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2015年5月18日月曜日

まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう(李鵬 1997)

「地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないでしょうか。」 (ジジェク『ジジェク、革命を語る』)




……二〇世紀には今までになかったことが起こっている。(……)百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。

しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。

しかも、ヒトは依然スズメ型の力を潜在させている。生活が困難になればなるほど、産児数が増える。いや現に人類の八割は多産多死である。スズメ型である。ちょうど気候不順の年に花がよく咲いて実を稔らせるように私たちの中の自然が産児を増やしているのであろうか。逆に、快適な生活をした社会は産児数が減る。現在のフランスで二〇世紀初頭のフランス人でだった人の子孫は何割もいない。過去のギリシャも、ローマもそうであったと推定されている。少産少死型の弱点は、ある程度以下になると、種の遺伝子の弱点が露呈することだ。また、個体が尊重されるあまり、規制力が弱り倫理が崩壊することだ。

冷戦の終わりは近代の終わりであった。その向こうには何があったか。私にはアメリカがローマ帝国と重なって見える。民族紛争は、ローマ時代のローマから見ての辺境の民族の盛衰と重なって見える。もし国家というタガがはまっていなかったら、民族紛争が起こり、あっという間に滅ぶ民族が出ただろう。二十数個の軍団を東西南北に派遣して、国境紛争を鎮めるのに懸命だったローマと、空母や海兵隊を世界のどこにもで送る勢いのアメリカとが重なる。市場経済などは当時からあった。グローバル・スタンダードもあった。ローマが基準だった。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。そして、今リアル・タイムの取引で儲ける奴がいれば、ローマ時代には情報の遅れと混線を利用して儲ける奴がいた(……)。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収ーー「二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障」より)

この引用で何が言いたいんだと問われたら
何も言いたくないから引用してるんだよと答えてやる

《この詩で何が言いたいんですかと問われたから
何も言いたくないから詩を書くんだと答えてやった》(谷川俊太郎)

いささか不謹慎な話題かもしれませんが・・・。――旧ソ連が崩壊し、ロシアでは、それまで全国民に医療サービスを政府が提供する体制が実質的に崩壊しました。また、ソ連崩壊後の時期に死亡率が急上昇しました。……[送り状(2)]http://www.carf.e.u-tokyo.ac.jp/research/zaisei/ScenarioCrisis2904pdf.pdfーー(「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会」)

…………

浅田:資本主義がなぜこうしてサヴァイヴしえたかと言えば、社会主義なりファシズムなりと対立しつつ学習したからです。ケインズにしても、社会主義に勝つためには政府介入とセーフティ・ネットが必要であると言い、それを実践した。日本でも、マルクスを体系化した宇野経済学を学び、資本主義の矛盾を熟知した官僚や政治家、あるいは経営者たちが、そういうことをやってきた。資本主義というのはたえず危機をはらんだシステムであり、蓮實さんの言われる本当の資本家というのは、敵と闘いながら学ぶべきは学んで自己修正し危機管理にあたる人なんですね。

蓮實:(中略)いまの日本には「エコ」というかけ声が何でもありの一形態として席巻していますが、持続可能性という概念が資本主義と矛盾しないと強調する経営者も政治家もあまり見かけない。(中央公論2010年1月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」蓮實重彦+浅田彰)


浅田彰のこの発言は、中井久夫とジジェクの変奏である、――あるいはパクリであると言う人がいるかもしれないが、パクリで何がわるい。いやそもそも、下の中井久夫の1996年に書かれた文章自体、柄谷行人や浅田彰などが(もちろん、それ以外の思想家の)以前言ったことのたくみなまとめであると言いうるかもしれない。

ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。

(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)
私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly 2004)



ーーやっぱり日本は、中国にとって目の上のたんこぶじゃないか、大国の狭間ーー東のオスマン・トルコ、西のスペインと法王庁とフランス、北の神聖ローマ帝国などとの狭間ーーにはさまれたヴェネチアはどんな運命だったか。

とはいえ、観光国、美食の国として生き残るにしては、老人人口が多すぎる。

「日本と中国が友好国になることはない(……)意思、能力の双方において、日本を侵略する可能性がある中国は現実的脅威。日本を敵とするイメージで、近代化による国家統合を図ろうとしている。今後50年は変わらない」(佐藤優「今後50年は変わらない」中国の弱点研究が不可欠

武藤国務大臣)……そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日

平成九年(1997)の話だから、「あと30年」とは2027年だな、オリンピック後だし、ちょうど頃合じゃないか。

加藤周一は『20世紀の自画像』(ちくま新書 2005)の「あとがき」に、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次のように書いている。

個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。

戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。

その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。

何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。

私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。