2017年3月29日水曜日

「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」

あらゆる堅牢なものが溶けて霧散し、あらゆる聖なるものが世俗のものとなり、人はついには自分たちのほんとうの生活状態および仲間との関係に、醒めた感覚で直面せざるをえなくなる。(マルクス・エンゲルス『共産党宣言』)

《あらゆる堅牢なものが溶けて霧散する》とは、仏訳では《Tout ce qui paraissait solide et fixe s'évapore》である。ラカンが1968年の学園紛争のおりに言い放った《évaporation du père》 とは、この仏訳のパクリらしい。訳して「父の溶解霧散」とでもしておく。

…………

フロイトは『文化の中の居心地の悪さ』(旧訳名『文化への不満』1930年)の結論箇所で、「文化共同体病理学」のすすめを叙述している。

……文化発展のさまざまな相の中に超自我の役割を探ろうとするこの観察方法は、まだまだ数多くの解明をあたえてくれそうに思われる。

私は(……)一つの疑問だけはどうしても避けて通ることができない。文化の発展と個々の人間の発展のあいだにこれほど広範囲な類似が見られるとすれば、文化ないし文化時期の中のあるもの、場合によっては全人類が、文化努力の影響によって「神経症」になっていると診断してもよいのではないかという疑問である。

もしそうだとすると、文化ないし全人類にかかわるこの神経症を精神分析の手段を使って詳細に分析した上は、その治療方法についての提案も出てきてよいわけで、そうなれば、実際問題として大きな関心の的になるにちがいない。精神分析の対象を文化共同体 Kulturgemeinschaft にまで押し広げようとするこうした試みが馬鹿げたことないし失敗するにきまったことであるかどうかは、断定の限りではあるまい。けれども、もしそうした試みをするとすれば、非常に慎重な態度が必要だろう。

われわれは、文化の発展と個々人の人間の発展とはいくつかの点で類似しているだけで同一ではないこと、および、人間の場合だけではなく、概念 Begriffen の場合にも、それが発展してきた場所から引き抜いて他の場所へ移すことが危険なことを忘れてはなるまい。

それに共同体神経症 Gemeinschaftsneurosen の診断には独特の困難がつきまとう。つまり、個人神経症の場合には、病人とそのいわゆる「正常な」周囲との対比が、診断にとってのさしあたりの手がかりになりうる。ところが、集団全体が同様に侵されている場合には、対比の対象となるこうした背景がないわけで、どこか別のところからそうしたものを探してくる必要があるだろう。

それに、診断がきまりそれを治療に応用する件に関して言えば、社会全体の神経症 sozialen Neurose がどれほど正確に分析されたとしても、その集団に無理にでも治療を押しつけるだけの権力を持った者は誰もいないのだから、結局はそれも無駄ではないのか。

これらのさまざまの困難があるにもかかわらず、われわれとしては、いつの日か、この種の文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften という冒険をあえて試みる人が現われることを期待せずにはいられない。

(……)私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。そしてわれわれの期待は、「天上の二つの力 himmlischen Mächte」のいま一方である永遠のエロスが、自分と同じく不死身であるこの相手との戦いに負けないよう一所懸命に頑張ってくれることにかかっている。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』、1930年)

上の文でフロイトは、「共同体神経症」や「社会全体の神経症」という言葉を出しているが、これは一般的にラカンのいう「主人の言説(支配の言説)」の時代の病理である。

他方、ラカンは1968年の学園紛争後、「主人の言説」から「資本家の言説」への移行を語っている(参照)。

日本でも中井久夫が次のように言っている。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ここでの中井久夫の「超自我」とはラカンの主人S1である。ようするに1970年前後から「父なき」時代に入ったのである。それがいっそう鮮明になるのは、1989年の冷戦終結後だが。

社会構造が異なれば、社会の病理も異なる。「文化共同体病理学」を念頭に置くとき、そのことを忘れてはならないだろう。これはマルクスの教えでもある。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論序文』)

…………

ところでフロイトにはーーほとんど忘れられているがーー「現勢神経症」と「精神神経症」の区分がある。上にも記したが、フロイトの『文化の中の居心地さ』に現れる「共同体神経症」や「社会全体の神経症」の「神経症」とは、その文脈からみるに「精神神経症」のことを示している。だが超自我≒自我理想(精神神経症にかかわる)の斜陽時代である現代は、現勢神経症をもふくめて考える必要がある。

以下、まずフロイトの精神神経症/現勢神経症の記述をいくらか抜き出そう。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」。(フロイト『自己を語る』1925)
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926ーーフロイト引用集、あるいはラカンのサントーム

最後の『制止、症状、不安』にて、フロイトは抑圧/原抑圧を、精神神経症/現勢神経症の区分としている。

21世紀に入る前後に、ジャック=アラン・ミレールは、《20世紀の神経症の時代からふつうの精神病の時代へ》(ミレール)と言っているが、ミレールのいう神経症とは「精神神経症」のことであり、他方「ふつうの精神病」は「現勢神経症」とほぼ等価である。

ほぼ等価とは、たとえば次のように言われていることが示している。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis, Jonathan D. Redmond, 2013、PDF

ーー臨床的には若干異なるところはあるようだが、ここではそれに触れることはしない。

さて、主人の言説から資本家の言説への移行とは、おおむね、抑圧の時代から原抑圧の時代への移行といってよい。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)



このルーレットのように作用する資本家の言説は、主人の言説の「拘束」がない「一次過程」の自由に流動するエネルギーにかかわり、一次過程とは原抑圧と相同的である(参照:「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

事実、現在ラカン派では次のようなことが言われている。

資本家の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)
臨床的観点からは、主人の言説から資本家への言説は、現代的精神病理の中の、ある変貌において証拠づけられている。このいわゆる現代的症状については、ラカン派のあいだで数多くの議論がなされている(例えば Miller, 1993; Loose, 2002; Verhaeghe, 2004, 2014; Voruz and Wolf, 2007; Goldman-Baldwin et al., 2011; Redmond, 2013)。

この現代的症状は、依存症、パニック障害、境界例等を含むものだが、解読されるべき隠喩的構築物ではなく、圧倒的な剰余享楽(すなわち心的に破壊的影響をもたらす身体上の緊張)に直面した主体の表出あるいは反応として捉えられている。言い換えれば、これらの症状は、もはや本質的には他者との関係における相剋や不可能性を反映しているのではなく、根本的「非関係non-rapport」との遭遇への反応における危機である。(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis Stijn Vanheule、2016、PDF
…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012

…………

上に、現在は抑圧の時代から原抑圧の時代に移行しているとしたが、原抑圧の時代といっても、欧米基準の話であり、日本はもともと超自我という「父」など機能していなかった社会(もともと原抑圧の社会)だったという捉え方がある。

とすれば、日本人は元来「精神神経症」的ではなく「現勢神経症」的な民だったとすることさえできる。もっともここでの現勢神経症はフロイト自身の定義よりもやや広義の意味で使用している、つまり精神病的なものだけではなく倒錯も含めている。[参照]。

(Adam Phillips,2014)



つまり、上の図に則れば、倒錯より左側の症状すべてが「現勢神経症」という捉え方をしている。これはポール・バーハウの観点であり、彼は「現勢病理」と呼んでいる。標準的な言葉遣いをすれば、精神神経症/現勢神経症とは、エディプス的病理/前エディプス的病理であり、ラカン語を使えば、象徴界病理/現実界病理としてもよいかもしれない。

「標準的な言葉遣い」というのは次の文がよく表している。

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収)

もう一つ、日本では「超自我」(父なる超自我)など機能していなかったとは、これも中井久夫の観点である。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

日本の環境で、「文化共同体病理学」を試みるとき、欠かせないのが厄介な中井久夫のいう「疑似一神教」から象徴天皇制への移行もふくめた「天皇制」の機能であるだろう。

たとえば、浅田彰は1980年代にすでに次のように言っている。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

「共感の共同体」とは、丸山昌男の「無責任の体系」と直結しており、そして丸山が無責任の体系の起源を「天皇制」としたのはよく知られている。

浅田彰は「前言語的(イマジナリー)」、「母性的なレヴェル」という表現をしているが、現在のラカン派観点からはイマジネールとリアルとの間にあるS(Ⱥ)の病理のことと捉えうる。



ーーこのボロメオの環の変更版の意味合いについては、「三種類の穴埋め師:S(Ⱥ)- I(Ⱥ) - F(Ⱥ)」を参照のこと。

浅田彰の「母性的なもの」という表現は次の図が表している。

(参照:二種類の超自我と原抑圧


たとえばジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ミレール曰く、母の欲望は、 S(Ⱥ)とほぼ等価であり、その S(Ⱥ)の上にS1が課されなければならない。そうでないと身体の享楽(欲動興奮)は飼い馴らされないままである

市場原理主義(新自由主義)とは、(ラカン派的には)資本の欲動が放し飼いになっている時代だという意味である。

これは浅田彰の表現なら、オブラートが溶けてしまった、えげつない資本の素顔の時代ということである。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰『憂国呆談』2012.8より)

民主主義というイデオロギーの仮面も機能しない、ともあるが、柄谷行人の表現なら、ヘゲモニーの衰退による弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代である。

「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(柄谷行人 第四回長池講義 要綱

最後に初期岩井克人の資本の論理(資本の欲動)の定義を掲げておこう。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)

これこそラカンのいう資本の言説ーー《ルーレットように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。/自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う》ーーである。