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2015年9月10日木曜日

いいのかしら

・「いいのかしら」裏道の暗がりまで来て、岩崎に求められると、佐枝はちょっと身を離して人家の路地の奥を見つめ、甘えのこもらぬ声でつぶやいた。

・裸体に触れると、また別人のようだった。脇腹から太腿の外側へ、固く締っていた肉がすっかり落ちて、華奢になった全身の中で、乳房と腰だけが不釣合いに豊かになっていた。色は前から白いほうだったが、手触りの粗かった肌が薄く滑らかな、どこかあやうい感触に変り、蒼みがかって見えた。

・愛撫を避けながら、佐枝は水の中へ身をすこしずつ沈めていくようなふうにして、岩崎に抱かれた。静かな遅れがちの答え方で、男の興奮がゆるみかけると、ふっと深まった。背に回した手の冷たさが、最後まで融け残った。(古井由吉『栖』)

「だけどわたしは事実上───こういうのを上品に言うの、どう言ったらいいのかしら(笑)───とても数多くの、としときましょう・・・性的体験を経てきているの。しかも・・・とてもはげしいのを。何人もの男性とね」マグリッド・デュラス

とくに意味はない、ツイッターbotでふたつの「いいのかしら」に出合ったための引用である・・・

…………


いいねえ、古井由吉の文章、--「路地の奥」、「甘えのこもらぬ声」、「水の中へ身をすこしずつ沈めていく」、「ふっと深まった」、「最後まで融け残った」

魚たちも 泳ぎ手たちも 船も/水のかたちを変える。/水はやさしくて 動かない/触れてくるもののためにしか。//魚は進む/手袋の中の指のように。/~(ポール・エリュアール『魚』安藤元雄訳

Les poisson, les nageurs, les bateau
Transforment l'eau.
L'eau est douce et ne bouge
Que pour ce qui touche
Le poisson avance
comme un doigt dans un gant,


德田秋聲や川端康成の香りだってある。

《日本文学は、源氏、西鶴、それから秋声に飛ぶ》(川端康成)

・「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」 (『爛』)

・そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ(『黴』)
・お今に自分が浅井の背を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。

・階下に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。(『あらくれ』)
お庄は唯笑つてゐたが、此女の口を聞いていると、然うした方が、何だか安易なやうな氣もしてゐた。(德田秋聲『足迹』)

これはまだ日本橋の堅いところに奉公していた頃、例の朋輩に茶屋奉公をすすめられたときの、お庄のふとした思いであるが、この中の《安易》という言葉には独特の意味合いがあるようだ。たとえば今の箇所のすこし前の、不貞た朋輩の話に耳を貸しながら、《お庄も足にべとつく着物を捲く上げて、戸棚に凭れて、うつとりして居た》とある、その姿その体感に通じるものである。頽れるにまかせて流されていく安易さ、その予感のうちにすでにある懈さ、と言えば説明にはなる。しかし生活欲の掠れた倦怠ではない。お庄は若いが上に生活欲の盛んな女であり、その点では滅多に頽れはしない。むしろ生活欲のおもむく、埒を越して溢れ出すその先に、安易の予感はあるようなのだ。秋聲の人物の多くがそうである。生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる。(古井由吉『東京物語考』「安易の風」)

…………

たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠ってゐる女の子の口に 指をいれようとなさつたりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。
「女の子を起こさうとなさらないで下さいませよ、どんなに起こさうとなさつても、決して目をさましませんから…。女の子は深あく眠つてゐて、なんにも知らなんですわ。」と女はくりかえした。(川端康成『眠れる美女』)
急に寒い罪の思ひをまぎらはせたのかもしれないが、老人は娘のからだに音楽が鳴つてゐると感じた。音楽は愛に満ちたものだつた。江口は逃げ出したいやうでもあつて、四方の壁を見まはしたが、びろうどのかあてんに包まれて、出口といふものはまつたくないやうだつた。天井から光を受けた深紅のびろうどはやはらかいのに、そよとも動いてゐなかつた。眠らせられた娘と老人をとぢこめてゐる。(同)
あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(『雪国』)
騙されないで人を愛そう、愛されようなんて思うのは、 ずいぶん虫のいい話だ。 (『女学生』) 
寝顔になると、急に老ける女。 寝顔になると、急に若やぐ女。 どちらが悲しい-ともいえない。 寝相のよい素人の女を、私は知らない。 だから玄人を女房にした男に聞いてみたのだが。 女房にするとやっぱりだめです。 行儀が悪くなってしまいましたよ。(『化粧の天使達』)
「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(『山の音』)

「さらば」はできないなあ、秋聲も川端も古井にも

……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。(加藤周一「さらば川端康成」)

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私にも二十代には、驟雨が屋根を叩いて走るのを耳にするだけで、情欲が八方へ静かにひろがり出し、命あるものであろうとなかろうと、ありとあらゆる物音にひそむ忍び笑いと忍び泣きと、それから恐怖に、はてしもなく、苦しめられる、そんな時期があった、と何とはなしに思い出した。(古井由吉『哀原』雫石)
共寝の床の中で、常の女の存在から、生気が肌の内へ静まり、個の表情が洗い流され、女体そのものというような裸像があらわれることがある。美しい、と男はつかのまながら思う。それにひきかえ常の存在を訝り疎むこともある。そんな時、私は、あの裸像のひしめきを思う。(『哀原』池沼)

※「襖一枚の隔てて筒抜けの隣の声


…………

僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)
・もう一つ書きたいと思ったのは、男にとって女とは何かです。母親ではあるんですよ。“一切の女人、これ、母親なり”という、仏典か何かにあるんだそうですね。例えば戦争中に戦地へ送り込まれた兵隊の間で、母親信仰というのが強かったと聞きます。

・僕も母親と姉とに引かれて走っているわけですよ。逃げている周りに、やっぱり女性は多かった。これはもういかんというときに、女たちに包まれる。その感覚は成人しても濃厚に残っている。

・だから、男女のこと、いわゆるエロティシズムのことだけじゃなくて、男が女に生命を守られるという境。それからもう一つ、女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(「すばる」2015年9月号)

ふだんはここでラカン派のだれかを引用するのだが、--やめとくよ、味わいのない文章を付け足すのは。