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2015年9月13日日曜日

「この世の不幸のもとは安倍政権だ」

主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
彼がユダヤ人を標的にしたことは、結局、本当の敵——資本主義的な社会関係そのものの核——を避けるための置き換え行為であった。ヒトラーは、資本主義体制が存続できるように革命のスペクタクルを上演したのである。 (ジジェク『暴力』)

ジジェクはここでフロイトの投影理論を援用しているのだが、この文におけるレイシズムの文脈を外して、たとえばこう言えるだろうか。

ーー人びとが「この世の不幸のもとは安倍政権だ」というとき、ほんとうは「この世の不幸のもとは資本主義=現システムへの不安なのだ」、と。

としてみたくなるのは、小熊英二氏の次のような文を読んだからだ(後全文引用)。

現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法制に費やしている。

国会前の若者たちは……「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対し何もしてくれないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義って何だ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ。

一週間ほどまえの記事だが、経済学者の齊藤誠 ‏@makotosaito0724 氏の本日(2015.9.13)のツイートでいまごろ読んだ。

(これが「デモ」を支える(あるいは、「扇動する」〈?〉)「論理」なのか…本当に悲しくなってくる…)国会前を埋めるもの 日常が崩れゆく危機感 小熊英二:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S11954845.html …


これはなにも若者たちだけではない。岩井克人は《アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい》としているが、アベノミクスという名称を嫌ってそれをほかに何と呼ぼうが、あの政策は窮余の策なのであり、すなわちなんとか現システムの崩壊を避けるためののぎりぎりのところでの博打なのであり、そのなかでの消費税増やインフレ政策なのだ。

「お年寄り」たちも今のシステムがいずれ崩れ去るにちがいないことは「無意識的には」わかっているはずだ(参照:マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」)。




日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より)

年輩者も「理性的には」自らの(若者にくらべての)厚い社会保障給付(現受給者や近い将来の受給者たちも含め)にひそかな罪責感はあるだろう。




だがその罪責感を否認したい。とすれば自らの疚しさをどかかへ投影したくなる、その恰好の対象のひとつが安倍政権である。

公衆の面前で悪しざまに罵倒することが許される数少ない公的な存在として、世間が○○○○を選んでしまったのである(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

もっとも年輩者たちが既に訪れているか或いは近未来に訪れるであろうみずからの年金や健康保険を守ろうとするのは当然だろう。そして老齢生活資金の(実質上の)目減りがないように消費税増やインフレにならないように願うのも当然である。

経済学的に考えたときに、一般的な家計において最大の保有資産は公的年金の受給権です。(……)

今約束されている年金が受け取れるのであれば、それが最大の資産になるはずです。ところが、そこが保証されていません。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)2011ーー「老特会」結成のすすめ


巨額の財政赤字を減らすには、実のところたとえば二倍ほどのインフレにして借金の実質金額を半分にする他にーー多くの経済学者が実のところそう考えているようにーーそれほど多くの道があるとはおもえない(参照:財政赤字への総力戦(ゲッベルス待望論)

総債務では次の通り。




純債務でもかくの如し。




そして日本の借金は自国でまかなっているからダイジョウブという議論がいかに信憑性のないものかは、まともな経済学者ならとっくに何度もくり返している、たとえば池尾和人氏の「このままでは将来、日本は深刻なインフレに直面する」、日経ビジネス 2015年4月17日)を見よ。

池尾:……日本の場合、みんなが貯蓄を取り崩すようになって、預金が純減し始めるのが2020年代の前半という推計と、後半という推計があるんですけど、いずれにせよ中期的には減り始めるわけです。その時に、どんなことが起きるのか。

 日本の家計が保有する金融資産規模は約1600兆円とか1700兆円とされますが、そのうち家計も住宅ローンなどの負債を抱えているから、それらの負債を引くと純資産は1300兆円くらいです。これに対して、政府が抱える債務のうち、公的年金などが保有する国債は資産でもあるということで、それらを差し引くとネットの債務は650兆円。すなわち、上述の間接保有の構造からすると、家計純金融資産の半分は国債消化に充当されている。

 この部分について家計が使おうとせず預金などの形で持ち続けていれば、問題は生じません。借金をしていても、いつまでも返せと言われなければ、もらったも同然で、負担にはならないわけです。これまでは、家計金融資産は増大する一方だったから、国としてはもらったも同然という意識から抜けられないという感じだった。しかし、あと10年くらいすると、家計金融資産の取り崩しが始まる。すると、国は借金を返せと言われることになる。その時にどのようにして返すのか。増税が難しければ、インフレ(による実質的な増税)しか途が残されていない恐れがあります。
ーー従って、日本は物価高騰を避けられない…

池尾:ですから、それを回避するためには、最低2020年までに財政規律を回復させていく必要があります。2020年までにプライマリーバランス*の黒字化を図るというのは、「適当な目標」ではありません。人口動態から考えると、2020年は延ばしに延ばした最終リミットです。さばを読んだ締め切りではない。プライマリーバランスの黒字化だけで十分と言えるかどうか分かりませんが、一応、そこまでに財政健全化の目途がある程度ついていれば、「財政支配」に陥ることなく、中央銀行が出口政策を追求できる可能性は残るでしょう。

《小黒一正@DeficitGamble: 残念ながら、90%くらいの確率で日本財政は終わった気がする。いま直ぐに破綻はしないですが。》(2014.12.12 ツイート

…………

ジジェクに次ぎのように要約できる文がある(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)。
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◆社会主義のイメージ(かつてのポーランドでのジョーク)。

社会主義は、かつての歴史上の画期的出来事の最高の達成の統合である。
氏族社会から野蛮さ、古代社会から奴隷制、封建制から独裁的支配形態、資本主義から搾取、社会主義からその名前。

◆ユダヤ人のイメージ(ナチスの独裁制でのレッテル)。

金持の銀行家から金融投機、資本家から搾取、法律家から合法的詐欺、堕落したジャーナリストから情報操作、貧乏人から清潔への無関心、性的自由から乱交、そしてユダヤ人からその名前。


とすれば現在の自民党のイメージとはなんだろうか。二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合ではないか。

・自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(実質徴兵制やら武器輸出など)。

・共産主義から国民の羊化と情報統制。

・民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。

ーー《民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する》(柄谷行人

・ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって「主人」を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。

・資本主義からバブルと剥き出しな資本の論理。

ーー「経団連、「武器輸出を国家戦略として推進すべき」提言を公表」(2015年09月11日 朝日新聞

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

…………

SEALDsなどやいわゆるカウンターの人たち(元しばき隊に代表される)などの「社会運動家」たちの口からときおり洩れる「ぼくたちは保守なんだ」という意味にとれる表現の「保守」とはなんなのだろうか、なにを守ろうとしたいのか、という問いがすこしまえからあった。

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です! (野間易通)

柄谷行人は福島原発事故後、3ヶ月経たときのインタヴュー(2011)でこういっている。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。( 柄谷行人「反原発デモが日本を変える」

肝腎なことは、2011年以降の「反原発」も「反安倍」もーーどちらも重要なことであるにはちがいないがーーより本質的なこと(経済的下部構造)を忘れるための機能を果たしていないかどうかを疑うことだ(参照:イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミー(ネーション、ステート、資本制)の三幅対)。


社会運動家の「保守」を目指す運動をめぐって、小熊英二氏のーーわたくしにはとてもすぐれた分析がなされている思われるーー簡潔な文を上述したようにここに掲げておく「(思想の地層)国会前を埋めるもの 日常が崩れゆく危機感」(2015年9月8日 朝日新聞)。

8月30日に、国会周辺を万余の人が埋めた。その背景は何だろうか。

 この運動は、「68年」とは異質だと思う。「68年」の背景は、経済の上昇期に、繁栄と安定に違和感を抱く学生が多かったことだ。そこには、安定した「日常」からの脱却と、非日常としての「革命」を夢見る志向があった。当然だがそうした運動は、安定を望む多数派には広がらなかった。

 だが「15年」は違う。経済は停滞し、生活と未来への不安が増している。そこでの「日常」は、崩れつつある壊れやすいものであり、脱却すべき退屈なものではない。

 運動が掲げる主張も、およそ「過激」ではない。権力者といえども法秩序を守れという、穏健なものである。「秩序を壊せ」という「革命」志向とは逆の、保守的ですらある主張だ。

 7月24日の国会前では、抗議の主催者である学生団体SEALDs(シールズ)の芝田万奈が、以下のようなスピーチを行った。「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」「仕送りしてくれたお祖母(ばあ)ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せ」「私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたい」(IWJ「女子大生から安倍総理へ手紙」)

     *

 「革命」志向の年長世代には、保守的な主張と映るかもしれない。だがその背景にあるのは、生活の不安感が増している現実だ。SEALDsの中心メンバーの奥田愛基は、「勇気、あるいは賭けとして」(現代思想10月臨時増刊号)でこう述べている。「やってみてわかったのは、家が大変だったり、奨学金の借金を六〇〇万円も抱えていたりするメンバーが半分くらいいるということです。いつも生活費に困っていて、交通費がないからミーティングに来られない奴(やつ)とかがいるんです。たった数百円の余裕もない」

 奥田は「それは戦争の問題とも立憲主義の問題ともかかわること」だという。芝田は自分のスピーチが保守的だという批判に、ツイッターでこう弁明した。「自分が恵まれてるのは痛いほど承知してる。家に帰ったらお母さんがいる家庭なんて今はかなりマイノリティーですよね。だけど、お母さんが死ぬほど働いてるのに子どもはカップラーメンしか食べれない家庭がある現実のなかで、その子どもに戦争行かせて、一体どんな幸せが守れるの?」

     *

 与党の政治家は、彼らは法案を誤解していると言うかもしれない。だが現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法制に費やしている。そこまで優先すべき法案なのかについて、国民は納得のいく説明を受けていない。一部の政治家や官庁が、個人的信条や局部的利害のために、国民の声のみならず、法秩序さえ無視して暴走しているという懸念と反発が広がるのは当然だ。

 国会前の若者たちは、「革命」や「非日常」を夢見ているのではない。「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対し何もしてくれないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義って何だ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ。

 そこでの「戦争反対」「憲法守れ」は、「『平和』と『日常』を壊すな」という心情の表現だ。だからこそ、学生ばかりだった「68年」と違い、老若男女あらゆる層が抗議に参加している。そして国会前の光景は、国民の不安が表面化した「氷山の一角」に過ぎない。

 議員たちに問いたい。いつも黒塗りの車で移動し、地下鉄にすら乗らず、数キロ四方の数千人の中で議論し、業界団体と後援会から民情を聞く。そんな状態で、国民の不安がわかるのか。国内の「人間の安全保障」を疎(おろそ)かにして、何の安保法制なのか。いま国民の声に耳を傾けなければ、事態はさらに悪化する。

※追記:次のツイートを拾ったので附記。

猫飛ニャン助 ‏@suga94491396 9月11日
優秀な社会学者コグマが言うとおり、今のデモは生活保守主義で「動員」されている。先日、武見敬三(自民)とSEALDs等との討論見たが、武見は後者の東アジア情勢への無知たしなめるだけで、両者には何の対立もない。「あなたたちの存在こそ民主主義の証」と武見に褒められて、メデタシメデタシ。(スガ秀実)
同9月12日)コグマの言う生活保守は、少し前に自民党(後に離党)の武藤某が指摘した「利己的個人主義」と同じだろう。だとすれば、コグマ批判のなんリベは、武藤の批判を相対的にでも受け入てから発言すべきかと。コグマをめぐる論争が、学界内のコップの中でしかないように見える理由。アウエイも射程にやれ。
コグマはじめ本当は止められんこと分かってるから、「総括」の早出しが多いなぁ。……