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2015年5月19日火曜日

夢の臍、あるいは菌糸体

@kumatarouguma · 5月12日
↓脳科学がここまで進歩している現状で、今における「夢判断(フロイトの現代は夢解釈)」が書かれないのは本当に不思議だ。あれ記憶だか妄想だかもわからない。あの夢という映像装置は何なのか、主観でしかないのに自発性は何もない。かなり奇妙なものだとおもう。誰か21世紀フロイトになってくれ
檜垣立哉RT@hitsujiaruki

いなかったところにいたことになったり、未だ嘗て感じたことのないものを思い出したり、写真や夢はすごいなぁ。

――との檜垣立哉氏のツイートに以前めぐり合って、ははあ、「脳科学」か、精神分析と脳科学は敵でもあり味方でもあるからな、どんなふうに最近は進歩しているのだろうとは思いつつ、そのままほうってあった。

だが昨晩、ふたたびこのツイートのRTにめぐり合って、檜垣立哉氏のこのツイートの前後をさぐってみることにした。

@kumatarouguma

私の夢に対する徹底的な謎

・同じ場所の繰り返し出現があるが私の個人的自発的記憶ではそのような場所はない(すくなくとも意識的に憶えてはいない)。

・ものすごく精緻な電気配線やものすごく流暢にフランス語をしゃべっていたりするが、私にはそのような電気配線の記憶はないし、そんなに流暢にフランス語がはなせるわけはない(いわゆる写真的録音的記憶があり、意図的自発性なく開放されるのか)、それともたんにありありと、流暢に、消えたり喋っていたりしたとおもっているだけなのか。

・自分が死んでいる夢がある、これは何度も書いたが、自分で自分の心だ場所をみにいく、国道沿いの寂しい場所で焼け焦げているが、とくに悲しいとか寂しいとかそういう情動はない。たんたんと観察している。焼け焦げているが事故なのか自殺なのかさっぱりわからない。ただただ無情動でそれをみている(さらにそのあと、死んだので大学はクビだなとおもって、新しい職場をどうするか考えて就職活動を初め、昔教えていた大学にいったりする、死んでいるのだからもう働く必要はないとおもうのだが・・・まあなんとなくロジカルなもののねじれはよくわかる。が、その昔の職場にいくと、昔かよっていた小学校で、今の大学の先生が教えていたりする。これはよくある夢イマージュの圧縮だな。

これは、「脳科学」どころではない。シツレイながら、――わたくしの思い込みならーー、フロイトの『夢判断』を読めていない。ドゥルーズ研究者の一人者ともいわれる専門家でも専門以外の分野では、このようにナイーヴなのか? いやツイッターというのはそもそもそういう囀りをするところではあるのだろうが。

精神分析からの脳科学やらニューロサイエンスに対する主要な異議は、脳科学では欲動、――すべての欲動は潜在的には死の欲動である(ラカン「エクリ」)――すなわち死の欲動やら享楽――欲動とは享楽の漂流である(ラカン「アンコール」)――があつかえないというものだ。とすれば、ドゥルーズにも「死の欲動」概念が頻出するわけだが、ダイジョウブかね、檜垣さん・ ・ ・

《精神分析は「決定論的」(「私がすることは、無意識の過程に決定されている」)ではない。……

「死の欲動」が意味するのは、有機体は、もはや十全には、環境によって決定されない、すなわち、自律的行動の円環へと外破/内破するということだ。》(ジジェク LESS THAN NOTHING 2012)

以下の文は、「死の欲動とは?」と、そのまますることはできないかもしれないが、それに近いものとして読める。まずはラカン派の臨床医でありながら、ニューロサイエンスにも造詣が深いポール・ヴェルハーゲの文を引こう。

すなわち象徴的秩序以外の審級である。この点で、すべての啓蒙形式はなにかが不足している。それは治療においても同様である。言葉にできない何かがある。その何かを表わすには言葉が欠けている。もともとフロイトはこれをトラウマ的経験と考えた。だが後に彼はそれを"mycelium(菌糸体)"、“われわれの存在の核”、“原初に抑圧されているもの”と呼んだ。(Paul Verhaeghe「Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility」
私は既に、無意識の核は「分析」にフィットしないことを論証した。無意識のうちの表象された部分のみが分析されうるのである。フロイト以後、症状symptomは防衛をベースに説明されてきたのだが、そこでは抑圧が特権的な位置を占める。忘れられてしまっているのは、抑圧自体は病因のダイナミズムの二次的重要性しかもたないということだ。実際は、抑圧は欲動の表象されたシニフィアンを処理しようとするメカニズム以外のなにものでもない。フロイト自身、症状の二重の構造を認めていた。一方は欲動であり、他方は象徴的なものである。同じ論法が夢にも当てはまる。ことさら驚くことはない。夢は症状なのだから。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER』「DREAMS BETWEEN DRIVE ANDE DESIRE」

ジジェクの態度は、『ジジェク自身によるジジェク』、あるいは『パララックス・ヴュー』に鮮明であるが、ここでは柄谷行人の書評でまにあわせておく。

ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。(柄谷行人 パララックス・ヴュー 書評

ここで、われわれは、意識とは「躊躇」の別名であるという荒川修作の名言を想起することもできる。

一般に意識の働きとして、遅らせて選択可能性を開くような遅延機能、選択の場所の設定、自分自身の組織化の三つに限定してよいと思う。この遅延機能のことを、荒川修作はかなり早い段階から気付いており、意識とは「躊躇」の別名だと言っていた。また選択の場所の設定というのは、空間的な広がりのことではなく、さまざまな働きを混在させておくという非空間的な場所のことである。この働きのなかには、感情や情動あるいは渇き飢えのようなものも含まれる。また意識の自分自身の組織化は、集中させたり集中を解除したりする働きである。つまり意識は自分自身の前史を断ち切るほどの組織化をそのつど行っていることになる。意識による遅延がなければ、反射運動・行為だけになり、選択の場所の設定が機能不全になると統合失調症、自分自身の組織化不全になると意識障害となる。(河本英夫『臨床するオートポイエーシス』)

近著『考える足』で、脳科学への戦争宣言をしたといわれることもある向井雅明氏なら、--わたくしはこの書を読んでいないので別の小論から引用すれば、このような言い方もある。

ダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。(……)

ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、 主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。(向井雅明『 Dの誤り、ダマシオ批判』)

だが、檜垣立哉氏のツイートの問題は「脳科学」や「死の欲動」以前にある。《ものすごく精緻な電気配線やものすごく流暢にフランス語をしゃべっていたりするが、私にはそのような電気配線の記憶はないし、そんなに流暢にフランス語がはなせるわけはない》とするツイートは、フロイトの『夢判断』がまったく読めていないと、わたくしがーーシツレイながらーー感じるのは、フロイトが明言しているのは、「われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない」ことだからだ。だがわたくしは遠慮深いほうなので、「知識人」としては「焼け焦げ」たほうがいいなどとは決していわないタイプだ。檜垣立哉氏のツイートを再掲するだけですましておく。

《自分が死んでいる夢がある、これは何度も書いたが、自分で自分の心だ場所をみにいく、国道沿いの寂しい場所で焼け焦げているが、とくに悲しいとか寂しいとかそういう情動はない。たんたんと観察している。焼け焦げているが事故なのか自殺なのかさっぱりわからない。ただただ無情動でそれをみている》

というわけで、以下に資料を並べておこう。

夢の思考は、聞けばすぐに理解できるようなものである。それにたいして夢の内容は、いわば象形文字で綴られており、その一つ一つの文字を夢思考の言語に置き換えなければならない。もしわれわれがそれらの文字を、それらの象徴的関係に従ってではなく、それらの視覚的価値に従って、読もうとすると、かならずや間違いをおかす。たとえば今ここに一枚の判じ絵があったとする。そこに描かれているのはまず一軒の家。その家の屋根にはボートが一艘のっかっている。それからアルファベットの中の文字が一つ。そして走っている人物の姿。その人物には頭がない、等々。さてこの判じ絵を表面そのままに受け取って、この絵全体やその個々の構成要素には全然意味がないと抗議することもできよう。ボートが屋根にのっているはずがないし、頭のない人間は走れないはずだ。しかも、人間のほうが家よりも大きく描かれているし、この絵全体がどこかの景色のつもりなら、アルファベットの文字は場違いだ。そんなのが自然界にあるわけがないから。いうまでもなく、この判じ絵を正しく解釈するためには、この絵全体およびその各部分にたいするそうした批判は脇にのけておき、その代わりに、個々の要素を、なんとかその要素によって表わすことができる一音節とか一単語に置き換えなければならない。そのようにして得られたいくつかの言葉はもはや無意味ではなく、この上なく美しい意味深い詩の一節を形づくることもできる。夢はこの種の判じ絵であり、夢解釈の分野における先輩たちは、判じ絵をまともな絵画作品と受け取るという過ちを犯してきたのであり、そのために彼らには夢が無意味で無価値なもののように思われたのである。(フロイト『夢判断』第四章「夢の仕事」)
フロイトがはっきり言っているように、われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない。「この家は何を意味しているのか。屋根の上のボートは何を意味しているのか。走っている人物は一体何を象徴しているのか」といった質問をしてはならないのである。しなければならないことは、物をふたたび翻訳する、つまり物をそれを指す言葉に置き換えることである。判じ絵においては、物は文字通りその名前を表わしている。すなわちそのシニフィアンを表わしている。言葉表象Wort-Vorstellungenから物表象Sach-Vorstellungenへの移行――夢の中で作用しているいわゆる「表象可能性への配慮」――を言語から前言語的表象への一種の「退行」と見なしてはいけない理由が、これで明らかになっただろう。夢の中では、「物」それ自体がすでに「言語のように構造化されて」おり、その配置は、それが表わしているシニフィアンの連鎖によって規定されている。「物」から「言葉」への再翻訳によって得られる、このシニフィアンの連鎖のシニフィエが「夢思考である」。意味のレベルでは、この「夢思考」は夢の中に描かれた物と、内容的にはなんの繋がりもない(同様に判じ絵の場合、その解読は判じ絵に描かれた個々の物の意味とはなんの繋がりもない)。夢の中にあらわれた形象の「より深い隠された意味」を探そうとすると、その中に表現された潜在的「夢思考」が見えなくなってしまう。直接的な「夢内容」と潜在的な「夢思考」とは、言葉遊び、すなわち意味のないシニフィアン的物質のレベルのみで繋がっているのである。(ジジェク『斜めから見る』p103)
……しかし、精神分析的解釈の基本的前提、その方法論上の前提条件は次ぎのようなことである。すなわち、夢作業の最終的産物、すなわち顕在的夢内容はすべて、必然的にそこに欠如しているものが占めるべき場所を塞ぐ穴埋め=充塡剤の役割を担う要素を少なくとも一つ含んでいる。その要素は、一見すると、顕在的な想像上の場面の有機的全体にぴったり合っているように見えるが、じつは、その想像上の場面が存在しうるためにはぜひとも「抑圧」、排除、排斥しなければならないものが占めるべき場所を、みずからのうちに隠しもっているのである。それは想像的構造と「抑圧された」その構造化過程を結びつけている、いわば臍の緒みたいなものである。要するに、二次加工がけっして完璧に成功することがないのは、経験的理由のせいではなく、アプリオリな構造的必然性のせいなのである。結局のところ、ある要素がつねに「突出sticks out」し、夢の構造的欠如を示している、すなわちみずからのうちにその外部を表象しているのである。この要素は、欠如と剰余が同時に生じるという逆説的弁証法に囚われている。それがなかったら、最終的結果(顕在的な夢のテクスト)はまとまらず、何かが欠けているだろう。夢が有機的全体だという感覚を生み出すためには、この要素がどうしても必要不可欠である。しかしこの要素があると、それはある意味で「余計in excess」であり、厄介な過剰plethoraとして機能することになるーー


われわれの考えでは、どんな構造においても、目に見えるものの中には一つの囮、すなわち欠如を埋めるものが含まれているが、それは同時に、あたえられたものの中でいちばん弱い繋ぎ目であり、その点や揺らいでおり、現実のレベルに属しているとしか見えない。その中には〔構造化する空間の〕実質上全レベルが圧縮されている。この要素は現実には非合理であり、その中に含まれることによって、欠如の場所を示すことになる。(Jaques-Alain Miller”Action de la structure” 1968)


わざわざ付け加えるまでもないが、夢の解釈はまさしくこの逆説的な要素、「欠如を埋めるもの」、シニフィアンの無-意味の点を抽出することから始めなければならない。この点から出発し、夢の解釈は次に「変性denature」の作業へと進まなければならない。すなわち、顕在的な夢内容の意味の全体性という偽りの見かけをばらばらにし、「夢作業」まで突き進み、それ自身の最終的結果によって消し去られたさまざまな要素が織りなすモンタージュを目に見えるようにするのである。この段階にいたって、われわれは精神分析家の手続きと探偵の手続きとの類似性に到達したのである。探偵が直面する犯罪の現場もまた、一般に、殺人犯が犯行の痕跡を消し去るために作り上げた偽りのイメージである。その場面は有機的でごく自然に見えるが、それは囮であって、探偵の仕事は、まず、表面的なイメージの枠にぴったり嵌らない、突出している目立たない細部を発見することによって、その場面を変性させることである。探偵小説の語彙には、そうした細部をあらわす文字通りの専門用語terminus technics が豊富に含まれている。「〈風変わりな〉〈奇妙な〉〈あやしい〉〈クサい〉〈理屈に合わない〉、さらには〈気味の悪い〉〈目を疑うような〉〈信じられない〉といったもっと強い表現から、〈そんなはずはない〉という断定にいたるまで」さまざまな形容詞によって、手がかりが示される。その細部は、それ自体としてはまったく取るに足らないのだが(カップの把手が割れているとか、椅子の位置が変わっているとか、目撃者のさりげない言葉とか。時には、何かが起こらなかったという事実が手がかりになることもある)、それにもかかわらず、その構造的位置について考えれば、犯行現場を変性させ、いわばブレヒト的な異化の効果を生み出す。ちょうど、有名な絵の細部をちょっと変えると、突然、絵全体が奇妙で不気味に見えてくるのと同じだ。もちろんそうした手がかりは、その現場のもつ意味の全体性を括弧に入れ、細部に関心を集中したときにはじめて得られる。全体的印象は気にせずに細部を考慮に入れるようにというホームズのワトソンへの助言は、精神分析は解釈を全般にen masse ではなく細部にen detail用いるというフロイトの提言と、共鳴し合っている。「精神分析は最初から夢を合成されたものとして、すなわち心の形成物の集塊として捉える」(フロイト『夢判断』)
……このように探偵は、手がかりから出発して、殺人犯人によって仕立てあげられた犯行現場の見せかけの統一性の仮面を剝いでいく。探偵はその現場を、さまざまな要素からなるプリコラージュとして捉える。そこにおける犯人の演出と「実際の出来事」との関係は、ちょうど、顕在的夢内容と潜在的夢至高との関係や、判じ絵の表面的な図柄とその解読との関係に相当する。その関係は、「サテュロスsatyr」が最初はサテュロスの踊る姿を意味し、次いで「テュロスは汝のものTyre is thine」を意味するように、「二重に刻印された」シニフィアンとしての素材の中にある。探偵小説におけるこの「二重の刻印」の意義は、すでにヴィークトル・シクロフスキーによって指摘されている。「作家は、二つの物が一致しないにもかかわらずある特定の特徴においては合致するような例を探す」。……(ジジェク『斜めから見る』p105-108)


《フロイトによれば、夢にはつねに絶対にとらえられない点があり、これは不可知なものの領域に属しています。フロイトはこれを夢の臍と呼んでいます。こ のことはあまり強調されません。臍などというのもおそらく詩的表現だろうと思われてしまうからです。そんなことはありません。このことが意味するのは、夢 という現象の中にはとらえられない点、主体と象徴的なものとの関係の出現点があるということです。》(ラカン『セミネール Ⅰ』(「フロイトの技法論」))


◆以下、フロイト『夢判断』より、いわゆる「美しき肉屋の女将(妻)」をめぐって書かれている箇所を附記する。


「先生はいつも、夢は満たされた願望だとおっしゃるけれど」と、ある頭のいい女性患者がいいはじめる。「そんなら、全然反対の中身の夢を先生にお話してみましょうか。つまりその夢の中では、わたしの願いが遂げられなかったのです。この夢は先生のお言葉とどう調和するかしら。こういう夢なのです」

《ひとを夕御飯にお招きしようと思った。しかし燻製の鮭が少々あるほかには、何の貯えもなかった。買物に出かけようと思ったら、今日は日曜の、しかも午後なので、お店はどこももうしまっているということを思い出した。そこで出前で届けてくれるところを二、三軒電話で当ってみようとしたけれども、電話は故障している。それでその日ひとをご招待しようというわたしの願いは諦めてしまわなければならなかった》

私はこれに対してこう答えた、なるほどその夢は伺ったところ立派に筋が通っていて、願望充足の正反対であるように見えるけれども、分析してみなければその夢の本当の意味はどうとも申し上げかねる、と。「しかし、この夢はどういう材料から出てきたのでしょうか。夢のきっかけはいつも前の日のいろいろの出来事の中にあるということはあなたもご存じでしょうね」

分析 この婦人患者の夫は、実直で働き者の、ある大きな肉屋だが、前の日に彼女に向って、どうも近ごろやけに肥ってきたから、なんとか痩せるような治療法をやってみようと思う。早起き、運動、美食を避ける、ことによそから夕御飯に招ばれても絶対に出かけてはゆくまいなどと話した。――彼女は笑いながら自分の夫について話しつづけた。夫は行きつけの飲屋でひとりの画家と知合いになった。この画家がぜひ夫をモデルにして絵を描きたいといった。こんなに表情に富んだ頭部は今までに見たことがないという。夫は持ち前のあけすけな態度で、「ご芳志はまことにかたじけないが、若いきれいな娘っ子のお尻のほうがわたしの顔なんかよりよっぽどあなたには向いているでしょう※」ち答えた。自分は今夫にすっかり惚れている、そしてなんだかんだといって夫にいちゃつく。「あたしにキャヴィアをくださらないでね」と頼んだこともある。――キャヴィアをくれるなというのはどういうことなのか、と私はたずねた。

※「美人のお尻」は「モデルになる」の意。ゲーテに「お尻がなければ貴人もモデルに坐れまい」とある。

つまり彼女は前々から、毎日午前中にキャヴィアを塗ったパンを食べたいと思っていたのだが、贅沢だと思ってそれをしかねていた。夫にそういうえば、むろんすぐにそうしてもらえただろう。しかし彼女はそのことでなるべく永いあいだ夫をからかうことができるように、その逆のことを夫に願ったのである。

(この説明はどうも根拠薄弱のようである。こういう不十分な説明の背後には、ひとが白状したがらない動機が隠れているのがつねである。ぺルネームの催眠術実験では、催眠状態にある患者に何か命令すると、患者は醒めたのちにその命令を実行するが、君はなぜそのことをするのかとたずねられても、患者は「なぜこのことをするのか、自分にはわかりません」とは答えないで、それに必ず何かの理由をつける。しかも嘘だということが見えすいているような理由をつける。このキャヴィアの一件もこれと似たりよったりである。彼女は、生活中にひとつの充たされない願望を作り出すべく余儀なくされているように思われる。それに彼女の夢も、願望拒否を実現したものとして彼女に示している。しかし彼女は何のために充たされない願望を必要としているのか)

これまでの思いつきは、この夢の分析にたいして役だたなかった。私はさらに先へ進む。抵抗を克服しようとするかのように暫時沈黙したのちに、彼女は語を継いだ。彼女は昨日ある女友だちを訪問した。この友だちに対しては、少々やきもちを焼くいわれがあった。ありがたいことにこの婦人はひどく痩せっぽちだった。ところが彼女の夫は豊満な女を好んでいた。この女友だちは何を話題にしたか。むろん、もっと肥りたいということをいった。それからまた、こういった、「わたしたちをいつまた夕御飯によんでくださるの? なにしろお宅の御馳走はとてもすばらしいんだから」

これで夢の意味がはっきりした。私は患者に向ってこういうことができる、「まるで何ですね、あなたはそんなふうに夕御飯によんでくれと催促されたときにこう考えたとでもいうような具合ですね。つまり『自分があなたを招待して御馳走したら、あなたはわたしのとことでその御馳走を食べて、肥って、わたしの夫に今までよりももっと気に入るようになるだろう。それじゃもうひとをよんで夕御飯なんか御馳走をするのはやめてしまおう』そうだとすると、夢はあなたにこういっているのです、『わたしはもうひとに夕御飯を御馳走するわけにはゆかない』、したがって、『お友だちのからだつきがふっくらすることに役だつようなことは何ひとつしたくない』というあなたの願いを満たしているわけです。およばれの御馳走を食べて肥るということは、あなたの御主人が食事療法のためにひとから晩餐によばれても断わるという、その計画を見てあなたもそんなふうに考えはじめたのです」あと欠けているものがあるとすれば締め括りである。この締め括りがつけば夢の分析は完了する。そこで問題は、燻製の鮭だ。「あの燻製の鮭はどうして夢の中に出てきたんでしょうね」「ああ、それはその女のお友だちの大好物なんです」ところが偶然私はその女友だちなる人をも見知っていた。そして、この女友だちなる人が、ちょうど私の患者がキャヴィアを贅沢だと思って食べないように、鮭にお金を出したがらないということをたしかめることができた。

この夢は、もっと別の、もっと微妙な解釈をも許している。その解釈はある付随的な事情を考慮に入れるとき、必然的なものになる。そしてこれら二つの解釈は相矛盾することなく、互いに重なりあい、夢並びにいっさいの精神病的症状形成の一般的な二重意味性の見事な一実例を提供する。上にも見たように、私の患者は、願望拒否の夢を見るのと同時に、その充足を拒否された願望を現実に作り出そうと努力していた(キャヴィアのパン)。その女友だちも、もっと肥りたいという願望を口にしている。それでもしわれわれの婦人がその女友だちの願望が実現されないという夢を見たとしても、すこしも怪しむに足りないであろう。すなわちこの女友だちの願い(もっと肥りたいという願い)が充たされないでいてもらいたいというのは、この患者の願望なのである。しかし彼女はそのかわりに、自分自身の願いが充たされない夢を見てしまったのである。そしてもし夢の中の彼女が自分自身ではなくその女友だちその人であったならば、つまり彼女がその女友だちの身代わりに自分を夢の中に出したのであったならば、別言すれば自分自身をその女友だちと同一化したのであるならば、この夢はひとつの新しい解釈を与えられることになる。

事実私の患者はこれをやってのけたと私は考える。そしてこの同一化の証拠として、彼女は現実に自分自身に対して、充たされない一つの願望を作り出した。だがこのヒステリー性の同一化はいかなる意味があるのか。これを説明するにはすこし詳しく述べてみなければならない。同一化は、ヒステリー的諸症状の機制にとってきわめて重大な一契機である。この手段に訴えてこそ患者たちは、(自己自身の諸体験のみならず)たくさんの人間の諸体験を彼らのヒステリー的諸症状のうちに再現し、いわば一群の人間たちの身代りとなって悩み、ある芝居のすべての役柄を、自分ひとりで自分の個人的な諸手段だけを駆使して演じてみせることができるのである。するとひとは私に向ってこう抗議するだろう、「それは周知のヒステリー的模倣ではないか。他人、そのヒステリー患者に強い印象を与えるところの、他人のいっさいの症状を模倣するヒステリー患者固有の能力、いわば再演にまで高められたところの共感ではないか」しかしこの説明では、ヒステリー的模倣における心的過程がその上を通ってゆく道が示されたにすぎない。しかしその道と、それからその道の上で行なわれる心的行為とは別々のものなのである。後者は、ひとが好んで想定するヒステリー患者の模倣よりもやや複雑なのである。後者は実例によってはっきりわかると思うが、無意識的な推論過程に相応じている。一種独特な痙攣をする一婦人患者を、ほかの患者たちといっしょに病院内の一室に入れておいたところが、この独特のヒステリー的発作をほかの患者たちが真似た。ほかの患者たちがこの発作を目賭してそれを模倣したのであって、これがほかならぬ心理的伝染である、医師はあっさりこう判断する。そのとおりにはちがいないが、しかし心理的伝染はざっとつぎのようにして行なわれるのである。患者たちは、医者が患者のひとりひとりについて知っているよりも、通例お互いをもっとよく知りあっている。彼らは、医者の回診が終ると、互いに容態について心配しあう。そのうち、ひとりに発作が起るとする。そうしてその原因はあるいは家からきた手紙、あるいは事新たに掻きたてられた恋の悩みにあるなどというふうに、たちまちのうちにみんなにわかってしまう。みんなのうちには共感が呼び覚まされる。そして無意識裡につぎのような推論が行われる。「もしこれこれの原因のために、こういう発作に襲われるのだとすれば、自分もこういう発作に襲われるだろう、なぜなら自分にも同じような訣合があるのだから」もしこれが意識化しうる推論であったとしたならば、この推論は、おそらく「自分にも同じような発作が起こるかも知れない」という不安になっていったことであろう。しかしこの推論は無意識の層の中で行われるから、患者たちが怖れていた症状が本当に実現してしまうのである。だから同一化は「あたかも……のごとき」を表現し、無意識界内部にとどまって動こうとしない一つの共通のものに関係しているのである。

同一化は、ヒステリー症においては、ある性的共通性を表現するためにもっとも頻繁に利用される。婦人ヒステリー患者は(いつもそうであるとはかぎらないが)彼女らの症状において、自分と性的に交渉のあった人物、もしくは自分が性交した同一の人物と現在性交を続けている人物と自分とを同一化する。言葉というものはうまいもので、愛するふたりは「一心同体」だというようにこの考えをちゃんと表現している。ヒステリー症の空想並びに夢において、同一化が行われるための十分なる条件は何かというと、患者ないし夢みる人が性的関係を念頭に置いていること(だからといって何もその性的関係が現実のものでなければならないということはないが)である。上記の婦人患者が、夢の中でその女友だちの位置に自分自身を置き、ひとつの症状(実現のかなわない願望)を作り出すことによって自分をその女友だちと同一化し、これによってその女友だちに対する嫉妬心(しかし患者自身はこの嫉妬をいわれないものだと認めている)を表現しているのは、そういう次第でただ単にヒステリー的思考過程の諸法則に従ったまでのことなのである。この過程はつぎのようにいい直して説明することもできよう。患者が夢の中で自分を女友だちの位置に据えおいたのは、その女友だちが彼女の夫においては自分の位置を占めているからであり、また、彼女が自分の夫の価値評価内部においてその女友だちの占めている位置を占めたいと望んでいるからである。(フロイト『夢判断』上 p191-197 新潮文庫 高橋義孝訳)



※追記

フロイトは、原抑圧は欲動の身体的な構成物somatic component であり、これを夢の臍やら菌糸体と(我々の存在の核)といっている。

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は未解決のままに放置しておかざるをえないこともしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けないたくさんの夢思想の結び玉があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり夢の臍、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。判読(解読)においてわれわれがつき当る夢思想は一般的にいうと未完結なものとして存在するより仕方がないのである。そしてそれは四方八方に向ってわれわれの観念世界を網の目のごとき迷宮に通じている。この編物の比較的目の詰んだ箇所から夢の願望が、ちょうど菌類の菌糸体から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第七章「夢事象の心理学」新潮文庫 下 p279)