」・「死の欲動」のことである。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の欲動、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

すなわち、《死の欲動の馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes 》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』)がない裸の資本主義である。この飼い馴らしを「拘束」とも呼び、この拘束がなければ《 市場原理主義がむきだしの素顔を見せ》る(中井久夫)。

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

※参照:ラカンの「言説」理論の基本的な理解のために→「基本版:「四つの言説 quatre discours」