E840
シニフィアンの領域は、シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象するという事実を基礎に成立しています。これはすべての無意識の形成物、すなわち夢、いい間違い、機知の構造です。これと同じ構造はまた、主体の原初的分裂[division]を説明してくれます。シニフィアンはいまだ位置づけられていない《他者》の場所に作り出され、いまだ話すことのできない存在から主体を生み出します。しかし、このことはその存在を凍りつかせてしまうということをその代償とするのです。《そこにあった[il y avait]》今にも話さんとするものは消え去り、もはやシニフィアン以外の何物でもないものになります。ここで私が「il y avait」と申し上げたのは、フランス語の半過去の二つの意味を念頭においています。つまり、今にも話さんとするものを前の瞬間に位置づける(すなわち、そこにあったがもはやなくなってしまった)という意味と、後の瞬間に位置づける(すなわち、そこにありえたのだから、少し時が経てばそこにあるであろう)という意味です。
E841
この操作が疎外[alienation]と呼ばれるのは、この操作が《他者》のなかで始まるからではありません。主体にとって《他者》が主体のシニフィアンの原因であるという事実は、どんな主体も自身の自己原因にはなれないということを説明してくれるだけです。これは主体が《神》ではないからというだけではなく、《神》を主体としてとらえた場合、《神》自身も自己原因になれない、ということから明らかです。聖アウグスティヌスはこのことを非常に明確に理解していたので、個人としての《神》に「自己-原因」としての性質を与えることを拒んだのです。(松本卓也訳)
ーーなるほど松本卓也氏はすでに2004年にこのように訳しているのだな、2004年といえば彼はまだ20歳前後じゃないか。
オレのように耳順の齢をすぎてから英文(のみ)を斜め読みしている人間とはわけがちがう。
The register of the signifier is instituted on the basis of the fact that a signifier represents a subject to another signifier. This is the structure of all unconscious formations: dreams, slips of the tongue, and witticisms. The same structure explains the subject's original division. Produced in the locus of the yet-to-be-situated Other, the signifier brings forth a subject from a being that cannot yet speak, but at the cost of freezing him. The ready-to-speak that was to be there—in both senses of the French imperfect "ily avait" placing the ready-to-speak an instant before (it was there but is no longer), but also an instant after (a few moments more and it would have been there because it could have been there)—disappears, no longer being anything but a signifier.
It is thus not the fact that this operation begins in the Other that leads me to call it "alienation."The fact that the Other is, for the subject, the locus of his signifying cause merely explains why no subject can be his own cause [cause de soi], This is clear not only from the fact that he is not God, but from the fact that God himself cannot be his own cause if we think of him as a subject; Saint Augustine saw this very clearly when he refused to refer to the personal God as "self-caused" [cause de soi].
松本くんの訳文に出合った記念に、彼に敬意を表して、ほとんど縁のない仏原文をも掲げておこう。
Le registre du signifiant s'institue de ce qu'un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant. C'est la structure, rêve, lapsus et mot d'esprit. de toutes les formations de l'inconscient. Et c'est aussi celle qui explique la division originaire du sujet. Le signifiant se produisant au lieu de l'Autre non encore repéré, y fait surgir le sujet de l'être qui n'a pas encore la parole, mais c'est au prix de le figer. Ce qu'il y avait là de prêt à parler ,- ceci aux deux sens que l'imparfrait du français donne à l'il y avait, de le mettre dans l'instant d'avant : il était là et n'y est plus, mais aussi dans l'instant d'après : un peu plus il y était d'avoir pu y être, -ce qu'il y avait là, disparaît de n'être plus qu'un signifiant.
Ce n'est donc pas que cette opération prenne son départ dans l'Autre, qui la fait qualifier d'aliénation. Que L'Autre soit pour le sujet le lieu de sa cause signifiante, ne fait ici que motiver la raison pourquoi nul sujet ne peut être cause de soi. Ce qui s'impose non pas seulement de ce qu'il ne soit pas Dieu, mais de ce que Dieu lui-même ne saurait l'être, si nous devons le penser comme sujet -saint Augustin l'a fort bien vu en refusant l'attribut de cause de soi au Dieu personnel.
ところで、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ラカンのテキストに驚くほど繰り返し出現するのだが、たとえば『同一化セミネール』では次ぎのようにラカンは語っている(参照:ラカン派の「記号」と「シニフィアン」)。
シニフィアンは記号とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(セミネールⅨ、向井雅明試訳)
冒頭だけ仏原文を掲げておこう。
Le signifiant… à l'envers du signe, n'est pas ce qui représente quelque chose pour quelqu'un …c'est ce qui représente précisément le sujet pour un autre signifiant. Séminaire 9 Staferla 版p.78
ラカンは後年セミネールⅩⅦで「四つの言説」概念を提出したが(参照)、そこでも《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》という文をとくに「主人の言説」を例に挙げて説明している(Staferla 版、P.19)。
これらは解釈者たちによって次のように説明される。
◆Lacan’s fifth Discourse, introducing the Capitalist Discourse(Philippe Gendrault)
◆ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.2004
◆Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility 2006
◆ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.2004
ラカンの名高いシニフィアンの「定義」、シニフィアンは主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象する…主人の言説が基本の母胎を提供してくれる。すなわち主体はもうひとつのシニフィアン(「ふつうの諸シニフィアン」の鎖あるいは領域)に対するシニフィアンによって表象される。象徴的表象化に抵抗する残余ーー喉に刺さった骨ーーは対象aとして出現する(生産される)。そして主体は幻想的な形成を通してこの過剰に向けて彼の関係性を「正常化」しようと努める(これが主人の言説の式の下段が幻想のマテーム $ – a を示している理由である)。(私訳)
◆Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility 2006
主体は諸シニフィアンの鎖の効果であり、ほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって表象される。主体は「己れ」を読むために主人のシニフィアンが必要である。セミネールXXにおいて、ラカンはこう言っている、主人のシニフィアンは封筒のようなものであり、その包みを通して諸シニフィアンの全ての鎖ーー知knowledgeーーは存続しうる、と。(Seminar XX, 129-131)
ここではもうひとつ、上に掲げたエクリにある《どんな主体も自身の自己原因にはなれない》にも注目してみよう。セミネールⅩⅣには、「シニフィアンはそれ自身をシニフィアン(徴示)することができない」、というふうに要約できる文がある。
英訳:it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.(The Logic of Fantasy)
仏原文;il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( Logique Du Fantasme l966-67 )
さらに、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ジュパンチッチのバディウ論によれば、”a major breakthrough of contemporary thought”だそうだ。しかもラカンの現実界の定義にもかかわり、pas-tout(非全体の論理)もかかわる、と。
A conception that finds its most concise formulation in Lacan's statement: ‘a signifier represents a subject for another signifier'. This was a major breakthrough of contemporary thought, a breakthrough that could in fact provide philosophy with its ‘fifth condition', i.e. its own distinctive conceptual space. For in this conception, representation is not a ‘presentation of presentation' or the state of a situation but rather a ‘presentation within presentation' or a state within a situation. In this conception, representation is itself infinite and constitutively not-all (or non-conclusive), it represents no object and does not prevent a continuous un-relating of its own terms (which is how Badiou defines the mechanism of truth). Here, representation as such is a wandering excess over itself; representation is the infinite tarrying with the excess that springs not simply from what is or is not represented (its ‘object'), but from this act of representation itself, from its own inherent ‘crack' or inconsistency. The Real is not something outside or beyond representation, but is the very crack of representation.
ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。
ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
…………
※追記
セミネールⅢにもすでに次ぎのように出て来ていることに注目しておこう。
Il n'y a pas d'autre définition justement scientifique des subjectivités que par cette possibilité de manier le signifiant à des fins purement signifiantes, et non pas significatives, c'est-à-dire qui n'expriment aucune relation directe de l'ordre de l'appétit, et font jouer l'ordre du signifiant, et non pas simplement à l'état de signifiant constitué. p.421
そしてラカンのシニフィアンの捉え方の説明として初期から後期までのラカンの主体概念を綿密に解釈するおどろくべき書『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 (Lorenzo Chiesa. 2007)における冒頭近くにある軽いジャブ程度のシニフィアンの定義を掲げておこう。
(1)《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必らずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。
(2) 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両-一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両-一義的 bi-univocal」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。
(3)「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって代表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示するsignifiesことはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(私訳)
そしてシニフィアンを考える上で肝腎なことは次ぎのようなことだ。
医療診断学において、症状は、底に横たわる障害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)
臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。
医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)
これはなにも精神分析臨床の実践の場のみにはかかわらない。われわれはたとえばツイッター上での発言を記号として捉えるか、シニフィアンとして捉えるか、そこに人の発言を判断する「分析」の要(のひとつ)がある。
精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』ーー「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」(フロイト))
ーーでは、〈あなた〉は「精神科医」でないのだから、人の発言を「額面通り」とるのだろうか? それが好きならそうしたらよろしい。だがそれでは、たとえば「政治家」の発言をなにも解釈できないだろう。
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※追記:別に投稿しようと思ったがあえてそうするまでもない気がしてきたのでここに追記しておく。
ジジェクによるラカンの「波打ち際 littorale」のよりわかりやすい説明は次ぎの文がいいだろう。
Levi R. Bryantは『The Democracy of Objects』(2011)にてジジェクの『為すところを知らざればなり』から引用して次ぎのように記している。
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※追記:別に投稿しようと思ったがあえてそうするまでもない気がしてきたのでここに追記しておく。
ジジェクによるラカンの「波打ち際 littorale」のよりわかりやすい説明は次ぎの文がいいだろう。
Levi R. Bryantは『The Democracy of Objects』(2011)にてジジェクの『為すところを知らざればなり』から引用して次ぎのように記している。
the bar which separates [the symbolic and the real] is strictly internal to the Symbolic, since it prevents the Symbolic from “becoming itself”. The problem for the signifier is not its impossibility to touch the real but its impossibility to “attain itself”—what the signifier lacks is not the extra-linguistic object but the Signifier itself, a non-barred, non-hindered (Cf. Žižek, For They Know Not What They Do, p. 112.)
In short, the real is not something other than the symbolic, but rather is a sort of effect of the symbolic resulting from the difference that haunts every signifier by virtue of the split between the signifier and its place of inscription. Because the signifier always embodies this difference between itself and its place of inscription, the signifier always and everywhere necessarily fails to attain identity with itself. However, this very failure to attain identity with itself is precisely the very essence of its identity. As Hegel playfully remarks in the Science of Logic, if A were identical with itself, why would I need to repeat it? The repetition of an identity in a tautology like “A = A” actually marks the difference or non-identity of A with itself.
彼は同じ書で、ラカンのシニフィアンの定義をヒステリーの言説にて説明している。
In the discourse of the hysteric, the subject addresses the Other or master from the standpoint of his split. This split results from the inability of the symbolic or language to provide the subject with a signifier that would fix or name his identity within the symbolic.
In short, the hysterical subject calls on the other to tell him what he is. This inability of language to provide a signifier that would found the subject arises from the essence of language itself.
As Lacan remarks in The Logic of Fantasy, “it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.273
Insofar as the signifier cannot signify itself, it always requires another signifier to produce effects of signification.
In this respect, signifiers have the structure of sets that do not include themselves, and Lacan does not hesitate to draw a parallel with Russell's paradox pertaining to the impossibility of a set of all sets that do not include themselves. The net result of this is that there cannot be a “universe of discourse” or totality of language because it will always be beset by paradox from within.274
The consequence of this is that there can be no stable signifier that could ground the subject's identity, for each signifier will necessarily refer to another signifier without any possibility of completeness. It is this structure of language that accounts for the divided structure of the subject.
Moreover, in the position of truth in the discourse of the hysteric, we encounter objet a as that remainder that is always lost within language. It is this remainder that literally drives the subject forward, forever looking for that signifier that would ground identity, and further alienating himself through his speech.
The product of this discourse, we note, is knowledge, S2, produced as a result of the hysteric's demand. Indeed, Lacan claims that the discourse of the hysteric is the only discourse that produces knowledge.275 In this connection, we can treat Φ and the master or S1 to which the hysteric addresses himself as equivalent.