このブログを検索

2014年12月7日日曜日

「正しい心を抱いて邪な行為をする」(シェイクスピア=ジジェク)

2008年リーマンショックの米国議会の対応をめぐって、ジジェクは次ぎのように書いている。

緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことthe wrong thing for the right reasonsをしている一方で、緊急援助 の発案者は誤った理由から正しいことthe right thing for the wrong reasonsをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは非推移的なnon-transitiveな関係なのである。すなわちウォールストリートに善いことは一般の人びとに善い必要はないが、一般の人びとは、ウォールストリートが病気になったら、栄えることはできない。そしてこの非対称性はアプリオリにウォールストリートを有利な立場に置く。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

ここにある「正しい理由から誤ったことをする/誤った理由から正しいことをする」は、シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』における「邪な心を抱いて正しい行為をする/正しい心を抱いて邪な行為をする」のヴァリエーションだろう。

……シェイクスピアは『終わりよければすべてよし』において、真理と嘘の絡み合いに対する驚くべき洞察力を見せている。バートラム伯爵は王の命令で、平民の医者の娘へレナと結婚しなければならなくなるが、同居も床入りも拒み、「先祖代々伝わる指輪を私の指から奪い、私の子どもを宿したら」、彼女の夫になってもよい、と告げる。きっとそれは無理だろう、とバートラムは考えたのである。一方でバートラムは、若くて美しい娘ダイアナを誘惑しようとしている。ヘレナとダイアナはひそかに、バートラムを正式な妻のもとに帰するための策略を練る。ダイアナはバートラムと一夜をともにする約束をし、夜中に自分の寝室に来るようにと告げる。暗闇で、二人は指輪を交換し、愛を交わす。しかし、バートラムは知らなかったのだが、彼が一夜をともにした女性はダイアナではなく妻のヘレナだった。後にヘレナと対面したバートラムは、彼女が結婚の条件を二つとも満たしたことを認めざるをえない。ヘレナは彼の指輪を手に入れ、彼の子どもを宿したのだ。では、この寝室のトリックをどう位置づけたらいいのだろうか。第三幕の最後に、ヘレナ自身が素晴らしい定義を与えている。

今宵、計画通りにやってみましょう。うまくいけば、
先方は邪な心を抱いて正しい行為をするわけだし、
こちらは正しい心を抱いて邪な行為をするわけでしょ。
どちらも罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない。
とにかく、やってみましょう。〔第三幕第七場〕

Why then to-night
Let us assay our plot; which, if it speed,
Is wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act,
Where both not sin, and yet a sinful fact:
But let’s about it.

ここにあるのは、実際には「邪な心による正しい行為」(結婚の成就、すなわち夫が妻と寝ること以上に正しいことがあろうか。だがそれにもかかわらず、バートラムはダイアナと寝ていると思っているのだから、心は邪だ)と、「正しい心による邪な行為」(夫が寝るのだから、ヘレナの意図は正しい。だが彼女は夫を騙し、そのために夫は妻を裏切るつもりで彼女をベッドに連れ込むのだから、その行為は邪だ)である。彼らの情事は「罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない」。実際には夫と妻が寝るだけのことだから、罪ではない。だが、双方とも相手を騙しているのだから、罪深い行為である。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

冒頭の文のあと、ジジェクはトリクルダウンをめぐって書いている。

思い出してみよう、平等主義者の再分配(高度な累進課税制など)に反対する標準的なトリクルダウンtrickle-downの議論を。……この態度は、単にアンチ干渉主義者のものであるどころか、実のところ、経済の国家干渉のまさに正確な把握をあらわしている。われわれは皆、貧しい者がより豊かになって欲しいにもかかわらず、彼らを直接に助けるのは逆効果なのである。というのは、彼らは、社会において精力的で生産的な構成分子ではないから。唯一必要な干渉の種類は、金持ちがより裕福になることを手助けすることである。そうすれば利益は自動的に、貧しい者たちのあいだに広がっていく……(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

ここでのジジェクの論理によれば、トリクルダウン反対者は、「正しい心を抱いて邪な行為」を主張していることになる。すなわち弱者、あるいは一般的な人びとの救済は正しい心である。だが、彼らは「社会において精力的で生産的な構成分子」ではない。とすれば効率的な資金分配の方法ではなく、結果として経済成長を減退させ、弱者を一層苦しめることになる(邪な行為となる)。

この論理(トリクルダウンの論理)によれば、これが正真正銘の繁栄を生み出す唯一の方法なのである。さもなければ、国家が支給する資金はただ、真の富の創造者を犠牲にして困窮者に与えられる事例となる。したがって、財政投機から、現実の人びとの必要性を満足させる製造業の“真の経済”への復帰の必要性を伝道するものは、資本主義の肝心の的を外している。自己推進的なそして自己増殖的な金融の循環のみが、資本主義のリアルな特質なのであり、生産の現実が資本主義の本質ではないのだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

ジジェクは、このように書きつつ、資本主義のシステムは、富者擁護が避けがたく、だから新しいコミュニズムを考えなければならないという論理が展開されていくのだが、ここではそれには多く触れることはしない。

ポピュリストのスローガン、“メインストリート(一般の人びと)を救え、ウォールストリートではなく!”は……まったく本質を捉えていない。それは最も純粋なレベルのイデオロギーの形式である。それは見過している事実は、メインストリートを資本主義の下に維持しているのはウォールストリートであるということだ!  ウォールを取り崩してみよ、メインストリートはパニックとインフレで溢れかえるだろう。ギ・ソルマン、――現代の資本主義の典型的なイデオロギストの一人――が次ぎのように主張するとき実に正しいのである。「“ヴァーチャル経済”と、“真のreal経済”を区別する理論的根拠はない。最初に資金を調達することをしないでは、どんな“真real”も生み出されない……金融危機のときでさえ、あたらしい金融市場の世界的な(福祉)利益は、その費用を上回る。」(同上)

もっとも、トリクルダウンについては、貧富の差が極端な米国、あるいは企業の内部留保が多額でかつ企業家精神を失った日本のような国では、そのメカニズムは働かないという見解もあるだろう。

トリクルダウン(trickle down)は浸透を意味する英語。トリクルダウン理論とは「富裕者がさらに富裕になると、経済活動が活発化することで低所得の貧困者にも富が浸透し、利益が再分配される」と主張する経済理論。

この理論は開発途上国が経済発展する過程では効果があっても、先進国では中間層を中心とした一般大衆の消費による経済市場規模が大きいので、経済成長にはさほど有効ではなく、むしろ社会格差の拡大を招くだけという批判的見方もある。(野村證券「証券用語解説集」
結局、いわゆる晩期資本主義では、過剰なマネーからバブルが生まれてははじける、その繰り返しになっちゃうんだよね。古典的には、実需に見合った生産拡大があって、雇用が増加し賃金が上がる、その循環で景気が回復するはずだった。ところがいまは、バブルの儲けが上から下にしたたり落ちる(トリクルダウン)のを期待するばかり。当然ながら、それは空しい期待なんだよ。(浅田彰 憂国呆談

だが、現在日本で議論されているのは、ほとんど彌縫策ばかりであるというのは間違いない。

……資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム『倫理21』と『可能なるコミュニズム』2000.11.27)

また消費税反対というのは、「正しい心を抱いて邪な行為をする」ーー弱者擁護の立場を取りつつ、それは財政赤字をいっそう促進し、将来的には弱者をいっそう苦しめる(財政破綻によって)でないかどうかは念入りに疑ったほうがよい。

次ぎの記事はそのことの懸念が要領を得てまとめてある。

消費増税延期と財政(中) 党利党略優先、再建遅れも 国枝繁樹 一橋大学准教授 :日本経済新聞2014/12/5
いくらか抜きだしておこう。

 米ハーバード大学のアルベルト・アレシナ教授らは「消耗戦モデル」によって改革の遅れを説明した。各政党は現状のままでは危機を迎えることを理解しながら、支持者の負担増を伴う改革を自ら打ち出せば政党として大きな打撃を受けるため、お互いに我慢比べをする。危機が深刻化し改革先送りのコストが非常に高くなって、やっと改革が実現するというものである。
……既に首相は増税先送りを決め、衆院を解散した。今後、財政の信認維持にはどうすべきか。第一に再設定した消費増税を二度と先送りしないことである。いわゆる景気条項を付さないとした決定は正しいと考えられる。

 第二に、与党税制協議会は17年度からの軽減税率導入を目指すとしたが、導入には多くの経済学者が反対している。低所得者対策は高額所得者にも恩恵が及ぶ軽減税率よりも直接の低所得者支援のほうが有効である。複数の税率により事務的にも煩雑になり業界の利害による政治介入の余地も大きくなる。課税ベースの縮小で税収確保には、より高い税率が必要になる。

 第三に、10%に消費税率を引き上げても、基礎的収支の赤字は解消しない。首相は来年夏までに黒字実現への具体的計画を策定するとしたが、楽観的な経済見通しや内閣府の研究会で既に否定された過大な税収弾性値に基づく甘い計画では信頼されない。

 現実には今回の増税先送りの結果、より迅速な再増税や歳出削減が必要になってくる。信認確保には、慎重な見通しを前提とし、10%を超える税率引き上げのスケジュールや将来の公的年金の支給開始年齢の引き上げを含む大胆な社会保障改革を明示した財政再建計画が不可欠である。

 楽観的な見通しの弊害を防ぐため、他の先進国では政治から独立して専門家が財政見通しを立てる独立機関の設置例が増えている。我が国でも同様の機関の設置を検討すべきである。世代会計に基づき将来世代の負担を示すことも重要である。なお、慎重な前提を置くことは経済成長の重要性を否定するものではない。積極的に成長戦略を推進する一方で、その成果を過大視しないということである。

 財政危機のリスクは高血圧のリスクに似ている。普段は自覚症状はないが、脳卒中その他の死につながる病の確率を高める。医師は即時の高血圧の治療開始を強く勧めるが、自覚症状がないからと治療を先送りする患者もいる。しかし、脳卒中で倒れてから後悔しても、もう遅い。財政再建も同様である。財政の信認が失われないよう、慎重な経済見通しに基づいた確実な財政再建計画を早急に提示することが強く求められる。

〈ポイント〉 ○延期で財政安定に一段の収支改善が必要 ○目先の痛み避ける政策運営が復活の恐れ ○税率10%超の日程や大胆な社保改革示せ


上の文にある《税収弾性値に基づく甘い計画》は消費税反対論者によって、しばしば提出される。

「増税や歳出削減に反対する人たちが、根拠を探して高い税収弾性値を持ち出す」(大和総研 鈴木準主席研究員
小黒一正 @DeficitGamble

最近、某氏に「長期の税収弾性値=1」である説明を簡単にしたが、意味が分からなかったらしい。資産課税等を除き、長期で税収弾性値が1よりも大きければ、時間が十分経過すると、税収はGDPを超えるのですが。