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2015年9月15日火曜日

で、どうおもう、〈あなた〉は?

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)

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小田実bot ‏@odamakoto_bot

デモやってると、警官が出てきて怒鳴りまくるやろ。「何ぬかすか、アホ!」ってこっちも言ってやる。そうすると恐怖も共有するし感動も共有する。精神が躍動するでしょう。しかも歩いとるんだから、いちばん健康にいいというのが私の説なんです(笑)。『小田実の世直し大学』2001

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)
人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」((ニーチェ『権力への意志』「第三書 原佑訳)

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』)
義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』) 

小田実の「精神が躍動する」とは攻撃欲動、権力への意志の発散と言い換えてもいいんじゃないかい?

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)


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東浩紀 ‏@hazuma

言葉がなくても酒飲めばわかりあえる、肩組んでビースとか言っているひとがもっとも危険で、戦争に行ったらばんばん人殺すひとに生まれ変わるというのは自明で、そして近代社会というのはそういうひとの勝手にさせないために面倒な仕組みを作っている世界なので、ぼくはその点では徹底して近代人です。(2015.9.15)

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。しかしその悪癖がいまでは、群れを破壊へ導きかねない。たったひとりの気紛れが全体の、永遠にも似た忍耐をいきなり破る。(古井由吉『哀原』女人)
@yoshimichi_bot: 私が数を背景にした集団行動を嫌う理由は、集団行動は原理的に醜いから、原理的に不正だから、原理的に悪だからである。それは一時的な戦術であるにせよ、自分たちは完全に正しいという姿勢をとる。相手は完全にまちがっているという単純な二元論を演技する。『日本人を<半分>降りる』中島義道
@yoshimichi_bot: 考えない者の強さ、考えることができない者の強さ、しかもそれでヨシとしている者の強さ、「俺、バカだから」と居直る者の強さは、筋金入りの強さである。まさにニーチェの語るごとく「悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝る害悪はない」。『エゴイスト入門』中島義道
……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)


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権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」と(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

オレかい? オレの見解は、戦争法案反対というのは「論理的には」難民受け入れデモにつながるはずというものだ。彼らが「賤民」でないならね(参照:「おまえらおれたちばかりにやらせるなよ すこしは世界の警察官の仕事手伝ってくれ」)。


東浩紀@hazuma
難民受け入れを求めるデモってあるのかしら。戦争反対デモには乗れないが、難民受け入れデモなら参加できそうな気がする。(2015.9.05)

ーーたまたま東浩紀氏のツイートをふたつも掲げてしまったが、わたくしは彼のファンでもなんでもない、ただし「地頭は最高の人」(鈴木健)かも知れないとは思う。すくなくともそのあたりの「学者」よりはずっとましだ。

二つも続けて引用した「反動」のために次ぎの文を掲げておく誘惑から逃れられない。

たとえば東浩紀氏が書いたものがわたしの心に響いてこないのは、それがカタログ的な知から構成されているように見えるからです。基本にあるのはジャック・デリダや量子力学の名を借りた思想カタログもしくは思想フィクショ ンです。実際に砂漠のなかを歩いたか、ジャングルのなかを歩いたか、実際に異国の地で何年も過ごしたか、という ような、生身の体験や根源的な危機感が感じられない。自らは安全な場所に身を置いて、頭の中で順列組み合わせで 知識を再構成している。厳しい言い方をすれば、人も羨むエリート大学卒業生が書斎で捏造した小賢しいフィクショ ンです。迷える子羊たちはその人の言うことについてさえ行けば何とかなると思ってしまう。(藤田博史『セミネール断章』 2011年12月


で話を戻せば、あの敬すべきデモ参加の人たちが難民デモがあった場合に果たして十分の一でも居残るだろうかについて思いを馳せるね、--さてどうだろう?

いずれにせよ、こうだ。

……みなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。 われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸

デモぐらい行けよ、だがデモの熱狂を疑えよ、そういうことだ。

街頭でのデモ(示威行進)は古い、という人たちがいる。また、インターネットなどの普及で、 さまざまな抗議の手段が増えたという人たちがいる。しかし、市街戦や武装デモは古いが、 古典的なデモは今も、西洋やアジアで存在している。いかに非能率的に見えようと、それ はやはり効果がある。というより、丸山真男や久野収が強調したように、民主主義は代表 議会制度だけでは機能しない。デモのような直接行動が不可欠なのである。 ところが、日本にはデモがない。それはインターネットなどのせいではない。たとえば、韓 国ではインターネットはデモの宣伝や連絡手段として役立っているが、日本ではむしろそ の逆である。人々はウェブ上に意見を書き込んだだけで、すでに何か行動した気になっているのである。(柄谷行人 丸山真男とアソシエーショニズム (2006))

ーーで、2011年を経て、デモが真っ盛りになってしまったが、それが《国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか》(中井久夫)でないかどうか疑うことを忘れてはならない、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》だけではないか、と。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

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※附記

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

◆ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より。

……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(私訳)
註)フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。


ジジェクは《フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる》としているが、フロイトは次のように書いてもいる。《集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある》。

集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


再び『LESS THAN NOTHING』より。

われわれはフロイトの立場に少なくとも三つの点を付け加えるべきだ。第一に、フロイトは人為的集団の教会モデルと軍隊モデルのはっきりした区別をしていない。“教会”はヒエラルキー的な社会秩序を表わし、平和と均衡を必要にせまられた妥協をもって維持しようとする。“軍隊”は、平等主義の集団を表わし、内的なヒエラルキーによって定義されるのではなく、彼らを破壊しようとする敵への対抗勢力として定義される。――ラディカルな解放運動は、常に軍隊がモデルであり、決して教会ではない。千年至福の教会millenarian churchesは実のところ軍隊のように組織されている。第二に、“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。最後に挙げるがけっして重要性に劣るわけでないものとして、そもそも野性的な暴徒とは、本当に社会的つながりの野放しのゼロ度なのだろうか? むしろ社会組織に及ぶギャップもしくは非一貫性への自制心を失った反動なのではないか。暴徒の暴力は、定義上、社会的ギャップの外部の原因として、(誤)認知された対象に向かう(たとえば、ユダヤ人)。まるでその対象が破壊されれば社会的ギャップが廃棄されるかのようにして。