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2016年9月17日土曜日

器官なき身体と資本家の言説

わからんか? 
けっこうマジでまとめたんだがな
刺激が足りないんだったら簡潔にいうよ
 
われわれの世界の新自由主義が器官なき身体だよ。
オレたちはまさにその器官なき身体、資本の欲動の世界に生きてるじゃないか

ドゥルーズ&ガタリは言っている。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の欲動、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

アルトーだって「新自由主義」を語っているじゃないか。

人間に器官なき身体 un corps sans organes を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性 automatisme から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう。(アントナン・アルトー)

新自由主義とは、たとえば原発災害のとき浅田彰がいっていたと思うが、除染にはクモのように群がるが、金目になりそうにない被災者住宅建設には知らんぷりってやつだよ。これが器官なき身体さ

器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

オレはプルーストファンだからいうが、ドゥルーズのプルースト論が核心だよ、とくにアンチ・ロゴスの章がな、アンチ・ロゴスってのはアンチ・オイディプスのことに決まってんだろ

『失われた時』がきっぱりと拒絶する有機的全体性 totalité organique とか、話者は器官なき身体だとかドゥルーズはしつこく書いてる、《En vérité le narrateur est un énorme Corps sans organes. 》。次の文の「全体的な魂」も同じ。有機的身体統合の拒絶さ。

プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


いずれにせよ、「器官なき充実身体」の真っ只中に住んでるからわかんねえだけだよ

ラカンだって言ってる、主人の言説から資本家の言説への移行とは、オイディプスからアンチ・オイディプスへの移行さ(ロゴスからアンチロゴスへの、な)。’

危機 la crise は、主人の言説というわけではない。そうではなく、資本家の言説 discours capitaliste だ。それは、主人の言説の代替として、今、開かれている。

私は、次のようにあなた方に言うより他にない。すなわち、資本家の言説は醜悪な何か、そして対照的に、狂気じみてクレーバーな何かだと。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本家の言説とは、我々が描き出した言説のなかで最も賢いものだ。もっとも、それにもかかわらず、破滅に結びついている。

この言説は、じじつ、支えられない。支えられない何かのなかにある。私はあなた方に説明しうる…。

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルに S1 と $ とのあいだの。$ …それは主体だ…。ルーレットように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。

自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私意訳ーーマルクスの価値形態論(岩井克人と初期柄谷行人)





器官なき身体の論理は、主人の言説の時代にはよかったさ。だが今ではわれわれの生活自体が、器官なき身体化されている。いまどきナイーヴに器官なき身体をあげつらうってのはニブサの証拠だよ、おまえさん!

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012ーー資本の欲動という海に浮かぶ孤島