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2015年9月12日土曜日

ショートによる火花と批評

ジジェク編集のShort Circuits 2007シリーズというものがある。

この版には、

・The Puppet and the Dwarf: The Perverse Core of Christianity, by Slavoj Zizek
・The Shortest Shadow: Nietzsche's Philosophy of the Two, by Alenka Zupancic
・Is Oedipus Online? Siting Freud after Freud, by Jerry Aline Flieger
・Interrogation Machine: Laibach and NSK, by Alexei Monroe
・The Parallax View, by Slavoj Zizek
・A Voice and Nothing More, by Mladen Dolar
・Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa


と七冊の書が収められているらしいが、どんな形式で販売されているのかはしらない。それぞれそれなりの大著であり、たぶん一緒に読むとより味わいがあるよ、という程度のことか。ジジェクとその仲間たち(スロベニア三人組を中心に)の書が掲げられており、おそらくジジェクの名で友人たちの書をも広めようという魂胆もあるだろう。

わたくしは最後に掲げられているLorenzo Chiesaのラカンの主体論を数カ月前手にしたのだが、これはジジェクとは関係なしに読み始めてーーわたくしがそれなりに依拠しているポール・ヴェルハーゲのサントーム論批判を探しているなかで巡りあった書だーー、いささか茫然自失させられるほどの「クリティカル」な哲学的若きラカン派の論である。

Joan Copjec(90年代にいち早くラカンの女性の論理とカントの無限判断を接続する試みをした)やRussell Grigg(フィンクととものラカンの英訳者でlacan.comにもいくつかの切れ味鋭い小論がある)によるLorenzo Chiesaの書への絶賛もある。たしかにLorenzoの書を読むと、コプチェクの議論はあまりにも雑すぎるとさえ思われてくる。

だがいまはその話ではない。ここではジジェクによる「Short Circuits 2007」の序文を抜き出したいだけだ。

ショート(short circuit 短絡)が起こるのはネットワーク回路に誤った連結があるときだ。「誤った」とはもちろんネットワークの円滑な機能という立場からの意味である。とすればショートによる火花はクリティカルな読解にとって最もすぐれた隠喩のひとつではないだろうか。最も効果的な批評critical行為の一つはふだんは触れ合うことのない電線を交差させることではないか?

名高い古典(テキスト、作家、概念)を取り出しそれをショート回路的方法で読むこと、それは「マイナー」な作家あるいは概念的装置のレンズを通してだ(「マイナー」とはここではドゥルーズがいう意味で理解しなければならない。すなわち「劣った質」ではなく、支配的イデオロギーから外れたり否認された、あるいは「より低く」、威厳に劣った話題を扱うということに)。もしこのマイナーな参照がよく選ばれていれば、このようなやり方はわれわれの通念を完璧にかき乱し掘り崩す洞察へと導きうる。

これはマルクスが哲学と宗教にかんしてやったことだ(政治的経済のレンズを通して哲学的考察のショート回路、すなわち経済的考察)。そしてフロイトとニーチェが道徳についてやったことだ(無意識のリビドー経済のレンズを通して最高級の倫理的概念をショートさせること)。

このような読み方が獲得するものはたんに「脱崇高化」だけではない。より高い知的内容をより低い経済的あるいはリビドー的原因に引き下げるだけではない。このような接近法は、むしろ解釈されるテキストへの独自の脱中心化であり、「思考されていないもの」、否認された仮定と結果に光を照射するのだ。


ここにはジジェクのスタイルーーあるいはひょっとして「批評」のあり方一般さえもーーが言い表わされているのではないか。

マルクス自体、柄谷行人によればジャーナリスティックである。

重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

とはいえジジェクの叙述が「批評のあり方一般」とは言いすぎかもしれない。ほかの批評のスタイルもあるのだろう、その一つとしてのより論文調のスタイル・・・

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

ところで、《解釈されるテキストへの独自の脱中心化》とはなにか?ーーたとえば次ぎの岩井克人の態度を読んでみるといい。

これからわたしは、まさにこの「価値形態論」のなかに、資本主義社会の危機=全般的な過剰生産による恐慌、というマルクス自身の等式を無効にしてしまうより根源的な思考の可能性が秘められていることをしめしてみようと思うのである。だが、そのためには、マルクスの価値形態論を、マルクスが完成させた思考の体系としてではなく、マルクスを完成させない思考の方法として読み直す必要がある。マルクスにしたがいながら、マルクスを読み直さなければならないのである。

じっさい、われわれは、商品の価値形態の発展を弁証法的に追跡していくマルクスの議論をもう一度こと細かく追跡しなおすことによって、マルクスが価値形態論を完成させたと考えた光りまばゆい貨幣形態の姿では、商品の価値形態はけっして完成していないことを知るはずである。まさに価値形態論の構造じたいが、みずからの完成を拒み、みずからに無限のくりかえしを強いることになるのである。そして、価値形態論のこの無限のくりかえしの極限において、われわれは黄金色の輝きを失い、商品の世界のなかにあって商品よりもはるかにみすぼらしい姿になった貨幣形態をみいだすことになるだろう。だが、そのみすぼらしい姿にこそ本来の意味での「貨幣の謎」が隠されているはずである。(岩井克人『貨幣論』序)

この文に、次のような注が付記されている。

その意味で、この論考は、マルクスを「その可能性の中心」(柄谷行人)においてもう一度読み直す試みにほかならない。 

柄谷行人や岩井克人がマルクスの価値形態論読み直しでやったことは、それまでの通念となっているマルクスの中心をずらすことだろう。このふたりの「批評家」の可能性と中心を探る試みとは、ほどよい遠近法で捉えられたマルクスのイメージの真中あたりということではなくーーそれでは通念としてのマルクスということになってしまうーー、その遠近法の構図の消失点をずらすことにほかならなかっただろう。すなわちマルクスというテキストの「脱中心化」である。

ここで「脱中心化」という言葉からデリダの「脱構築」を想いだすこともできる。柄谷行人はカントの「批判」とは「批評」のことだとしつつ次のように言っている。

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。

したがって、私は、超越論的ということを、自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで、われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ、そのような思いこみを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ここでジジェクに戻れば、彼の脱中心化のスタイルは柄谷や岩井とはやや異なるということはいえるかもしれない。かつまたそもそも脱中心化が絶対的なスタイルになってはならないだろう。

ジジェクは、デリダの「脱構築」が超越化ーー超越論的ではなくーーしてしまっているという。

In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

このあたりがむずかしい。脱中心化でも脱構築でも超越的(上から見下ろす形)にならない方法、超越論的であること(横にずれること)、これはイロニーとユーモアにもかかわるはずだが(参照:「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)、ユーモアの人であり続けるというのは容易ではない。

浅田彰はかつてユーモアの人と自称する蓮實重彦がときにイロニーの人にみえるときがあるし、イロニーの人であるだろう柄谷行人がときにはユーモアの人にみえるという意味合いのことを言っていたが、たしかに蓮實重彦の話芸をユーモアととるかイロニーととるかは聞き手(読み手)しだいだろうし、柄谷行人がふとみせる「とぼけぶり」は、あれはユーモアととれないこともない。

ユーモアとは同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すこと。(ボードレール)
……

ところでショート回路の序文には《「より低く」、威厳に劣った話題を扱う》とあったが、それはたとえば次ぎのようなことだ。

私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ。私には物事を俗化させたい純然たる強迫がある。その俗化とは、物事を単純化するという意味ではなく、<物>へのパセティックな同一化を崩壊させたいという意味である。だから私は、最も高級な理論から、最も低劣な事例に、唐突に飛ぶのを好むのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』2004 私訳)

この態度は初期から一貫している。

かつてヴァルター・ベンヤミンは、生産的でしかも価値転倒的な理論的作業として、ある文化が生んだ最も高次元な精神的所産を、その同じ文化が生んだ平凡で散文的で通俗的な産物といっしょに読むことを推奨した。ベンヤミンがとくに念頭においていたのは、モーツァルトの『魔笛』に表現されている、愛し合う男女についての崇高な理想を、モーツァルトの同時代人であるイマヌエル・カントの著作に見出される結婚の定義といっしょに読むということだった。カントによる結婚の定義は道徳家たちを大いに憤慨させたが、その定義によると、結婚とは「性の異なる二人の成人が互いの性器の使用に関して取り交わす契約」である。(ジジェク『斜めから見る』1991「はじめに」p.7)