2016年7月26日火曜日

マルクスの価値形態論(岩井克人と初期柄谷行人)

仲の良い友人同士の関係が長く続いた柄谷行人と岩井克人だがーー《私にとってはどんなことでも話し得る友人》(柄谷『終わりなき世界』1990)ーー、岩井克人の『貨幣論』1993と柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』1978 におけるマルクスの価値形態論の説明箇所で、ふたりがまったく正反対のことを言っている箇所をーーたまたまーー見出したので、ここにメモしておく。

【柄谷行人、1978】

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)


【岩井克人、1993】

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割


…………

◆岩井克人の『貨幣論』より、まず図式を掲げる。









※柄谷行人によるマルクス価値形態論の説明(『トランスクリティーク』2001)を参照(価値形態論と例外の論理)。


・岩井克人による「貨幣形態 Z」



※図に貨幣とした箇所は、実際は、「8ポンド・スターリングの貨幣」となっている。

この岩井克人による「貨幣形態 Z」自体は、柄谷行人が初期からくり返している W (商品)-G(貨幣)-W’(商品) と G(貨幣)-W(商品)-G’(G+剰余価値)を、よりわかりやすく説明したものとしてよいように思う。

貨幣形態=音声文字=意識において、すでに価値形態はかくされてしまっている。しかし、なぜこのことが重要なのか。それは、貨幣のこのような性質が「貨幣の資本への転化」の根拠であるにもかかわらず、同時にそれがおおいかくされているからである。もし貨幣がたんに商品の価値を表示するものでしかないならば、G(貨幣)-W(商品)-G’(G+⊿ G )という過程はありえないだろう。すなわち、資本所有者が商品を買い、それを売ることで⊿ G (剰余価値)を得ることがなければ、資本もまたありえないはずである。

しかし、貨幣のあるところには、必ず商人資本がある。それは人間に利潤を求めようとする性質があるからではない。交換が利潤(剰余価値)を生みだすような必然的根拠があるところでのみ、そのような”人間性”が発生するにすぎない。さしあたって、G-W あるいは W-G’ のいずれをみても、剰余の発生する余地はない。あるとすれば、詐欺である。しかし、一時的な詐欺は資本ーー自己増殖する貨幣ーーの持続的根拠ではありえない。すると鍵は、W-G と G-W’ が時間的・場所的に切りはなされているということにしかありえないのである。つまり、貨幣が価値を表示するたんなる価値尺度ではなく、いわば不透明なテクストであるということでしかない。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978)

…………

さて、岩井克人は、価値形態論のまとめの箇所で、簡潔に「全体的な価値形態 B」 と、「一般的な価値形態 C」、「無限の循環する貨幣形態 Z 」を次のように説明している。

全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方

一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方

無限の循環する貨幣形態 Z のなかで、社会化する主体(全体化された相対的価値形態)と社会化される客体(一般化された等価形態)という役割を同時にはたしている存在が、貨幣

ーー「マルクスの貨幣形態 D」は、柄谷行人が言うように、《「一般価値形態」の発展としてある。しかし、貨幣形態の核心はすでに一般形態において示されている》(『トランスクリティーク』)ので、ここでは省かれているのだろう。

いま、岩井から抜き出した表現は、次の文にある。

……単純な価値形態 A を出発点として、紆余曲折のすえにわれわれが到達した貨幣形態 Z とは、全体的な価値形態 B と一般的な価値形態 C とのあいだの無限の循環論法によって成立しているものであった。ここで、全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方であり、一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方である。そして、この無限の循環する貨幣形態 Z のなかで、社会化する主体(全体化された相対的価値形態)と社会化される客体(一般化された等価形態)という役割を同時にはたしている存在が、貨幣なのである。それは、すべての商品にじぶんとの直接的な交換可能性をあたえられ、すべての商品から直接的な交換可能性をあたえていることになる。

貨幣とは、それゆえ、貨幣形態 Z のなかにおいて貨幣の位置を占めているから貨幣なのであり、その存立のためには、モノとして使用されるための人間の欲望もモノとして生産されるための人間の労働も、さらにはそれを支払手段として流通させるための共同体的な規制や中央集権的な強制も必要としないことがしめされることになった。すなわち、なんの役にもたたない金属のかけらや紙のきれはしや電磁気的なパルスでも、たんに貨幣として使われることによって、実体的な価値をはるかにこえる価値をもってしまうことになる。無から有となるという「神秘」がここにある。(岩井克人『貨幣論』1993,PP.150-151)


ここで、上の岩井の文を次の柄谷の文とともに読むと、どうなるか?




マルクスは「単純な、個別的な、また偶然的な価値形態」をつぎのように説明している。

《x 量商品 A = y 量商品 B 、あるいは x 量の商品 A は y 量商品 B に値する。(亜麻布 20エレ=上衣 1着、または、20エレの亜麻布は 1着の上衣に値する)》

右の例において、「亜麻布がその価値を上衣で表示する」場合、マルクスは亜麻布は相対的価値形態にあり、上衣は等価形態にあるといっている。つまり、マルクスがここでいっているのは、「亜麻布は上衣と等価である」ということではなく、「亜麻布の価値は上衣の使用価値で表示される」ということなのである。 《一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される》。しかし、たとえば亜麻布の価値なるものが内在的・超越論的に存在するわけではない。ここには、たんに亜麻布と上衣という「相異なる使用価値」があるだけなので、その関係のなかから「価値」が出現するのである。

この関係が価値形態、つまり相対的価値形態と等価形態の結合にほかならない。《相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、またそうごに対立する極位である》。ソシュールにならっていえば、相対的価値形態は「意味されるもの(シニフィエ)」、等価形態は「意味するもの(シニフィアン)」であり、これらの結合としての価値形態が記号(シーニュ)なのである。右の例でいえば、上衣という使用価値は、シニフィアンである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978)

柄谷行人は、

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)

としている。

他方、岩井克人は次のように言っている。

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割

ーーもちろん通常の解釈では、シニフィアン=主体、シニフィエ=客体である。

ここで、ジジェクを挿入しよう。マルクスの価値形態論に触れつつ、《商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する》としている。

ラカンのシニフィアンの公式(シニフィアンは他のすべての諸シニフィアンに対して主体を代表象するun signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.)は、マルクスの商品の公式(価値形態論)と構造的な相同性がある。そこにもまたシニフィアンの公式と同様な二項一組 dyad を伴っている。

すなわち商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する。ラカンの公式におけるヴァリエーションでさえ、マルクスの価値形態表現の四つの形式への参照として体系化されうる(『為すところを知らざればなり』の第一部を見よ)。この線に沿えば、決定的なのは、ラカンがこの過程の剰余-残余を、剰余享楽(plus-de-jouir)としての対象a として規定したことだ。これは、マルクスの剰余価値への明示的 explicit な参照である。(ジジェク、2004,--ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

これは明らかに、初期柄谷の《等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)》側にある解釈と捉えられる。

さらに、シニフィアン($)と剰余享楽a をめぐってジジェクは次のように言っている。

シニフィアンの主体 ($) が、象徴的普遍性の例外であり、対象a が、享楽の過剰(剰余享楽)を表すその対照的要素である限りにおいて、ラカンの幻想の式 ($‐a) は、同じコインの裏表のあいだの非関係(その場を埋め合わせる要素のない空虚の場/その場のない過剰の要素)である。(……)

$ と a の不可能な結合(非関係)は、主体 $ は空虚・空の場だ。述語のない主語である。他方、a は、主語のない述語である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳) 

すなわち、

$ /a = 要素のない空虚の場/場のない過剰の要素
         =述語なしの主語/主語なしの述語


もちろん剰余享楽と剰余価値は相同性がる。とすれば当然、

G(貨幣)-W(商品)-G’(G+剰余価値)

と関連づけることができないでもない(とはいえ、ここでは曖昧なままにしておこう・・・)。

いずれにせよ、肝腎なのは、次の「主人の言説」の構造と価値形態論の構造とを互いににらめっこさせることだろう。



(ラカンの「四つの言説」を知っているものなら誰でも、先ずは、G ➡ W/G’と思いつくはずだ)。


いや、わたくしが曖昧なままにしておくのは、主人の言説以外にも「資本家の言説」というものがあるからだ(わたくしの知る限り、ジジェクはこの「資本家の言説」に一度も触れていない。あれだけラカンを解釈しまくっているジジェクのもっとも大きな謎である・・・そのため、ジジェクによるマルクスの価値形態論解釈は、話半分にしか聴くことができない)。


危機 la crise は、主人の言説というわけではない。そうではなく、資本家の言説 discours capitalisteだ。それは、主人の言説の代替として、今、開かれている。

私は、次のようにあなた方に言うより他にない。すなわち、資本家の言説は醜悪な何か、そして対照的に、狂気じみてクレーバーな何かだと。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本家の言説とは、我々が描き出した言説のなかで最も賢いものだ。もっとも、それにもかかわらず、破滅に結びついている。

この言説は、じじつ、支えられない。支えられない何かのなかにある。私はあなた方に説明しうる…。

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルに S1 と $ とのあいだの。$ …それは主体だ…。ルーレットのように作用する marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。

自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私意訳)




この言説には四つの言説の母胎となる形式構造における impossibles も impuissance もない(参照:「四つの言説」(ラカン)概説)。ラカンが、《こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く》と言っているのは、(先ずは)そのことの筈。まさに ∞(無限)の形をした言説構造をもっている。






すこし後にある次の文は仏文のままで掲げよう、《c'est uniquement de la plus-value. La plus-value, c'est ça... c'est le plus de jouir, hein !》

De très braves gens, mais tout à fait inconscients de ce que disait Marx lui-même, s'en marrent... sans Marx.

Et voilà que Marx leur apprend que ce dont il s'agit, c'est uniquement de la plus-value. La plus-value, c'est ça... c'est le plus de jouir, hein !


ーー《人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。[Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX]》(Lacan,S.22,18 Février 1975)

さてひどく話がそれてしまったが、岩井克人の説明に戻る。彼の解釈は上にも掲げた次の二文のなかにもある。

・全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方

・一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方


◆岩井克人による「単純な価値形態 A」の詳述箇所より

マルクスは、この「単純な価値形態のなかに価値形態の、したがってまた簡単にいえば貨幣形態の、秘密を発見する」ことができるという。いったいこの単純な表現のどこに「貨幣形態の秘密」がひそんでいるのだろうか?

右にしめした単純な価値形態において、一見対称的な関係にあるようにみえるリンネルと上着は、まったくちがった役割をはたしているとマルクスはいう。リンネルは「相対的価値形態」にあるといわれ、上着との直接的な交換可能性によってその価値を表現している。上着は「等価形態」にあるといわれ、この価値表現の材料として役だっている。一方のリンネルは価値を表現する「主体」の役割を演じており、他方の上着は価値を表現される「客体」の役割を演じている。

主体は客体をつうじて主体となり、客体は主体によって客体とされる。それゆえ、少々まわりくどくなるのを覚悟でこの主体客体関係を商品語的にいいなおすと、つぎのようになる。一方の相対的価値形態にあるリンネルという商品は、じぶんとは異質のモノである上着をじぶんと直接に交換可能なものとすることによってじぶん自身を表現している。他方の等価形態にある上着は、モノとしてのあるがままの姿で、リンネルという商品からそれと直接に交換可能なものという性質をうけとっている。じっさい、このキルケゴールをおもわせる表現のまわりくどさが、『資本論』の初版のなかの「リンネルは、ほかの商品をじぶんに価値として等価することによって、じぶん自身を価値としてのじぶんに関係させる」という文章を、本書で使っている国民文庫版もふくめた数多くの邦訳がこぞって誤訳してしまうという、笑うに笑えぬ喜劇をうみだすことになってしまったのである。(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』、岩波書店、参照)。
いずれにせよ、このまわりくどい言いまわしがあきらかにしてくれるのは、「貨幣形態の秘密」は相対的価値形態のなかにはひそんでいないということである。なぜならば、相対的価値形態にあるリンネルの価値は、じぶんとはまったく異なったほかのモノとの相対的な関係によって表現されており、それがなんらかの意味で「社会的関係」をになっていることはだれの目にもあきらかだからである。

だが、等価形態については話はべつである。なぜならば、等価形態にある上着は、そのあるがままの姿でリンネルとの直接的な交換可能性をもつことになり、あたかもそれじだいで価値をもっているような錯覚をうみだしてしまうからである。金銀そのものに価値があるから金銀はあらゆるものを手にいれられるのだと重金主義者がいうように、上着そのものが価値をもっているからリンネルという商品と直接に交換できるのだというふうに。たしかに、上着がリンネルと直接に交換可能なのは、リンネルがじぶんとの直接的な交換可能性を上着にあたえているという社会的関係の結果にすぎない。しかし、モノの性質とはモノそのものに内在しているという日常生活に根ざしたひとびとの先入観によって、上着もまたリンネルとの直接的な交換可能性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう性質と同様に、うまれながらにもっているように錯覚されてしまうのだとマルクスはいう。それは、ちょうどつぎのような王と臣下との関係とおなじである。

《この人が王であるのは、ただ、他の人々がかれにたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、かれらは、反対に、かれが王だからじぶんたちは臣下なのだと思うのである。》

社会的な関係とモノそのもの(または人間自体)の性質との「とりちがえ(quid proquo)」--この「とりちがえ」をうみだす等価形態の不可解さこそ、単純な価値形態のなかにひめられていた「貨幣形態の秘密」なのだとマルクスはいう。そして、この「不可解さは」、

《〔等価〕形態が完成されて貨幣となって経済学者の前にあらわれるとき、はじめてかれのブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。そのとき、かれはなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品をもちだし、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。かれは、20エレルのリンネル=1着の上着、というようなもっとも単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気づかないのである。》

しかしながら、マルクス自身のこみあげてくる満足にもかかわらず、もしこの「とりちがえ」が「貨幣形態の秘密」のすべてであるならば、それは古典派による重金主義批判の水準をすこしもこえるものではない。ここではまだ、等価形態にかんする「とりちがえ」はたんなる主観的な呪物崇拝(フェティシズム)にすぎず、なんの必然性ももっていない。……(岩井克人『貨幣論』文庫 PP.43-46)


ーー貨幣が王であるのは、ただ、他の商品が貨幣にたいして 臣下としてふるまうからでしかない。ところが、かれらは、反対に、貨幣が王だからじぶんたちは臣下なのだと思うのである。


こうして(?)柄谷行人は、後年、次のように言うことになる。

◆『トランスクリティーク』2001

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001ーー価値形態論と例外の論理

…………

※付記

普遍性と構成的例外の論理は、三つの段階において展開されるべきである。

(1)まず、普遍性への例外がある。どの普遍性も特殊な要素を含んでいる。その要素は、形式的には普遍的次元に属しているにもかかわらず、突出しており、普遍的次元にフィットしない。

(2) 次に、普遍性のどの特殊な例あるいは要素も、例外であるという洞察が来る。「標準的な」特殊性はない。どの特殊性も突出している。それは、普遍性の観点からは、過剰/欠如している(ヘーゲルが示したように、存在するどの国家も「国家」の概念にフィットしない)。

(3) 次に弁証法プロパーのひねりが来る。例外への例外である。それはいまだ例外であるが、唯一の普遍性としての例外・要素である。その要素の例外は、普遍性自体に直接な繋がりがある。それは普遍性を直接的に表す(ここで注意しておこう、この三つの段階はマルクスにおける価値形態論と共通していることを)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー価値形態論と例外の論理