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2016年5月18日水曜日

世界経済のなかで、日本経済だけが縮小するという予測

心配の種の第一は高齢化社会である。しかし、これは必ず一時である。一時であり、また予見できるものは耐えられる。行政は最悪の場合を考えて対策を立てるものである。当然そうあるべきであり、行政特有の習性でもある。最悪の場合が実現の確率がもっとも高いとは限らない。(中井久夫、「日本の心配」、神戸新聞、1997.3.05)

さて、前回、20年近くまえの中井久夫の文を掲げたので、主に行政の側にある(あった)方、あるいは経済学者の方々が、最近はどんなことを言っているのかを、いくらか調べてみた。

労働人口が毎年 1 %減る国で実質 2 % 成長を続けるのはかなり苦しい(持続的に労働生産性を 3 %上げている先進国はない)。(富士通総研、元日銀理事 早川英男 、2014,PDF)

通念としてわれわれが持ちがちなのは、このように労働人口が減るので、日本の今後の経済成長はとても困難だという見解だろう。

だが、そんなことはない、という観点もある。

ここで改めて経済成長と人口の関係を長期的な視点から考えてみることにしたい。急速な人口減少に直面するわが国では、「人口ペシミズム」が優勢である。「右肩下がりの経済」は、経営者や政治家が好んで口にする表現だ。たしかに、少子高齢化が日本の財政・社会保障に大きな負荷をもたらしていることは事実である。少子化、人口減少は、わが国にとって最大の問題であるといってもよいだろう。

しかし、先進国の経済成長と人口は決して 1 対 1 に機械的に対応するものではない。図-4 は、明治初年以降の実質 GDP と人口の種類を比較したものだが、GDP は人口とほとんど関係ないといってよい成長をしてきたことが分かる。戦後の高度成長期(1955~ 70)に、日本が実質ベースで年平均 10% の経済成長をしてきたことは誰もが知ることだが、当時の労働人口の増加率は 1% 強であったということを知る人は少ない。両者のギャップ 10% - 1% = 9% は、「労働生産性」の上昇率だが、それをもたらしたものが「資本装備率」の上昇と、イノベーション(TFP の上昇)にほかならない。(人口減少、イノベーションと経済成長、吉川洋(東京大学大学院経済学研究科教授、経済産業研究所ファカルティフェロー、2015,PDF




だがーーふたたびの「だが」だーー、経済のグローバル化の時代、新技術はたちまち伝播するため、もうイノベーションによって、経済成長を獲得するのは難しいという見方がある。

人口減少は、経済、年金など社会保障制度、財政、そしてインフラなどに様々なリスクを もたらしますが、そのリスクの内容やリスクをもたらす元凶については、かなりの誤解がある ようです。具体的に説明しましょう。

最初に経済についてですが、確かなことは日本の経済成長率が世界で一番低くなると いうことです。なるだろうではなく、確実にそうなります。その点は、変えようのない未来というわけです。

なぜなら、日本は、どの先進国よりも、労働者の減り方が大きいからです。というより、先 進国ではむしろ労働者が増加する国が多く、減少する国でもその減少幅は日本に比べはるかに小さいのです。

一国の GDP(国内総生産)の大きさは、その国の労働者数と労働生産性(1 人の労働者 が 1 年間で生産する量)をかけたものになります。ですから経済成長率は、労働者数の増 減率と労働生産性の上昇率で決まります。そのうち労働生産性上昇率については、先進国の間ではどこの国もほぼ同じです。労働生産性は、生産の機械化や製品の開発といった技術進歩によって上昇しますが、経済のグローバル化で新技術はたちまち伝播するため、先進国間では上昇率はほぼ同じになるのです。

となると、先進国間の経済成長率の相対的な関係は、労働者数の増減率によって決まることになります。ですから、日本は先進国の中で最も経済成長率の低い国にならざるを得ません。そして、技術輸入国である新興国や途上国の経済成長率は、当然先進国より 高くなるので、日本が世界で最も経済成長率の低い国になるというのは、変えようのない未来なのです。

では、どの程度の成長率になるのかというと、現在の実質 1.0~1.5%の成長率が、これから年々低下して、2020 年過ぎにはマイナスとなり、その後は▲0.5~▲1.0%のマイナス成長が続くであろうと思われます。その場合、先進国でマイナス成長となるのは日本だけです。つまり世界経済のなかで、日本経済だけが縮小します。労働者の減り方があまりにも大きいため、技術の進歩をもってしてもカバーし切れないということです。

ただし、成長率の相対的な関係と違い、今度は「なるだろう」です。産業革命のような技 術進歩が起きれば、マイナス成長にはならないかもしれないからです。しかし、僥倖頼み というわけにはいきません。私の推計では、これまでの 40 年間のような急速な技術進歩が 今後も続くと仮定しました。かなり楽観的な仮定です。それでもマイナスなのだから、これ は「ほぼ確実な未来」と言っていい。(「未曽有の人口減少がもたらす経済、年金、財政、インフラの「Xデー」」、元大蔵省 松谷明彦 2015.4

さて、松谷明彦氏の≪経済のグローバル化で新技術はたちまち伝播するため、先進国間では上昇率はほぼ同じ≫という見解と、吉川洋氏の、経済成熟化でもイノベーションがあれば新たな成長がありうつという見解を、無理やり重ね合わせるならば、日本固有の資源や人材能力で、イノベーションがあるときのみ、新しい経済成長はある、ということになる。

松谷明彦氏自身、次のように言っている。

日本には、世界に冠たる「職人技」があるのだから、その職人技と近代工業技術をコラボレートし、ロボット生産ではできない「高級品」や「専用品」づくりを目指すのです。既存の製品分野ではあっても、 日本にしかできないということで高い付加価値が得られます。「適量をつくり高く売る」とい う点では、前述のビジネスモデルと同方向だし、実際ドイツの国際競争力は、そうした職人 技によって研ぎ澄まされた近代工業技術に負うところも大きいのです。自動車や医療機器は、その好例でしょう。

日本も、かつては白物家電の生産現場で、溶接工程や鍍金工程など様々な工程に職人技が効果的に使われ、それが製品の魅力や性能を高め、強い競争力を得ていました。 しかし、1990 年代以降のコスト削減最優先のなかでそれらはロボットに置き換えられたため、新興国・途上国の製品と大差がなくなり、競争力が急速に失われることになったのです。(同、松谷明彦、2015)

日本に、世界に冠たる「職人技」などもはやないーー、などと言わないでおくなら、さて、何があるのだろう。日本の料理店の美食への追及精神(凝り性)、漫画家たちのこれはまさに職人気質、海外のオーケストラなどで活躍する弦楽奏者たちの信頼感……、ひょっとして最近やや評判を落とした科学者たちの「職人芸」というものも残っているのかもしれない。わたくしが思いつくのは、これくらいなのだが、もちろん20年前に日本を離れた身で、日本の新聞雑誌にもほとんど目を通さないので、おそらくピントがはずれていることだろう。

松谷明彦氏は別に年金制度についても、かなりはっきりしたことを言っている(わたくしは、彼がどんな評判の人物かを知らないままで、いま抜き出している。顔は、あまり好みの顔ではないが、挑発的にこのように言うタイプはーーそれがある程度信憑性があるならーー嫌いではないほうだ)。

(…) 次に、社会保障制度についてですが、現在の年金制度は早晩破綻するでしょう。もともと年金制度は、急速かつ大幅に高齢化する日本には、不向きな制度なのです。まず、高齢化の速度が速すぎるために、頻繁に大幅な負担の引き上げと給付の引き下げを行わな ければ、たちまち年金収支は赤字に転落します。

緩やかに高齢化する他の先進国では、制度の改定は 15~20 年に一度行えばよいのに対し、日本では少なくとも、国勢調査によって人口が確定する 5 年ごとに大幅な改定を行わなければなりません。高齢者は不安が募り、若い人は勤労意欲が低下するでしょう。年金でも健康保険でも、負担や給付の改定が速すぎると、人はついていけないものなので す。

さらに他の先進国では、2030 年代の中頃にはおおむね高齢化が止まるため、その時点 の高齢者と現役世代の比率をメドとして、長期安定的な年金制度をつくることができます。 しかし日本では、急速な高齢化がいつまでも止まらないため、そうした年金制度をつくろうにも、そのメドすらないのです。産児制限を契機とした出産年齢女性人口の激減による急 速かつ持続的な少子化という、日本特有の事情のためです。

そして最大の問題は、現役世代の負担増の行きつく先にあります。負担側と給付側の関係で見ると、米国、英国、フランスなどは、将来的に年金を負担する人が 7 割、もらう人が 3 割の水準で安定するのに対し、日本は負担する人が 5 割を切る計算になります。つまり 欧米では最終的に 2 人強の若者で 1 人の高齢者の面倒を見るのに対し、日本は 1 人弱 で 1 人の面倒を見なければなりません。もはや認容の限度を超えています。若い人の日本脱出が増えるかもしれません。

≪日本は 1 人弱 で 1 人の面倒≫とは、すこし前はそのように言われたようだが、現在の予測ではやや極論であり、たとえば次のような図表が示されている(内閣府)。




悪くしても、≪日本は 1 人弱 で 1 人の面倒≫ではなく、2060年には、1.3人弱 で 1 人の面倒ということになる。ただし驚くべき「現役世代の負担増」という指摘には間違いない。


ところで、元日銀副総裁の武藤敏郎氏ーー2度本命視されながら総裁になりそこなったーーが取り仕切った大和総研の膨大な「国家の大計」シミュレーション2013にはこうある。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より、PDF

これはなんとしても是正されなければならないだろう。

アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい。(お金とは実体が存在しない最も純粋な投機である ゲスト:岩井克人・東京大学名誉教授【前編】

そのアベノミクスも雲行きが完全にあやしくなってしまった。

というわけで、若い人たちに、「「老特会」結成のすすめ」と、ふたたび言っておこう。わたくしはどちらかというと気の小さいほうなので、「暴動のすすめ」とまで言えないタチなのだ。

小泉:フランスは社会保障制度が充実しているとよく言われますが、社会政策・社会事業 を充実させたのは、若者の暴動です。パリ市郊外の若者暴動が社会問題として語られ、 危険な階級に対する社会防衛の必要性が認められているからこそ、暴動の根源的対策と しての社会政策が、政治家やインテリに受け入れられているのです。無論、暴動を起こす側は、そんなことを要求しているわけではないのですが、支配層をして、社会の安定のた めに社会政策を充実させないといけないと考えさせているのです。それは支配層が支払う 講和のための賠償金・和解金のようなものです。この内戦的な構造をよく見ないといけま せん。

日本で貧困層に金が回ってこない理由は、暴動がないからです。そこで、最近の日本の 陰気な犯罪は、ほとんど非正規雇用労働者の関連なのですから、例えば、老人ホームで 介護福祉士が高齢者を突き落とすような事件についても、労働問題として語ってやれば いいのです。持たざる無産者が、有産者の高齢者に復讐していると語りなおすだけで、支 配者層は恐れを抱くはずです。そのように内戦化しないと、金は引き出せません。 日本では、犯罪という形で単発的に孤立して暴動が起こっている。ところが、日本のインテ リには、そのあたりの感性とかセンスが全く消え去っている。そこが怖い。かつては、「あら ゆる犯罪は革命的である」という感覚がありました。一度はそう考えてみるべきである、とい う感覚です。その程度の「常識」すら失われていることが、日本の情勢を悪くしています。 フランスなど欧州では、「不穏で危険な過激派がいる」と思わせることで、引き出すべき金 を引き出しているのです。(「いよいよ面白くなってきた アンダークラスの視座から撃て 」廣瀬 純 (龍谷大教授)×小泉義之 (立命大教授),2016

…………

※附記


◆経済再生の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和) ーーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011(「二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障」より)

池尾:日本については、人口動態の問題があります。高齢化・少子化が進む中で、社会保障制度の枠組みがどうなるのかが、最大の不安要因になっていると思います。

経済学的に考えたときに、一般的な家計において最大の保有資産は公的年金の受給権です。

大崎:実は、そうなんですよね。

池尾:今約束されている年金が受け取れるのであれば、それが最大の資産になるはずです。ところが、そこが保証されていません。

 日本の家計の金融資産は過半が預貯金で、リスク資産に配分しようとしない、とよく言われます。会計上見える資産では確かにそうなっています。しかし、実は不安定な公的年金制度という枠組みを通じてリスクを取らされているとも言えるわけです。公的年金の受給権という資産が安全資産化すれば、ほかにリスクを取る余地が生まれてくるはずです。

 そういうことをやったからといって家計の将来に 対する自信が回復するかどうかは分かりません。しかし、自信を回復し得る環境を整える必要はあります。消費についても同じです。大きな不確実性を背負った状態で、 「活発な消費をしろ」と言われても、それは無理だと思います。

大崎:国は「公的年金で老後の生活は安心だ」という説明をしたいんだけれども、国民はそのようには受けとめていなくて、 「制度は変更されるかもしれない。どちらかというと悪いほうへ変わりそうだ」と読んで行動しているということですね。

池尾:そうです。

大崎:ただ、 「何年には給付を削減します」と宣言してしまうと、これはこれでまた不安を呼ぶのではないかとも思います。

池尾:例えば、公的支援が限定的だということになると、残りは自助で支えなければいけない、という意識が高まります。既に高齢の場合には、確かに心細さは生じます。ですが、いわゆる予備的動機で行われる予備的貯蓄と言われる部分については、貯蓄する必要性は下がるはずです。

大崎:それは、リスクが読める分、自助努力で補充すべき分がはっきり計算できるからですね。

池尾:自助と言われたときに準備する時間が残されている世代もあります。高齢世代に関しても、これまでの将来への不安から貯蓄に励んできて、大量の金融資産を保有している方も多くいらっしゃいます。要するに、自身の長生きリスクと公的支援の変更リスクの両方に備えているんです。

 ですから、先行きの見通しをはっきりさせることが、政策運営上求められていると思います。抜本的改革をやって、持続可能性を持った社会保障制度を確立するというのは大きな課題だと思います。 (……) 大崎:今のお話を伺っていて思ったのは、政策当事者が事態を直視するのを怖がっているのではないか、ということです。例えば、二大政党制といっても、イギリスやアメリカでは、高福祉だけれども高負担の国をつくるという意見と、福祉の範囲を限定するけれどもできるだけ低負担でやるというパッケージの選択肢を示し合っているように思います。

 日本ではどの政党も基本的に、高福祉でできるだけ増税はしない、どちらかというと減税する、という話ばかりです。実現可能性のあるパッケージを示すことから、政策当事者が逃げている気がします。

池尾:細川政権が誕生したのが今から18年前です。それ以後の日本の政治は、非常に不幸なプロセスをたどってきたと感じています。

 それ以前は、経済成長の時期でしたので、政治の役割は余剰を配分することでした。ところが、90年代に入って、日本経済が成熟の度合いを強めて、人口動態的にも老いてきた中で、政治の仕事は、むしろ負担を配分することに変わってきているはずなんです。余剰を配分する仕事でも、いろいろ利害が対立して大変なんですが、それ以上に負担を配分する仕事は大変です。

大崎:大変つらい仕事ですね。

池尾:そういうつらい仕事に立ち向かおうとした人もいたかもしれませんし、そういう人たちを積極的にもり立ててこなかった選挙民であるわれわれ国民の責任も、もちろんあると思います。少なくとも議会制民主主義で政治家を選ぶ権利を与えられている国においては、簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。



2015年9月20日日曜日

これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(『看護のための精神医学』中井久夫

…………

小池一夫@koikekazuo

「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』)

野間易通)《@kdxn: この文章は前段と後段が矛盾している。「正義だと信じた」ということは実は正義ではなかったって意味なので、「最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ」という文は間違っていることになる。これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい。 https://t.co/yl4DDMfbtv》

《@kdxn: 「正義と称するが正義ではないもの」と「正義」をきちんと区別することができないと、本当の正義を行うことができないばかりか、それを行っている者を疑い、嘲笑する醜い不正義の人間になってしまう。》

‏@G2Nakamura

これ、わからないのは「実は正義ではなかった」というのはどの立場から言っているのかというところ。まるで神のように一段上から見下ろしてないか?所詮、絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている分、小池一夫のほうが共感できる。

《@kdxn: 「実は正義ではなかった」とみなしてるのは小池さん(が引用した文)なので、読み取りがおかしい。 https://t.co/CbV64l9QgK》

《@kdxn: あと「絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている」のは信用ならない。絶対概念は神にのみ適用されるもので、世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの。なので「絶対正義などない」という諦念表明は何も言ってないに等しい。 https://t.co/CbV64l9QgK》


…………

野間易通氏の本日のツイート(2015.9.20)だが、さてあなたはどう思う?

《これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい》な、《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》などという考え方は。

ことわっておくが、わたくしは野間易通氏のファンだがね、

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

少なくともこういった発言には抵抗しようがない(参照:「何もしないことのエクスキューズ」)。

だが、正義とは《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》とするのはいかにも浅墓すぎる。すでにかつてなんどもくり返し議論されて(とくに環境問題のとき)、すくなくとも現在生きている「人間同士の合意」では扱えない「正義」があることは、「識者のあいだでは」明らかになっているはずだ。すなわち、野間易通の考え方は「ほどよく聡明な」正義の現場派には《よくあるパターンなので早々に脱却したい》。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。また、過去の人間との対話や合意もありえない。彼らは何も語らない。では、われわれはなぜ責任を感じなければならないのか。実際、何の責任も感じない人たちがいる。国家や共同体に関して「道徳的」な人たちが特にそうである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P192)

人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとること——それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(……)

未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。(岩井克人「未来世代への責任」

とはいえツイッターでメンションを入れるのはやめにしていまこうやって記している。いま野間易通氏は他人の批判を受け入れがたいまでに自らの「正義」を確信する領域にはいってしまっているようにさえみえるからだ。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄)

…………

くりかえせば、《一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは……視野の幅が狭くなっていることが多い》のであり、野間易通氏もそれから免れていない。かつまた彼の繰り言「ポストモダン」批判(参照)も素直に耳を傾けるわけにはいかない(参照:元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判)。

ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』P18)

たとえば野間易通氏に代表される社会運動家たちは、ほとんどが消費税増反対だろう。消費税増に反対することは今生活している人(とくに低所得層)にとっての短期的な正義であるには相違ない。

だが消費税増ーーもっと大きく言えば国民負担率増ーー反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照)。

いずれにしろ人は《邪な心を抱いて正しい行為をする》こともあるし《正しい心を抱いて邪な行為》をすることもある(シェイクスピア『終わりよければすべてよし』)。視野の幅が狭い(短期的な)正義は、長期的には悪であることがしばしばあるのは周知だろう。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

「日本の国債市場と投資家行動 」(2014年10月3日 角間和男 野村アセットマネジメント)に引用されている橘玲氏の『(日本人)』におけるブキャナンの財政赤字の膨張の不可避性の見解はつぎの通り(もっともドイツは政治家の「秀れた」リーダーシップでそこから脱出したのだが)。

ジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。

このような説明は、ほとんどの人にとって不愉快きわまりないものにちがいない。だが 現実には、日本国の借金は膨張をつづけ、ついには1000兆円という人 類史上未曽有の額になってしまった。ブキャナンの「公共選択の理論」は、 この事実を見事に説明する。そしてこれまで誰も、国家債務が膨張する 理由について、これ以上シンプルな説明をすることができないのだ。(橘玲『(日本人)』)

こういったわけで、われわれは財政危機という課題をつねに未来へ先送りする傾向をもつ。「公共的合意」では埒が明かないのだ。

◆補遺:「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


…………

※附記

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』)

変奏:〈あなた〉が正義という理念のために己の正義を果たしていると考えているとき(たとえば安倍晋三を罵倒するとき)、〈わたくし〉は知っている。〈あなた〉のふだんは行き場のない攻撃欲動をこのときばかりと発散し、それを享楽していることを。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「で、どうおもう、〈あなた〉は?」)

《すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ》(ニーチェ遺稿「生成の無垢」)

ーーこのニーチェの言葉の例証として、日本では代表的な聖女とされるだろう神谷美恵子さんをめぐってみてみたことがある(参照:「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」(神谷美恵子))。

義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

さてどうしたらよいのか。まずは正義だと思い込んでいる自らの背後にある攻撃欲動(享楽)を認めることだ。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)
……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




2015年9月13日日曜日

「この世の不幸のもとは安倍政権だ」

主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
彼がユダヤ人を標的にしたことは、結局、本当の敵——資本主義的な社会関係そのものの核——を避けるための置き換え行為であった。ヒトラーは、資本主義体制が存続できるように革命のスペクタクルを上演したのである。 (ジジェク『暴力』)

ジジェクはここでフロイトの投影理論を援用しているのだが、この文におけるレイシズムの文脈を外して、たとえばこう言えるだろうか。

ーー人びとが「この世の不幸のもとは安倍政権だ」というとき、ほんとうは「この世の不幸のもとは資本主義=現システムへの不安なのだ」、と。

としてみたくなるのは、小熊英二氏の次のような文を読んだからだ(後全文引用)。

現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法制に費やしている。

国会前の若者たちは……「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対し何もしてくれないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義って何だ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ。

一週間ほどまえの記事だが、経済学者の齊藤誠 ‏@makotosaito0724 氏の本日(2015.9.13)のツイートでいまごろ読んだ。

(これが「デモ」を支える(あるいは、「扇動する」〈?〉)「論理」なのか…本当に悲しくなってくる…)国会前を埋めるもの 日常が崩れゆく危機感 小熊英二:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S11954845.html …


これはなにも若者たちだけではない。岩井克人は《アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい》としているが、アベノミクスという名称を嫌ってそれをほかに何と呼ぼうが、あの政策は窮余の策なのであり、すなわちなんとか現システムの崩壊を避けるためののぎりぎりのところでの博打なのであり、そのなかでの消費税増やインフレ政策なのだ。

「お年寄り」たちも今のシステムがいずれ崩れ去るにちがいないことは「無意識的には」わかっているはずだ(参照:マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」)。




日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より)

年輩者も「理性的には」自らの(若者にくらべての)厚い社会保障給付(現受給者や近い将来の受給者たちも含め)にひそかな罪責感はあるだろう。




だがその罪責感を否認したい。とすれば自らの疚しさをどかかへ投影したくなる、その恰好の対象のひとつが安倍政権である。

公衆の面前で悪しざまに罵倒することが許される数少ない公的な存在として、世間が○○○○を選んでしまったのである(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

もっとも年輩者たちが既に訪れているか或いは近未来に訪れるであろうみずからの年金や健康保険を守ろうとするのは当然だろう。そして老齢生活資金の(実質上の)目減りがないように消費税増やインフレにならないように願うのも当然である。

経済学的に考えたときに、一般的な家計において最大の保有資産は公的年金の受給権です。(……)

今約束されている年金が受け取れるのであれば、それが最大の資産になるはずです。ところが、そこが保証されていません。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)2011ーー「老特会」結成のすすめ


巨額の財政赤字を減らすには、実のところたとえば二倍ほどのインフレにして借金の実質金額を半分にする他にーー多くの経済学者が実のところそう考えているようにーーそれほど多くの道があるとはおもえない(参照:財政赤字への総力戦(ゲッベルス待望論)

総債務では次の通り。




純債務でもかくの如し。




そして日本の借金は自国でまかなっているからダイジョウブという議論がいかに信憑性のないものかは、まともな経済学者ならとっくに何度もくり返している、たとえば池尾和人氏の「このままでは将来、日本は深刻なインフレに直面する」、日経ビジネス 2015年4月17日)を見よ。

池尾:……日本の場合、みんなが貯蓄を取り崩すようになって、預金が純減し始めるのが2020年代の前半という推計と、後半という推計があるんですけど、いずれにせよ中期的には減り始めるわけです。その時に、どんなことが起きるのか。

 日本の家計が保有する金融資産規模は約1600兆円とか1700兆円とされますが、そのうち家計も住宅ローンなどの負債を抱えているから、それらの負債を引くと純資産は1300兆円くらいです。これに対して、政府が抱える債務のうち、公的年金などが保有する国債は資産でもあるということで、それらを差し引くとネットの債務は650兆円。すなわち、上述の間接保有の構造からすると、家計純金融資産の半分は国債消化に充当されている。

 この部分について家計が使おうとせず預金などの形で持ち続けていれば、問題は生じません。借金をしていても、いつまでも返せと言われなければ、もらったも同然で、負担にはならないわけです。これまでは、家計金融資産は増大する一方だったから、国としてはもらったも同然という意識から抜けられないという感じだった。しかし、あと10年くらいすると、家計金融資産の取り崩しが始まる。すると、国は借金を返せと言われることになる。その時にどのようにして返すのか。増税が難しければ、インフレ(による実質的な増税)しか途が残されていない恐れがあります。
ーー従って、日本は物価高騰を避けられない…

池尾:ですから、それを回避するためには、最低2020年までに財政規律を回復させていく必要があります。2020年までにプライマリーバランス*の黒字化を図るというのは、「適当な目標」ではありません。人口動態から考えると、2020年は延ばしに延ばした最終リミットです。さばを読んだ締め切りではない。プライマリーバランスの黒字化だけで十分と言えるかどうか分かりませんが、一応、そこまでに財政健全化の目途がある程度ついていれば、「財政支配」に陥ることなく、中央銀行が出口政策を追求できる可能性は残るでしょう。

《小黒一正@DeficitGamble: 残念ながら、90%くらいの確率で日本財政は終わった気がする。いま直ぐに破綻はしないですが。》(2014.12.12 ツイート

…………

ジジェクに次ぎのように要約できる文がある(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)。
.
◆社会主義のイメージ(かつてのポーランドでのジョーク)。

社会主義は、かつての歴史上の画期的出来事の最高の達成の統合である。
氏族社会から野蛮さ、古代社会から奴隷制、封建制から独裁的支配形態、資本主義から搾取、社会主義からその名前。

◆ユダヤ人のイメージ(ナチスの独裁制でのレッテル)。

金持の銀行家から金融投機、資本家から搾取、法律家から合法的詐欺、堕落したジャーナリストから情報操作、貧乏人から清潔への無関心、性的自由から乱交、そしてユダヤ人からその名前。


とすれば現在の自民党のイメージとはなんだろうか。二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合ではないか。

・自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(実質徴兵制やら武器輸出など)。

・共産主義から国民の羊化と情報統制。

・民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。

ーー《民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する》(柄谷行人

・ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって「主人」を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。

・資本主義からバブルと剥き出しな資本の論理。

ーー「経団連、「武器輸出を国家戦略として推進すべき」提言を公表」(2015年09月11日 朝日新聞

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

…………

SEALDsなどやいわゆるカウンターの人たち(元しばき隊に代表される)などの「社会運動家」たちの口からときおり洩れる「ぼくたちは保守なんだ」という意味にとれる表現の「保守」とはなんなのだろうか、なにを守ろうとしたいのか、という問いがすこしまえからあった。

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です! (野間易通)

柄谷行人は福島原発事故後、3ヶ月経たときのインタヴュー(2011)でこういっている。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。( 柄谷行人「反原発デモが日本を変える」

肝腎なことは、2011年以降の「反原発」も「反安倍」もーーどちらも重要なことであるにはちがいないがーーより本質的なこと(経済的下部構造)を忘れるための機能を果たしていないかどうかを疑うことだ(参照:イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミー(ネーション、ステート、資本制)の三幅対)。


社会運動家の「保守」を目指す運動をめぐって、小熊英二氏のーーわたくしにはとてもすぐれた分析がなされている思われるーー簡潔な文を上述したようにここに掲げておく「(思想の地層)国会前を埋めるもの 日常が崩れゆく危機感」(2015年9月8日 朝日新聞)。

8月30日に、国会周辺を万余の人が埋めた。その背景は何だろうか。

 この運動は、「68年」とは異質だと思う。「68年」の背景は、経済の上昇期に、繁栄と安定に違和感を抱く学生が多かったことだ。そこには、安定した「日常」からの脱却と、非日常としての「革命」を夢見る志向があった。当然だがそうした運動は、安定を望む多数派には広がらなかった。

 だが「15年」は違う。経済は停滞し、生活と未来への不安が増している。そこでの「日常」は、崩れつつある壊れやすいものであり、脱却すべき退屈なものではない。

 運動が掲げる主張も、およそ「過激」ではない。権力者といえども法秩序を守れという、穏健なものである。「秩序を壊せ」という「革命」志向とは逆の、保守的ですらある主張だ。

 7月24日の国会前では、抗議の主催者である学生団体SEALDs(シールズ)の芝田万奈が、以下のようなスピーチを行った。「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」「仕送りしてくれたお祖母(ばあ)ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せ」「私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたい」(IWJ「女子大生から安倍総理へ手紙」)

     *

 「革命」志向の年長世代には、保守的な主張と映るかもしれない。だがその背景にあるのは、生活の不安感が増している現実だ。SEALDsの中心メンバーの奥田愛基は、「勇気、あるいは賭けとして」(現代思想10月臨時増刊号)でこう述べている。「やってみてわかったのは、家が大変だったり、奨学金の借金を六〇〇万円も抱えていたりするメンバーが半分くらいいるということです。いつも生活費に困っていて、交通費がないからミーティングに来られない奴(やつ)とかがいるんです。たった数百円の余裕もない」

 奥田は「それは戦争の問題とも立憲主義の問題ともかかわること」だという。芝田は自分のスピーチが保守的だという批判に、ツイッターでこう弁明した。「自分が恵まれてるのは痛いほど承知してる。家に帰ったらお母さんがいる家庭なんて今はかなりマイノリティーですよね。だけど、お母さんが死ぬほど働いてるのに子どもはカップラーメンしか食べれない家庭がある現実のなかで、その子どもに戦争行かせて、一体どんな幸せが守れるの?」

     *

 与党の政治家は、彼らは法案を誤解していると言うかもしれない。だが現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法制に費やしている。そこまで優先すべき法案なのかについて、国民は納得のいく説明を受けていない。一部の政治家や官庁が、個人的信条や局部的利害のために、国民の声のみならず、法秩序さえ無視して暴走しているという懸念と反発が広がるのは当然だ。

 国会前の若者たちは、「革命」や「非日常」を夢見ているのではない。「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対し何もしてくれないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義って何だ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ。

 そこでの「戦争反対」「憲法守れ」は、「『平和』と『日常』を壊すな」という心情の表現だ。だからこそ、学生ばかりだった「68年」と違い、老若男女あらゆる層が抗議に参加している。そして国会前の光景は、国民の不安が表面化した「氷山の一角」に過ぎない。

 議員たちに問いたい。いつも黒塗りの車で移動し、地下鉄にすら乗らず、数キロ四方の数千人の中で議論し、業界団体と後援会から民情を聞く。そんな状態で、国民の不安がわかるのか。国内の「人間の安全保障」を疎(おろそ)かにして、何の安保法制なのか。いま国民の声に耳を傾けなければ、事態はさらに悪化する。

※追記:次のツイートを拾ったので附記。

猫飛ニャン助 ‏@suga94491396 9月11日
優秀な社会学者コグマが言うとおり、今のデモは生活保守主義で「動員」されている。先日、武見敬三(自民)とSEALDs等との討論見たが、武見は後者の東アジア情勢への無知たしなめるだけで、両者には何の対立もない。「あなたたちの存在こそ民主主義の証」と武見に褒められて、メデタシメデタシ。(スガ秀実)
同9月12日)コグマの言う生活保守は、少し前に自民党(後に離党)の武藤某が指摘した「利己的個人主義」と同じだろう。だとすれば、コグマ批判のなんリベは、武藤の批判を相対的にでも受け入てから発言すべきかと。コグマをめぐる論争が、学界内のコップの中でしかないように見える理由。アウエイも射程にやれ。
コグマはじめ本当は止められんこと分かってるから、「総括」の早出しが多いなぁ。……




2014年12月19日金曜日

民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である

二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

で、やはりエリートや専門家にまかせるべきなのだろうか。それとも国民投票やら「理想的な」直接選挙などでの判断を尊重すべきなのだろうか。たとえば「経済」の問題、――消費税やら所得税やらを上げなければならず、社会保障費を削減しなければならないという「専門家」の判断(彼ら曰く「理論的には」絶対的に正しい、たとえば本日(2014.12.19付で「消費税10%では財政再建の道筋はまったく見えない 本来は消費税率を30%近くにする必要がある野口悠紀雄 緊急連載・アベノミクス最後の博打」などという記事が上がっているがね)ーー、これは、国民投票で受け入れられるはずがないのではないか。ヘーゲルのいうように「国家の最高官吏たち」に任せておいたほうがよいのではないか。

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

たとえば「教育ある」理性的な公衆なら、明日の生活に不都合なことでも、--すなわち、消費税によって物価が上がったり、年金の手取りが下がったり等々ーー、やむ得ず「正しい」判断をするだろうか。将来世代(未来の他者)へ負担を先送りすることをやめるだろうか。

高級官僚たちにも、判断ミスや破廉恥な権力欲があるに決まっているのだからーー《どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな》(プラトン=小林秀雄)--、《「真理」は得体の知れない均衡によって実現される》という立場をとるべきなのだろうか。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

上に書いた将来世代(未来の他者)へ負担を先送りするというのは、簡単に言えば、《公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》(ジャック・アタリ)にかかわる。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

これに関しては、公衆の判断ではほとんど無理に決まってる、そしておそらく政治家の判断も同じく。

現実の民主主義社会では、政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難。民主主義の下で財政を均衡させ、政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかない。(ブキャナン&ワグナー著『赤字の民主主義 ケインズが遺したもの』)

環境問題程度なら、場合によっては「未来の他者」を慮るようなことがあるかもしれないが、肝心かなめの「金」に関わってくると、「公共的合意」などあり得るはずがないのではないか。《お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。》(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

「未来の他者」だと? すくなくともベルリンの壁崩壊をへて市場原理主義が猖獗する現在ーー資本の欲動の席巻の時代ーー、誰が「未来の他者」などを考慮するだろう? --《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス ツイッターbotより)

ノーム・チョムスキーは次ぎのように言っている、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(Noam Chomsky, Necessary Illusions”)


バディウは、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》と言っているそうだ(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

これらの言葉に触れたことがなくても、プラトン=ソクラテスが、大衆を「局所的な意見の混沌」のなかであがく一匹の巨大な獣 か迷える獣の群れとしているのは誰もが知っているだろう。

もっとも冒頭のジジェクの文は、大衆が、巨大な獣か迷える獣であって彼らの判断が信じられないにせよ、いまはエリートの判断さえ信じられなくなったことにあるという文脈のなかで書かれているものであり、それは2011年以来、この極東の島国ではことさら顕著なことだろう。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
トロツキーの議会制民主主義に対する批難は大筋で正しかった。すなわち、この制度は教育のない大衆に力を与えすぎることではなく、むしろ、逆説的にいえば、大衆を受身化して、国家権力機構の支配にゆだねるものだ。(トロツキー『テロリズムと共産主義』」(同上)


ところで、きみたちには、《教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来な》いってことないのかい? たとえば選挙前に「日本人は民主主義を捨てたがっているのか? 」の類のことを叫ぶ連中だがね。こいつらの言う「民主主義」ってなんなのだろう? やっぱり「衆愚」政治のことかい? 「識者」として《大衆は立て続けに話されると,巧みな口舌に惑わされ,事の理非を糾す暇もないままに,一度かぎりのわれらの言辞に欺かれる》(ツキジデス『戦史』)ってヤツの実践かい?

チョムスキーを再掲しておくがね、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる》と。

あるいは柄谷行人を引用してもいいけどさ、議会民主主義を疑ったことがないわけじゃないだろ? 直接投票にしなくちゃなんていうなよな、都知事や大阪府知事でどんな首長が選ばれているかシッテルだろ? まあせめて主張するなら「くじ引き」程度のことは言えよ。要するに、あいつらバカジャナイノ? との錯覚に閉じこもることが多いんだよな。


もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283ーー「バカジャナイノ?」)

実際、アテネでは「くじ引き」やってたらしいからな。

われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打破するところから生まれたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられてシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きである。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。(『トランスクリティーク』p283~)

まずは「議会民主主義=ブルジョワ独裁」を潰すことさ、そこから出発だぜ、真の「民主主義=大衆の支配」というものが仮にあるのなら、--とまでは言わないでおくけどさ。大衆の支配とは、ファシズムかもしれないからな、ワカンネエなあ、政治音痴のオレには。

《ファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》(カール・シュミット)

…議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。

この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』p226~)
一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)
浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」)

さてようやくここで表題にその一部を掠め取った「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」(チャーチル)を引用することができる。じつはそれに続く《問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ》が肝腎なんだが。

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62ーー民主主義の中の居心地悪さ


まあツイッターなどで《教育者面をしたり指導者面をしている》連中がバカにみえるのは、オレがバカなせいかもしれないがね。とはいえ、あの連中は、こうやって散々語られてきたことを外して、無知なのかなんだか知らないが、ナイーヴに「自分の考え」なるものを主張するんだな。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。

21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。(同 浅田)

でも國分くんはまだましなほうさ、ツイッターで「民主主義」なんたらしきりに寝言いってる「識者」のなかでは。

まあオレもえらそうなことはマッタク言えないんだ、そもそもネグリなんて一度も読んだことがないんだから。でもあれら《教育者面をしたり指導者面をしている》連中は、いくら政治音痴、経済音痴でもせめてジジェクやら柄谷行人やらは読んでいてよさそうなはずだがねえ。

というわけで、もうごたごた言わずに、小林秀雄=プラトンでも引用しておくだけにするよ。


◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より


「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。

ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。

もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。
(……)
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。

2014年12月7日日曜日

ファシズム、ケインズ主義の回帰

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)
われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代”概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)

ーーとあるように世界資本主義が危機に陥ったとき、ファシズム、コミュニズム、そしてケインズ主義がかつて起こった。

ここで、現在、西欧の先進諸国や日本でネオナチが猖獗しつつあるのは、ひょっとして世界資本主義の危機のせいではないか、と問いを発してみることもできる。そして黒田日銀の異次元金融緩和などのアベノミクスは復活したケインズ主義ではないか、と。

「どのような利子率であれ、それが永続きしそうだと十分に強い確信をもって受け入れられるならば、現に永続きする」のである。

 ケインズの洞察によれば、人々の生活態度には確固とした知識の裏付けなどない。「大衆が利子率の緩やかな変化に対してかなり急速に馴染んでいくことはあり得る」。そう考えれば、「少しは気も楽になろう」と言い切っている。

 『一般理論』は不況と失業という難病に取り組むための、知的な実験だった。黒田日銀の異次元緩和はデフレという難病の解消を目指すものだ。両者の発想と行動が似ていたとしても不思議はない。知の武器庫を活用するときだ。(大機小機)ケインズの洞察と黒田日銀 2013/5/29)

このように思いのほか、われわれの社会に起こる現象は、「経済」の影響の下にある。そして世界資本主義の危機などといわないまでも、日本の財政はとんでもない「危険水域」に突入しつつあることは間違いない。

「白川方明前日銀総裁が以前の講演で、財政悪化したときの回復方法について言及していた。増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかないという。調整インフレやデフォルトを避けようとすれば、財政再建の道筋しかないのだが、働いても給与の手取りが増えず、社会保障サービスも低下するというきつい状態だ。こうなると人やマネーは日本から出て行ってしまうのではないか」(インタビュー:「危ない橋」渡る日銀、円の信認喪失も=上野泰也氏 | Reuters)

白川方明前日銀総裁の見解として、《増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかない》とある。

これはジャック・アタリの『国家債務危機』の変奏としてよいだろう。アタリは、国家債務の解決策は8つ存在するとしている、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、デフォルト》。

8つのうちの選択肢のなかに「戦争」とある。安倍政権の戦争への傾斜とも見られるものが、資本主義の危機のせいだとは断言しまい。だが次のように引用することはできる。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人[反原発デモが日本を変える])
……基軸商品の交替という観点から見ると、この次に、今までのようなヘゲモニー国家が生まれることはありそうもない。それよりも、資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(柄谷行人「第四回長池講義 要綱 歴史と反復」
「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみあわない」

安倍晋三政権が集団的自衛権の行使に向け、憲法解釈を変えようとしている。なりふりかまわぬ手法をどう見るか、そう尋ねた後だった。

 「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りね」(【時流自流】作家・辺見庸さん ファシズムの国2013.09.08

 ジャック・アタリに戻れば、彼の『国家債務危機』の「第5 債務危機の歴史から学ぶ12の教訓」には次のようにある。

1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである
2 公的債務は、経済成長に役立つことも、鈍化させることもある
3 市場は、主権者が公的債務のために発展させた金融手段を用いて、主権者に襲いかかる
4 貯蓄投資バランスと財政収支・貿易サービス収支は、密接に結びついている
5 主権者が、税収の伸び率よりも支出を増加させる傾向を是正しないかぎり、主権債務の増加は不可避となる
6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る
7 債権者が債務者を支援しないと、債務者は債権者を支援しない
8 公的債務危機が切迫すると、政府は救いがたい楽観主義者となり、切り抜けることは可能だと考える
9 主権債務危機が勃発するのは、杓子定規な債務比率を超えた時よりも、市場の信頼が失われる時である
10 主権債務の解消には八つもの戦略があるが、常に採用される戦略はインフレである
11 過剰債務に陥った国のほとんどは、最終的にデフォルトする
12 責任感ある主権者であれば、経常費を借入によってまかなってはならない。また投資は、自らの返済能力の範囲に制限しなければならない

ここでしばしば議論に上がる《6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る》については、小黒一正氏の2010916日に書かれた記事「「政府の借金は内国債だから問題ない」は本当か?」に簡明な分析がある。そして最後にこう書かれることになる。

国債発行は世代間格差を引き起こし、将来世代に過重な負担を押し付ける。したがって、「政府の借金の多くは内国債だから問題がない」というのは、間違いである。

すなわち、ジャック・アタリの《1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》に関わってくる。池尾和人氏も、2011年の段階で次のように発言している。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

 われわれがこの数十年来ーー超少子高齢化社会になることが周知になったあともーー、《負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきた》ということになる。