ラカンの「四つの言説」をめぐるジジェクの叙述箇所を私訳して掲げる。「SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004からであり、これは後の書にも(たとえば2006,2012の大書にも類似した記述がある)。
なお2012年の『LESS THAN NOTHING』には、ラカンの最も重要な二つの公式「四つの言説」と「性別化の公式」の統合の試みがなされている(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。
なお2012年の『LESS THAN NOTHING』には、ラカンの最も重要な二つの公式「四つの言説」と「性別化の公式」の統合の試みがなされている(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。
より基本的な理解としては、「「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)」を見よ。ポジションや用語、その形式的構造については、このポール・バーハウの概説がとてもすぐれている。
さらに初期ジジェクの四つの言説の説明(1991)については、ほぼバーハウの解釈にて代替できるが(参照)、そこに付加的に記されている叙述は四つの言説だけに囚われないためにも忘れてはならない指摘である。
忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。
(……)しかしラカンの晩年のすべての努力の目的は、この意味としてのコミュニケーションの領域を突破することである。ラカンは、明確で論理的に純化されたコミュニケーションおよび社会的束縛の構造を確立した後、四つの言説を経て、ある「自由浮遊の」空間の輪郭を描く作業にとりかかった。その空間内では、シニフィアンは言説による束縛、すなわち分節に先行する。それは、社会的束縛という「物語」に先行する「先史」の空間、つまり、言説のネットワークを擦り抜けるある精神病的な核の空間である。……(ジジェク『斜めから見る』pp..246-248)
この議論は、2012年の著作になっても問い続けられている(「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」)。
…………
さて、ジジェクの以下の叙述は、図式的な説明に限定されず、「四つの言説」の動く構造ーー構造は図式ではなく機能する形式であり、機能を停止したあとの形式のイメージではないーーがより鮮明化されており、これも四つの言説の形式的理解だけで満足しないために欠かせない指摘であるだろう。
【シニフィアンの定義とラカンの言説理論】
四つの言説のマトリックスの出発点は、ラカンの名高いシニフィアンの「定義」、《シニフィアンはほかのシニフィアンに対して主体を代表象する》である。とはいえ、我々はこの明らかに循環論法的な定義 circular definition をどう読んだらいいのか?
旧式の病院のベッドには、患者の視野外にある足元に、小さなディスプレイ器具が置いてあり、患者の体温や血圧、薬物治療などに特化した種々のチャートや記録が表示される仕組みとなっている。
このディスプレイは患者を代表象している、ーーだが誰のためにだろう? 単純にあるいは直接的には、他の主体に対してではない(例えばこのパネルを規則的にチェックする看護婦や医師に対してではない)。そうではなく、基本的には他のシニフィアンに対してである。その他のシニフィアンとは、医学的知の象徴的ネットワーク(の諸シニフィアン)であり、そのネットワークのなかに、パネルに表示されるデータが、その意味を獲得するために、書き込まれなければならない。
人は容易に想像することができるだろう、パネル上のデータの読み取りが自動的に進んで行くコンピューター化されたシステムを。医師が取得し読み取るものは、これらのデータではなく、医学的知に従って、諸データからもたらされるダイレクトな結論だ…。
シニフィアンの定義から引き出される結論は、私の象徴的(代)表象には、常にある種の残余があることだ。その残余とは、私の発話の具体的な、血肉化された宛先にかかわる。この理由で、具体的な宛先に届くことに失敗した手紙でさえ、ある意味で、真の目的地に到達点する。その目的地とは〈大他者〉、他の諸シニフィアンという象徴的システムである。
この過剰の直接的具現化のひとつは、症状である。その症状とは暗号化されたメッセージであり、その宛先はほかの人間ではない(私が自分の身体に症状ーー私の欲望の内奥の秘密を曝す症状ーーを刻印するとき、どの人間もダイレクトにはそれを読み取りえない)。そしてそれにもかかわらず、剰余としての症状が生まれた瞬間にその機能を果たす。というのは、〈大他者〉に、つまり真の宛先に届くからだ。
注):《このように、ラカンのシニフィアンの公式(シニフィアンは他のすべての諸シニフィアンに対して主体を代表象する)は、マルクスの商品の公式(価値形態論)と構造的な相同性がある。そこにもまたシニフィアンの公式と同様な二項一組 dyad を伴っている。
すなわち商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する。ラカンの公式におけるヴァリエーションでさえ、マルクスの価値形態表現の四つの形式への参照として体系化されうる(『為すところを知らざればなり』の第一部を見よ)。この線に沿えば、決定的なのは、ラカンがこの過程の剰余-残余を、剰余享楽(plus-de-jouir)としての対象a として規定したことだ。これは、マルクスの剰余価値への明示的 explicit な参照である。》
【象徴的レディプリカティオ reduplicatio】
四つの言説のラカンの図式は、四つの主体的ポジションを分節化しているが、そのポジションとは、多方面な社会的つながり social link 内部での主体のポジションであり、それはシニフィアンの公式から論理的にもたらされるものだ(そこでは精神病者は除外される。精神病とは象徴的社会つながりの破綻だからだ)。
その全ての構築は、象徴的レディプリカティオ reduplicatio の事態を基礎にしている。reduplicatio、すなわちそれ自身のなかに向かう実体 entity into itself と構造のなかに占める場との二重化 redoubling である。それは、マラルメの rien n'aura eu lieu que le lieu(場以外には何も起こらない)、あるいはマレーヴィチの白い表面の上の黒い四角形のようなものだ。どちらも場自体を形式化しようとする奮闘を示している。むしろこう言ってもいい、要素としての場のあいだの最小限の差異と。その要素としての場は、要素のあいだの差異に先行しているものだ。
Reduplicatio (二重化)が意味するのは、要素は決してその場に「フィット」しないということだ。この私とは、私の象徴的付託が「私とはこういう者だ」と告げるものでは決してない。この理由で、主人の言説は必須の出発点となる。その言説のなかにいる限り、実体と場は「一致する」からだ。主人のシニフィアンは、事実、「エージェント」ーーエージェントとは主人のエージェントであるーーの場を占める。対象a は「産出物」ーー産出物とは消化されえない過剰であるーーの場を占める、等々。
そして二重化、要素と場のあいだのギャップ、それが一連の変化を生み始める。たとえば、主人は己れをヒステリー化する(主人の言説からヒステリーの言説への移行)、実際に何がいったい私を主人にしているのだろう、と問い始めることによって。
このように、主人の言説を基盤にして、人は他の三つの言説の発生へと移行してゆく。それは、順々に、他の三つの要素を主人(エージェント)の場に置くことによってである。
簡単に言えば、多くの人びとは、〈私〉という一人称単数代名詞によって語りはじめ、そのとき言表行為と言表内容は一致しているつもりになり勝ちかもしれない。
主人の本質は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している。(ラカン、S.17)
……l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.
あなたは、最低限の言語構造をもつために、少なくとも二つのシニフィアンが必要である。だから二つの用語がすでにある。それがS1とS2だ。S1は最初のシニフィアン、フロイトの「境界シニフィアン(境界語表象)border signifier」、「原シンボルprimary symbol」、さらに「原症状primary symptom」とさえ言えるが、特別な地位をもつ。それが主人のシニフィアンであり、欠如を埋めようとし、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。その意味で、S1は “le savoir”、その連鎖に含まれている知の分母denominatorである。(ポール・バーハウ)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)
だがそれに疑いをもった瞬間、人は別の言説へと移行する。
〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。(ジジェク、2012)ーー「ラカン派の「記号」と「シニフィアン」」)
さらにここでニーチェをも抜き出しておこう。
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』ーードゥルーズ『ニーチェ』からの孫引き 湯浅博雄訳より)
さらに遡ればヘーゲル、--いやヘーゲルはやめて彼の若き時代の親友ヘルダーリンにしよう。
もし私が、私は私だというとき、主体(自我)と客体(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには、分離が行われて統一されることはありえない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私はどうやって自己意識なしに、“私!”と言いうるというのだろう?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」私訳
一人称単数代名詞の使用にまともな作家なら誰でも苦労しているはずだ。
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(……)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス(作家の方法)』)
以下のラジオフォンにおける四つの言説の図にあるregressionとprogresという言葉にも注目しておこう。
【各四つの言説】
大学人の言説では、知 S2 がエージェントの(主人の)場を占める。それは、主体 $ を「産出物」の場、消化されえない過剰残余物へと変身させる(S2→a→$)。
ヒステリーの言説では、真の「主人」、実質的に主人自身を脅迫し支配するエージェントは、ヒステリー化した主体である($→S1)。その主体は、主人の場にあること $ = agent の絶えまない問いを伴っている、等々。
だからまず最初に、主人の言説が基本のマトリックスを提供する。すなわち、主体はほかのシニフィアン(シニフィアンの鎖、あるいは「ふつうの」諸シニフィアンの領野)に対して(代)表象される。残余--喉のなかの骨ーーは、象徴的表象に抵抗するものであり、対象a として現れる(「産出される」)。そして主体は、この過剰 a に向けて、彼の関係をなんとか「正常化」しようとするのだが、それは幻想的形成物を通してである(この理由で、主人の言説の式の下部は、幻想の式 $ – a のマテームがある)。
この論理規定 determination の外観上の矛盾において、ラカンはしばしば主張する、主人の言説は、幻想の領野を締めだす唯一の言説だと。ーーさて我々はこれをいかに理解すべきだろうか?
【言表行為 enonciation」と言表内容 enonce】
ーー「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”(フロイト)
《……第四の動機は「日記」を文の作業場にすることである。《美しい》文のではない。正確な文のである。つまり、絶えず言表行為〔エノンシアシオン〕の(言表〔エノンセ〕のではない)正確さを磨くことである。夢中になって、一生懸命、デッサンのように忠実に。もうまるで情熱としっていいほどに。《もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ》(『箴言』、第二十三章十六節)。これを愛の動機と名づけよう(多分、熱愛的とさえいってもいいだろう。私は「文」を熱愛する)。……》(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)
主人の振舞いの錯覚 illusion は、言表行為(その場から発話する主体のポジション)のレヴェルと言表された内容のレヴェルとのあいだの完全な合致である。主人を特徴づけるのは、〈私〉を完全に飲み込む absorb 発話行為である。そこでは「私は私が言っている私」なのだ。要するに、完全に実現された、自給自足の self-contained 行為遂行的な振舞いである。
そのような理想的な合致は、もちろん、幻想の局面を締め出している。というのは、幻想は言表された内容とそこに横たわる言表行為のポジションとのあいだの裂け目を埋めるためにこそ出現するからだ。幻想は次の問いに対する応答である、「あなたはあれやこれやと私に言う、けれどなんなの、それ? そんなふうに言うことで、本当何が言いたいの?」。しかしながら、主人においても幻想の局面は残存している事実があり、それは主人の言説の究極的な避けがたい袋小路をシンプルに知らせている。
おなじみの高級マネージャーを思い起こしておくだけで十分だろう、彼はときどき娼婦を訪ねることを余儀なくされる。マゾヒストの儀式に没頭するためだ。そこでは彼は「たんなる対象として扱われる」。能動的な公的存在として、彼は部下たちに命令を下し彼らをこき使う(主人の言説の上部レベル S1–S2)。これは、他者の享楽の受動的な対象へ変わりたい(下部のレヴェル $ – a)という幻想に支えられている。
カントの哲学において、欲望の機能は、偶発の対象に依存した「病理的な pathological 」ものである。だから「欲望することの純粋機能」はない。他方、ラカンにとって、精神分析はまさに「純粋欲望批判」である。言い換えれば、欲望は非病理的(ア・プリオリ)non-pathological (‘a priori') な対象-原因をもっている。すなわち対象a、それ自身の欠如と重なる対象である。
《……第四の動機は「日記」を文の作業場にすることである。《美しい》文のではない。正確な文のである。つまり、絶えず言表行為〔エノンシアシオン〕の(言表〔エノンセ〕のではない)正確さを磨くことである。夢中になって、一生懸命、デッサンのように忠実に。もうまるで情熱としっていいほどに。《もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ》(『箴言』、第二十三章十六節)。これを愛の動機と名づけよう(多分、熱愛的とさえいってもいいだろう。私は「文」を熱愛する)。……》(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)
どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。
しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。
だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)
【主人のシニフィアン S1】
主人のシニフィアンとはなにか? 記念すべき第二次世界大戦の最後の段階で、ウィンストン・チャーチルは政治的決定の謎を熟考した。専門家たち(経済的な、また軍事的な分析家、心理学者、気象学者…)は多様かつ念入りで洗練された分析を提供する。誰かが引き受けなければならない、シンプルで、まさにその理由で、最も難しい行為を。この複合的な多数的なもの multitude を置換しなければならない。多数的なものにおいては、どの一つの理屈にとってもそれに反する二つの理屈があり、逆もまたそうだ。それをシンプルな「イエス」あるいは「ノー」ーー攻撃しよう、いや待ちつづけよう…ーーに変換しなければならない。
理屈に全的には基礎づけられえない振舞いが主人の振舞いである。このように、主人の言説は、S2 と S1 のあいだの裂け目、「ふつうの」シニフィアンの連鎖と「法外の」主人のシニフィアンとのあいだのギャップに依拠する。
ここで軍隊の階級を思い起こしておこう。そこには奇妙な事実がある。階級は軍隊の指揮序列内部のポジションとは重なり合わないのだ。将校の階級ーー中佐、大佐、司令官…から、人は指揮の階層的連鎖(大部隊の指揮官、軍集団の指揮官)のなかにある彼のポジションを直接的には引き出しえない。
元々もちろん、階級は指揮のあるポジションに直接的に基づいている。しかしながら、奇妙な事実は、階級がこのポジションの指定を二重化しようとするやり方である。今日、人はこう言う、「総司令官 Michael Rose、ボスニア国連保護軍指揮官」と。なぜ二重化するのか、なぜ階級を廃止してシンプルに指揮系統のなかにあるポジションにて将校を指し示さないのか? 唯一、文化革命全盛期における中国軍が階級を廃止し、指揮系統におけるポジションを使用した。
二重化の不可欠性はまさに主人のシニフィアンをつけ加えることの不可欠性である。それは社会のヒエラルキーにおけるポジションを指示する「ふつうの」シニフィアンへの付加である。同じギャップはまた同じ人物の二つの名前によっても例証される。ローマ教皇は同時に Karol Wojtyła(カーロル・ヴォイティワ)と John Paul II(ヨハネス・ポール2世)である。最初の名は「本当の」人物を表している。他方、二番目の名は、教会組織の「不可謬の infallible」具現化としての同じ人物を指し示す。ーー憐れむべき Karol カーロルは、酔っ払い馬鹿げたことを洩らすことができる。他方、John Paul II ヨハネス・ポールが話すときは、それは彼を通して話す神聖な精神自体である。
【(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2のカップル】
人はいま分かるだろう、正確な意味において、ラカンの命題が孕んでいるものを。その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2のカップルの十全な調和的現存 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。
(中略)
【〈一〉と記銘のその空虚な場のあいだの分裂】
…ラカンの la femme n'existe pas(〈女〉は存在しない)は男性と女性の「二項」極のカップルを掘り崩すことをまさに目指している。元々の分裂 split は〈一者〉と〈他者〉the One and the Other のあいだにはない。そうではなく、厳密に〈一者〉the One 固有のものである。〈一〉 the Oneと記銘 inscription のその空虚な場とのあいだの分裂である(これが、カフカの名高い言葉、《メシアは彼の到着のあとに一日遅れてやって来る》を読むべき方法だ)。
これはまた、〈一〉に固有の分裂と多数的なもの the multiple の爆発とのあいだの繫がりをいかに理解すべきかにかかわる。すなわち、多数的なものは原初の存在論的事実ではない。多数的なものの「超越論的」起源は、二項シニフィアン等の欠如にある。多数的なものは失われた二項シニフィアンの裂け目を埋めるための一連の試みとして出現する。
【主人の言説の肯定的側面】
こういうわけで、主人の言説を撥ねつける理由はない。権威主義者の抑圧と主人の言説をあまりに早急に同一化してしまう過ちを犯さないようにしよう。主人の振舞いはすべての社会的紐帯の基盤となる振舞いである。
社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、主人は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。その後、大学人の言説は、知のネットワークーーこの判読可能性を、定義によって支えるーーを分節化するわけだが、その言説は、当初の主人の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。
主人は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。
ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。そしてナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。
【〈一〉とゼロのあいだの最も微小な差異】
S1 と S2 のあいだの差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一〉(One)の 用語に固有のこの領域内の裂け目である。トポロジー的には、二つの表面において同じ用語を得る。
言い換えれば、元々のカップルは二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなくシニフィアンとその二重化 reduplicatio、シニフィアン とその記銘 inscription の場、〈一〉とゼロのあいだの最も微小な差異である。
では、どうやって S1 と S2 は関係するのか? 我々は二つの相反するヴァージョンのあいだの選択に揺れ動かなかったか。
最初のヴァージョンでは、二項シニフィアン、S1 の釣り合いの取れた対応相手は「原初的に抑圧されている」。そして、この抑圧の空虚を補うために、S2 の連鎖が出現する。元々の事実は、S1 とその対応相手の場にある空虚のカップルであり、S2 の連鎖は二次的なものである。
二番目のヴァージョンでは、「謎のような用語」、空虚のシニフィアンとしての S1 の出現の説明において、原初の事実は、逆に、S2 、その不完全性における徴示的 signifying 連鎖であり、この不完全性の空虚を満たすために、S1 が介入する。
いかにこの二つのヴァージョンをうまく調和させうるか? 究極の事実は二つの相互的影響の悪の循環だろうか?
ーージジェクはここで問いを投げだしたままにしている。LESS THAN NOTHING(2012)にも同じような問いがある(メイヤスーに触れた箇所であり、わたくしは消化できていないが、そのさわりを掲げておこう)。
では、唯物論と観念論のあいだの選択は、シニフィアンの秩序のなかの多数的なものと〈一〉とのあいだの関係性の最も基本的な枠組みにかかわるのだろうか?
原初の事実とはシニフィアンの多数的なものの事実だろうか。その多数的なものは〈一〉の引き算 subtraction を通して全体化されるのか。
それとも「棒線を引かれた〈一〉」という事実か? ーーもっと正確に言うなら、〈一〉とその空の場のあいだの緊張の事実、二項シニフィアンの「原抑圧」という事実により、多数的なものがこの空虚のなかの二項シニフィアンの欠如を埋めるのか?
いっけん最初のヴァージョンが唯物論者のもので、二番目のヴァージョンが観念論者のものに見えるかもしれないが、我々はこの安易な誘惑を拒絶しなければならない。本当の唯物論者のポジションからは、多数的なもの multiplicity は空虚の背景に反してのみ可能である、ーーこれのみが多数的なものを非-全体 pas-tout にする。
原初の多数的なものからの〈一〉という(ドゥルージアンの)「起源」、いかに全体化する〈一〉が起こるかという「唯物論者」の説明は、こういうわけで拒絶されるべきだ。なんの不思議でもない、ドゥルーズが同時に「生気論者的」〈一〉の哲学者であることは。(ジジェク、2012)
このドゥルーズの「生気論者的」〈一〉の哲学者的側面は、浅田彰による「超越論的経験論」をめぐる説明箇所に当るのだろう(たぶん?)
ドゥルーズは、他者というのは「可能世界の表現」だと言う。私の知覚野は狭いけれども、他者は私に見えないものが見えているかもしれないし、私に感じられないものが感じられているかもしれないし、そもそも、そのような他者がいるからこそ知覚野が共同主観的構造として整然と秩序化されているのだ、と。しかし、それは現象のレヴェルの問題にすぎない。たしかに、そういう他者がいなくなると、最初、世界の秩序が崩壊して、ロビンソンは非常な苦しみを体験する。しかし、それを突き抜けていくと、ロビンソン自身も島全体がエレマン(諸元素)の群れとなって立ち上がり、コスミックなロンドを踊り始める。フライデーが出てきても、他者としてではなく、すでにエレマンテールなものとして出てくるにすぎない。それがトゥルニエの偉大な独我論的ファンタスムなのだ、というわけです。
それと併せて見れば、ドゥルーズは、ニーチェからクロソフスキーに至る多数多様性のヴィジョンを、むしろトゥルニエ的な独我論の相で見ていると言えるのではないか。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)より)
【大学人の言説詳述】
大学人の言説は「中立的」知のポジションから発せられる。それは現実界の残余に向けられ(言わば、学者ぶった知の場合なら、「未加工の、飼い馴らされていない子ども」に向けられる)、その a を主体に変える(S2 → a → $ )。
大学人の言説の「真理」は、横棒の下に隠されているが、もちろん、権力、つまり主人のシニフィアンである。大学人の言説の構成的な虚偽は、その行為遂行的側面の否認である。実際上、権力を基盤とした政治的決断に帰するものを、事実に基づく状況への単純な洞察として提示してしまう。
ここで避けねばならぬことはフーコー的な誤読だ。すなわち、産出された主体は、単純には、知と権力の規律ある適用の結果として生ずる主体性ではない。そうではなく残余である。それは知-権力の把握から逃れたものだ。「産出物」(言説のマトリックスにおける第四番目の用語)は多面的作用の結果を表しているのではない。そうではなく「分割できない残余」である。多面的ネットワークのなかに含まれることに抵抗した過剰なのだ。つまり、言説自体がその核心のなかで異物として産みだしたものである。
たぶん主人のポジションーー大学人の言説の下に横たわっているーーの典型的事例は、我々の日常生活における医学(医師)の言説の機能である。表面的レヴェルでは、我々は純粋な客観的知を取り扱っている。それは主体-患者を脱主体化する。患者を診断と治療の調査対象に還元する。しかしながら、その下に、人は容易に見分けることができるだろう、気を病みヒステリー化した主体を。不安に取り憑かれ、彼の主人としての医師に差し向けて、医師から元気づけの言葉を求める主体だ(そして、人は主張しがちだ、医師が単にほかの科学者のように取り扱われてしまうことの抵抗は、彼らの「気づき」ーー彼らのポジションはいまだ主人のポジションにあるという自覚にある、と。この理由で、我々は医師から単にありのままの(客観的)真理を告げられることを望まない。医師が悪い知らせを告げるように期待されるのは、その悪い状態の我々の知が、ともかくも、その病状を取り扱うために患者を手助けとなる場合のみだ。患者への告知が事態を悪化させるのみであれば、医師は患者からその告知を見合わせるように望まれる)。
よりふつうのレヴェルでは、市場の専門家を思い起こすだけで十分だろう。その専門家は強力な財政手段を提唱する(社会保障費削減等)。彼の中立的な専門知識によって強いられた必要不可欠なものとして。そこにはどんなイデオロギー的バイアスもないようにみえる。だが彼が隠蔽しているのは、一連の権力関係である(国家機関における能動的役割からイデオロギー的信念まで)。それが市場メカニズムの「中立的」機能を支えている。
【ヒステリーの言説=幼児の原初的状況】
ヒステリー的な紐帯において、 分割されトラウマ化された主体を表す $ 、大他者にとっての対象としてある彼女、大他者の欲望のなかで演じる役割によって分割されトラウマ化された $ として、彼女は問う、「どうして私はあなたがいうような私なの?」、あるいは、シェイクスピアのジュリエットを引用するなら、「どうして私はその名前なの?」と。
これは、ラカンにとって、幼児の原初的な状況である。リビドー的注ぎ込みの蜘蛛の巣 cobweb of libidinal investments に投げ込まれた幼児ーー、どういうわけか彼(女)は、他者のリビドー的注ぎ込みの焦点になっていることに気づくのだ。けれども他者が自分のなかに「何」を見ているのかは掴みえない。幼児が大他者-主人から期待するのは、対象としての彼女は何なのかについての知である(公式の底部 a // S2 )。
(中略)
【倒錯者の言説と分析家の言説】
ヒステリー者とは対照的に、倒錯者は完全に知っている、彼が大他者にとって何なのかを。知が、大他者の(分割された主体の)享楽の対象としての彼のポジションを支えている。この理由で、倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。
倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮が曖昧化しているもの、囮の背後にある空虚である。
こういうわけで、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。
知、「エージェント」の下の横棒の下部にある「真理」のポジションの知は、もちろん、分析家の想定された知を表している。と同時に、ここで獲得されている知は、中立的な「客観的」知ーー科学的妥当性をもった知ではない。そうではなく、主体(分析主体 = 被分析者)にかかわる知、彼の主体的ポジションの真理のなかにある知である。
(ここで、ふたたび思い起こしておこう、ラカンの法外な言明を。すなわち、嫉妬深い夫が彼の妻について言い張るーー彼女はそこらじゅうの男と寝るーー、それが真実だとしても、彼の嫉妬はいまだ病理的 pathological である、と。この同じ線で言いうるだろう、ユダヤ人についてのナチの主張のほとんどがかりに真実だったとしてもーーユダヤ人はドイツ人を食いものにする、ドイツ人の少女を誘惑する…ーー、彼らの反ユダヤ主義はいまだ病理的だ、と。というのは、それは本当の理由を抑圧しているからだ、その理由とは、ナチスは「なぜ」反ユダヤ主義が「必要だったのか」にかかわる。それは、ナチスのイデオロギー的ポジションを維持するためである。
だから、反ユダヤ主義の場合、ユダヤ人が「実際にどのようであるか」についての知はまやかしであり見当ちがいである。他方、真理の場にある唯一の知は、なぜナチは彼らのイデオロギー的体系を支えるためにユダヤ人の形象が「必要か」についての知である。)
この正確な意味において、分析家の言説が「産出する」ものは、主人のシニフィアンである。患者の知の「脱線-逸脱物 swerve」、患者の真理のレヴェルでの知の場にある剰余要素である。主人のシニフィアンが産出されたのち、知のレヴェルではなにも変わらなくてさえ、以前と「同じ」知が異なったモードで機能しはじめる。
【主人のシニフィアン=無意識的なサントーム】
主人のシニフィアンは、無意識的な「サントーム」、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに知らないままに服従subjectedしている。ーーここで逃してはならない決定的な点は、この後期ラカンの同一化、対象a のポジションとして分析家の独自のポジションとの同一化は、ラディカルな自己批判の行為にかかわることだ。
以前、1950年代には、ラカンは分析家は小さな他者 a であるとは考えなかった。逆に、大他者(A、すなわち 匿名の象徴秩序)の代役のたぐいだと考えた。このレヴェルにおいては、 分析家は主体のイマジネールな誤認の裏をかき、正しい象徴的場を受け入れさせることだった。正しい場とは、象徴的交換の回路内部での、彼らの象徴的アイデンティティを実質上決定づけている(彼らに知られないままに unbeknownst)場である。
しかしながら、後に、分析家はまさに大他者の究極的な非一貫性と行詰りの代わりだと考えられようになった。非一貫性と行詰りとは、主体のアイデンティティを支えることの象徴的秩序の不能力のことだ。
こういわけで、政治的指導者が「私はあなたの主人だ、私の願いを成就させてくれ!」と言ったなら、権威のこの直接的な自己主張は、主体は、自らが指導者として振舞うことの資質を疑いはじめたとき、ヒステリー化される(私はほんとうに彼らの主人なのだろうか? 私のなかに、私のその振舞いを正当化する何があるというのだろう?)。
それは大学人の言説のうわべの仮面をかぶることもありうる(これをするようにあなたに求めるとき、私はたんに、客観的な歴史上の必然への洞察に従っているだけだ。だから私はあなたの指導者ではない。そうではなく、あなたをあなた自身の善のために振舞うようにする召使いにすぎない)。
あるいは、主体は空白として振舞うこともできる。彼の象徴的有効性を宙吊りにし、彼の大他者に次のことに気づくように強いる、ーー彼がいかに指導者としての別の主体をやっていたのかは、自分で自分をそう扱っていたからに過ぎない、と。
はっきりさせなくてはいけない、この短い説明から、いかに四つの言説のそれぞれにおける「エージェント」のポジションは主体性の個別の様式を含意しているかを。
主人は彼の(発話)行為に十全に没頭した engaged 主体である。彼は、ある意味で、「彼の言葉のなかに」いる。彼の言葉はすぐさま行為遂行的有効性をしめす。
逆に、大学人の言説のエージェントは、基本的に不没頭 disengaged である。彼は自らを次の立ち位置に置く。すなわち、中立的な知に影響された「客観的法」の自己滅却した観察者(そして執行者)である(臨床的用語では、彼のポジションは倒錯者のポジションに最も近い)。
ヒステリーの主体は、まさにその現存 existence そのもがラディカルな疑念と問いにかかわる。彼の全き存在 being は、「私は大他者にとって何だろう」という不確信によって支えられている。主体は大他者の欲望の謎へ応答としてのみ存在するという限りで、ヒステリーの主体はまさに主体はそのものである。
ふたたび、このヒステリーの主体と対照的に、分析家は脱主体化した主体パラドックスを表す。ラカンが「主体の解任」と呼んだものを十全に引き受けた主体である。彼は欲望の間主体的弁証法の悪の循環から脱出し、純粋欲動の無頭の存在 being に変身する。
(藤田博史氏による) |
【四つの言説の政治的読解】
四つの言説のマトリックスの政治的読解をするなら、言説のそれぞれは明確に政治的繫がりがある。
主人の言説、ーーそれは幻想に支えられた政治的権威の初歩的様式である。
大学人の言説、ーーそれはポスト政治的「専門家」の規範である。
ヒステリーの言説、ーーそれは抗議と「抵抗」の論理、要求の論理である。ラカンの公式に従えば、要求は実際のところは拒絶されたい。なぜなら‘‘ce n'est pas ca'' だから(というのは、要求が完全に満たされてしまえば、要求の文字通りの満足は、要求からその隠喩的な普遍的側面を奪い去ってしまうから。ーー X を求める要求は、「本当は X についての要求ではない」のだ)。
分析家の言説、ーーそれはラディカルな革命的-解放的政治である。そこではエージェントは a である。それは症状的な点、状況の「非部分の部分 part of no part」だ。真理の場には知がある(その知は、例えば、エージェントの言表行為(言表された内容ではなく)のポジションを分節化し、それ故、真理の力強い効果を獲得する)。エージェントの宛先には $ がある。それは元主人 ex-master であり、今はヒステリー化されている。というのは、エージェントは、彼のポジションを問い糾すからだ。その問いの方法は、主人のシニフィアンを「産出する」仕方、そのシニフィアンを開放的に展開し、それ自体として解明するやり方であり、それ故、主人のシニフィアンはうまく働かなくなる(「本質的に副産物である」状態のパラドックスとして、だ。すなわちいったん問い糾されたら、権威は自明性を喪失する)。
(以下略)
…………
難解な部分はさておき--たとえば《S1 と S2 のあいだの差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一〉(One)の 用語に固有のこの領域内の裂け目である》--、なにが最も肝腎なのかは、それぞれの言説は固定されたものではないことだ。たとえば主人の言説は、あるときすぐさまヒステリーの言説にかわる。それは主体がヒステリー者であるかどうかには関係がない。自らのあり方に問いを立てれば、構造的にヒステリーの言説になる。
病的ナルシシストをヒステリー化するには、その属性に還元できないような象徴的委託を押しつけさえすればいい。そうした対決はヒステリー的な疑問をもたらず。「どうして私は、あなたがこうだと言っているような私なのか」。(ジジェク『斜めから見る』p195)
病的ナルシシストの言説ーーメンヘラ、ネトウヨの言説?--は、厳密には主人の言説ではないとではいえ(一部の解釈者により「想像的ディスクール」と規定されている)、父の名が凋落した時代のパラノイア的 S1 である(参照:The Tactics of the Master: Paranoia versus Hysteria, in: Journal of the Centre for Freudian Analysis and Research, 1997)。
ここで気をつけなければならないのは、想像的ディスクールというディスクールの在り方についてです。想像的ディスクールとは、自我が正しいと信じたり感じたものを、客観的にも正しいと認定してしまうような思考様式の在り方です。これは自身の自我を何よりもまず信頼しているという証拠です。ですから、自身の自我に絶大なる信頼を置いている人は、当の自我が信じたものも正しいと信じてしまう。つまり「自我が実感するものは正しい、何故ならば自我は疑いようもなく正しいのだから」という自我肯定の手続きを踏んでいるのです。この行為をフランス語で表現すれば「y croire pour le croire」となります。croire というのは「信じる」という動詞ですが、croire は直接目的語を取る場合と間接目的語を取る場合とがあります。 croire のすぐ後ろに目的語がくる場合と、croire à という前置詞が付く場合です。croire à というのは「信じ込む」といったニュアンスを持っていて、尊敬している人の言葉を信じるとか、宗教的な信仰心や神の存在を信じるとかそういう意味合いを持っています。したがって、y croire の y というのは à + 自我の判断、ということになります。つまり、わたしはわたしが判断したことを信じる、となるわけです。次に、pour le croire の pour ですが、これは何々のために、つまり、それを信じるために、という意味です。ちなみにフランス語では目的語が代名詞の場合には動詞の前に来ます。「それ le」 は何かというと、自我です。ですから「y croire pour le croire」という構文で表現されているのは「わたしはわたしを信じるためにわたしの判断を信じる」という「信じる」ということによって運ばれている宗教的な心のあり方の基本構造なのです。これは端的にいうなら、想像的ディスクールであり、自我に深い愛情を抱かせると同時に攻撃的な他者廃棄へも導いてゆく、二律背反的な、極めて危うい心のあり方なのです。(藤田博史、2012)
おそらくこれは、女流分析家第一人者のコレット・ソレールの用語なら、 “innocence paranoiaque”にかかわる。
この新しい時代のナルシシスト的主人(S1)をヒステリー化する($)のは簡単である。そして主人がヒステリーになるのはなんの悪いこともない(参照:シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説))。
逆に、大学人の言説で語るものが、たちまち主人の言説にかわってしまう、などということもありうる。真理のポジションに隠蔽された主人S1が露骨にあらわれる、などということが。
くり返せば、S2の下にあるものが主人S1である。そしてここにあるS1がこの大学人の言説の真理だ。
この真理のポジションにある主人S1が、ときおりあからさまに露顕してしまうというのは、ツイッターなどで再三見られる現象だ。
たとえば研究者たちの言説ツイートはおおむね大学人の言説だ。だが隠蔽された主人S1がときおり露出する。これはラカン派として訓練を積んだ者にさえ見られる(参照:三種類の阿呆)。
このように記すわたくしは、これらの現象をまったく免れているわけではないことを、言わずもがなだが、念押ししておこう。
要するに、四つの言説の教えとは、古来からある問いを構造的に分節化したものとして(も)捉えうる。
他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)
そして《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(中井久夫超訳)》(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)のであり、ひとは他人より自分を取り調べるのが不得手だ。
他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)
…なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても―――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて―――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
たとえば、次のようなこともしばしばあるだろう。
《人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである》(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」》
あらゆるかくしごとのなかで、一番危険をはらんでいるのは、あやまちを犯した当人が、頭のなかで、そのあやまちをかくそうとする作為である。当人の頭にそのあやまちがつねにこびりついていることは、そのあやまちが世間一般にどれだけ知れれていないか、またある完全なうそがどれだけ安易に信じられるかを、当人に推察できなくさせるとともに、他面で、大した危険はないと見くびってしゃべる言葉のなかに、どの程度まで真相をもらす告白が食いこみはじめるかをも、当人に理解できなくさせるのである。(プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ』井上究一郎訳)
心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)
ここでわれわれはスピノザの「自由」についてさえ思い起すことができる。
《定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。》(スピノザ『エチカ』)
スピノザは、われわれは情念を意志によって操作できない、だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由であると考える。
彼は「自由意志」を批判する。しかし、それは、自由や意志を否定することではない。実際は諸原因に規定されているのに”自由”だと思い込んでいる状態に対して、超越論的であろうとする意志(=知性)に、スピノザは自由を見出すのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
ことさらラカン理論にこだわらなくてもよい、だがマルクス・アウレーリウスやスピノザ、ニーチェ、プルースト、さらには夏目漱石らの問いが形式的に構成されているのが、ラカンの「四つの言説」であり、それは言説分析にかぎりなく役立つ。もし〈あなた〉が「知りたくないnot-wanting-to-know」という態度を取っていても、過去の「偉大な心理家たち」の言葉は回帰してくるだろう。
ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)