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2015年9月9日水曜日

マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」

@furuiyo: 近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。

@furuiyo: その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(「すばる」2015年9月号 古井由吉)
・資本主義が相当行き詰まっているのは確かです。(……)

・僕も、文学が残る、やがて必要とされるとかたく信じていますけれども、差し当たっては厳しい。人がそれほど強く求めていないということは確かです。

・だけど、今の世の中は行き詰まると思う。日本だけではありません。世界的に。そのときに何が欠乏しているか。欠乏を心身に感じるでしょう。そのときに文学のよみがえりがあるのではないかと僕は思っています。

・空白の中で誰かが粘っていなければ、いざというときに継ぎようがない。バブル崩壊の後遺症を誰かがそろそろ書かないといけないと思います。(「群像」2015年7月号 堀江敏幸対談ーー「バブルの言語化」)

ある種の人びとには「文学者」の妄言だとされる見解かもしれない。

だが経済学者池尾和人氏からもこんな発言(2009)がある。

われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(「われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれない」)

とはいえ池尾氏はーー「もしかして」とあるようにーー逃げ切るには若すぎるようにも思う。

ここで「文芸評論家」とも称されることのある柄谷行人をも引こう。柄谷行人は福島原発事故後、3ヶ月経たときのインタヴュー(2011)で、《もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます》としている。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。( 柄谷行人「反原発デモが日本を変える」

2013年岩波書店主催の講演会ではつぎのごとし。

・世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策 で競っている。日清戦争 後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国 は不適格。私はインド がヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。

・現実政治を知らなすぎると言って、私の言うことを笑うかもしれませんが、『来るべき戦争』がやってきた時に、私の言ったことを認めざるを得ないでしょう。

2009年の長池講義ではつぎのとおり。

……基軸商品の交替という観点から見ると、この次に、今までのようなヘゲモニー国家が生まれることはありそうもない。それよりも、資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(柄谷行人「第四回長池講義 要綱 歴史と反復」

というわけで文芸関係者の資本主義の終りという「妄言」を引用したが、ここでもうひとり文芸評論家の言を引用してもいい。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(……)

「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(小林秀雄「林房雄」)

さらに「文芸的な」感性豊かな精神科医中井久夫ならどうだろう。氏はバブルの最盛期(1988)に「引き返せない道」を書いた。

一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。

2000年にはすでに21世紀の困難な時代の訪れを前提にして「家族のすすめ」を書いている。

今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。 (中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収

家族といってもそれがすでに崩壊してしまっていていまから取り戻すことが困難な人たちのために「家族のすすめ」ではなく「アソシエーションのすすめ」としておこう。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

さて中井久夫に戻れば、氏は同じ2000年に、日本人に多いとされる執着気質にたいしてS親和者の優位性を記している。

一言にしていえば、S親和者の優位性は「徴候を読む能力」にある。少くとも狩猟採集民族には欠かせない能力である。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが全く別の接近路から「徴候知」を抽出していたのとほぼ同時に独立して私も徴候知に市民権を与えたわけだ。この能力は、農耕社会の到来とともに重要性が減り、その結果、失調をおこしやすくなるかもしれないが、リーダーや気候や天災の予測に必要な能力である。雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていたという。医師にも当然なくてはならない能力である。

しかし、職業生活だけがすべてではない。鬱病の場合と違う。徴候知は万人に必要であり、赤ん坊が母親の表情を読むことがすでにそうではないか。そして徴候的認知はとくに配偶者選択に有利である。相手が世俗的なことを考えているときに求愛しても成功はおぼつかない。状況や相手の表情や何やかやから「今だ」というタイミングを読む力は徴候知に属し、徴候知は「接合率」を高める重要因子である。だから、S親和者はなくならないーー。これはハックスリのよりもナイスな答えではないかと私は思った。(中井久夫「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)

『分裂病と人類』(1982)にはこうある。

執着気質者は)カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する(……)。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

ーー以上にかんするいくらかの細部は、一年弱前、「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)に記した。

これらを「妄言」とする立場もあるだろうし、たとえば米国をみていると《五年先か十年先》よりは長持ちしそうにみえないでもない。

だが世界的にみれば今のシステムが今後続いていくわけはない。先進諸国は日本と似たように少子高齢化しているし、今後もますますその傾向が強まる。欧米は「移民」で当面もっているのだ。中国さえもうすこしたてば、かつての一人っ子政策の影響もあり、とんでもないことが起こる。


高齢化の国際的動向(内閣府 2014)

中国の高齢化が急速に進むとみられる背景の一つは、1979 年から導入されている“一人っ子政策”であり、同政策によって出生率は急激に低下した。同時に経済発展によって死亡率が低下した結果、人口ピラミッドの形がいびつになってきた3。2010 年時点で中国の 65 歳以上人口が全人口に占める割合 (高齢化比率) は 8.2%に達し、 経済発展の途上段階で人口構造の成熟化が進んでいる。高齢化に伴う社会的コストが増える一方で、その費用を負担する現役世代の伸び率が鈍化している状態であり、今後中国では現役世代の負担感が大幅に高まっていくと予想される。

具体的に、高齢者人口(65 歳以上)を生産年齢人口(現役世代、15~64 歳)で割った老年人口指数を求めてみると、 2010 年時点では 100 人の現役世代で 11 人の高齢者を支えていたが、 2020年には 17 人、2050 年には 42 人を支えることになり、約 4 倍の負担になる。 (大和総研レポート 2013年5月14日 「超高齢日本の 30 年展望」(理事長 武藤敏郎 監修)

なぜこんなことが起こってしまうのか、二〇世紀に起こった「不幸」を思いやらずにはいられない。

国連の推定では19世紀末の1900年におよそ16億人だった世界人口は20世紀半ばの1950年におよそ25億人となり、20世紀末の1998年にはおよそ60億人にまで急増、特に第二次世界大戦後の増加が著しい。(世界人口

《地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないでしょうか。》(ジジェク『ジジェク、革命を語る』ーー「まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう(李鵬 1997)」)


ようするにいままでのシステムが限界期に入っておりーーたとえば日本だけではなく先進諸国でこれだけ少子高齢化がすすんでいってしまえば、どうしていままでの形での年金や健康保険などの社会保障制度が維持できるというのだろうーーたんなる彌縫策ではどうしようもないという認識をもっていない大半の「妄想的でない」人たちは、《基本的な過ちを犯 している》。

……基本的な過ちを犯 している。ヨーロッパの体制側が依拠する筋書きは、巨大な赤字が金融部門の大規模な債務棚上げや不況期における政府の歳入の低落によって脹れ上がるという事実を曖昧にしている。アテネへの大規模な貸付は、ギリシアのフランスやドイツの巨大銀行に対する 債務支払のために用いられることになるだろう。欧州連合による債務保証の真の目的は、 民間銀行の救済にある。というのも、ユーロ圈の国家の1国でも破綻すれば、ユーロ圏全体が烈しい打撃を被るからである。他方で、抗議する側における筋書きは現代における左派の相も変わらぬ悲惨な状態を証して余りある。既存の福祉国家との妥協を一般的に拒否するにすぎないその要求に、具体的な計画的内容を見出すことはできない。ここに見ら れるユートピアはシステムの根源的な変更ではなく、福祉国家はシステム内部で維持可能だという思いつきである。
1つのことが明らかだ。それは、福祉国家を数10年にわたって享受した後に、相対的に 限界がある削減が、事態は急速に正常に戻るだろうという約束とともに、到来している現在、 われわれが、ある種の経済的非常事態が永遠のものとなり、生活様式にとって定常状態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育と いったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の恫喝とともに、到来している。 左派は以下の点を強調するという困難な任務に直面しているのである。それは、われわ れが政治経済学に対処していること、そうした危機に「自然なもの」など一切存在しないこ と、現行の世界経済システムは一連の政治的決断に左右されることなどである。他方で同時に、左派は次の点にも自覚的でなければならない。つまり、われわれが資本主義システ ムに留まる限り、その規則の侵犯は、実質的には、経済的破綻の原因となるということであ る。というのも、このシステムは、自然を装う資本自身の論理に従っているからである。したがって、われわれが世界市場の諸条件(外部化など)によっていよいよ容易になった搾取の強化という新局面に突入したことが明らかだとしても、同時に胆に銘じておかねばならないのは、こうした事態が、財政と金融の崩壊につねに瀕しているシステムそれ自体の機能 によって、圧し付けられているということである。 したがって、現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比 較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは、無益なのだ。ジジェク、「永遠の経済的非常事態」2010 長原豊訳