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2015年10月2日金曜日

テレビ撮影用のデモ

おい、歴史の教科書によればフランス革命は1789年だったな、年を特定するのは困難だとはいえ(1787-1799)

ロシア革命は1917年だ。ーーええっと 1917-1789=128 だ

1917+128=2045年か、計算間違えないだろか、かなり先だな、次ぎの「革命」は。オレはもう生きてそうもないよ・・・

この際、1799年のナポレオンによるクーデター年から計算することにすれば、2035年だな、これはまだ場合によっては遭遇できそうだ

李鵬が1997年に「まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう」と言ったのだが、日本だけに限っていえば「あと30年」とは2027年だな、オリンピック後だし、ちょうど頃合じゃないか。こっちの予測が起こらないかね、まずは日本で。

…………

ところできみらはマジでいまのシステムが続きうると思ってんだろうか、「オレたちは保守だ」などとほざいている社会運動家の諸君よ!

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です! (野間易通)

彼をはじめとするカウンターの連中をアホウドリだとは言わないでおくが、徹底的な経済音痴だね(参照:「この世の不幸のもとは安倍政権だ」)。

社会運動やってて、いまどきエコノミーを外すって手があるんだろうか(参照:イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミー(ネーション、ステート、資本制)の三幅対)。





もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)

われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代”概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)

なぜ彼らは現在のファシズムやレイシズム、戦争法案、あるいはアベノミクスが新自由主義の危機からの脱出のせいかもしれないと一瞬でも想起しないんだろう? 

ファシズム、レイシズム=イデオロギー(ネーション)
戦争法案=ヘゲモニー(国家)
アバノミクス=エコノミー(経済)

ーーじゃないのかい?

真の敵は「新自由主義」だよ、それに気づかないってのは・・・

バカジャナイノカ? いやいやシツレイ! バカじゃなくて、「ユートピアン」なんだろうよ

人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。(ジジェクーーユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

ユートピアン、すなわちそれを寝言派という。

《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である》(二宮尊徳)


…………

・いまさらわざとらしい顔をするなよ。もうあきるほどいいふるされているじゃないか。そして敵は依然として勝ちつづけている、と。未来はいうまでもなくひたすら空虚である。万が一、敵に勝ったとしても、だ。総員おためごかし。(辺見庸 日録 2015/09/17

おい、辺見庸はおまえらにカツいれてんだよ

 確かに、良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとうエルベックの服従」

おまえらそれも分からなくなっちまったのか、そもそも辺見庸の「日録」ってのが、荷風の「断腸亭日乗」のパロディだということさえ分からぬ文学音痴なんだろうよ。

ただし8・30の絵を作ったことには敬意を表するよ、

@kentarotakahash
3万人だろうが、12万人だろうが、35万人だろうが、この絵を作ったことで、もう日本は変わっている。 https://pic.twitter.com/AoS5jP6QrA

《ほぼ官製・完全順法管理無害ハナクソデモ。ジンコウモタカズヘモヒラズのテレビ撮影用のパレード》だって、ないよりはズーッとましさ。

・「見ずして信ずるものは幸いなり」。ジョージもエルナもエレーナも知らない、とってもお寒いやつら。いつかアイコク・ボウエイタイになるアホウども。大韓民国全羅南道高興郡金山面出身のキムイル(김일)氏のことも、かれのつらさも、パチキのすごさも知らない、あまったれのクソッタレ・ニッポンジンども。どこでだれにどういう教育をうけたのかね。おまえたちの、ほぼ官製・完全順法管理無害ハナクソデモ。ジンコウモタカズヘモヒラズのテレビ撮影用のパレード。中平卓馬も安田南も堀内義彦も天国であきれてるぞ。「ふざけるな、ぶんなぐってやる!」。あはは、中平さんはネコパンチだけどもね。オマワリとあらかじめウチアワセしたり、いちゃついたり。おまえら、まったく気色わるいぜ。反吐がでるぜ。まだましなのは、なにもおこなわない(しない、やらない、やらされない、やろうともしない、誘導もされない、すこしの移動もしない、そのようにそそのかされもしない、説得をうけつけない、とくだんの意思もなく、ただそこにあるだけ)で、にもかかわらず、ときに、なにかしずかにきわだっているようにもみえる、ひとつのものだ。それは、存在を、影ごとみずからの内側に、イソギンチャクのようにくぐもらせてゆく(みずからがみずからの内側に埋まってゆく)……それ以外ではまったくありえようもない、ひとつのなにかだ。じぶんをじょじょに内側にたぐりこみ、引きこんでいって、ついに消えてゆくじぶんだ。きのうはエベレストにのぼった。けふはダフネにいったけれど、エベレストにはのぼらなかった。さらばじゃ、クソッタレ!(2015/09/30)

 ーーで今からでも遅くないから「経済」勉強したらどうだい?

きみらは基本的な過ちを犯しているのだよ。

……基本的な過ちを犯 している。ヨーロッパの体制側が依拠する筋書きは、巨大な赤字が金融部門の大規模な債務棚上げや不況期における政府の歳入の低落によって脹れ上がるという事実を曖昧にしている。アテネへの大規模な貸付は、ギリシアのフランスやドイツの巨大銀行に対する 債務支払のために用いられることになるだろう。欧州連合による債務保証の真の目的は、 民間銀行の救済にある。というのも、ユーロ圈の国家の1国でも破綻すれば、ユーロ圏全体が烈しい打撃を被るからである。他方で、抗議する側における筋書きは現代における左派の相も変わらぬ悲惨な状態を証して余りある。既存の福祉国家との妥協を一般的に拒否するにすぎないその要求に、具体的な計画的内容を見出すことはできない。ここに見ら れるユートピアはシステムの根源的な変更ではなく、福祉国家はシステム内部で維持可能だという思いつきである。(マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」

ーーやあすまなかったな、「妄言」を記してしまって。

…………

文句をいってくるヤツがいるのを憂え先に記しておくが、リンク先を読んでからにしてくれよな、文句は。とはいえ、だいたい元じばき隊の諸君やそのシンパは「キャッチーさ」のみがお好みらしいから、長たらしい文献などは読まない・読めないのだろうがね(参照:旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

だからいつまでも経済音痴で通すつもりなんだろ? 寝言派でな。

‏@kdxn野間易通
経済の話と日本史の話が始まると、貝のように口を閉ざす。

知ったかぶりするネタすら持っていない。

ーー「これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい」(野間易通)ぜ、なあ、おい!


だから元しばき隊のおそらく中心メンバーの一人だろう「ばんちょう」氏は次のような厚顔無恥なことをつぶやいてしまう。

9月30日@bcxxx
実際にはあんたらが社会構造の問題だと思ってる物事のほとんどは、特定の政治家や政党や官僚の産み出した政策のせいだよ。

社会構造のせいにし続ける限り、あんたらは本当の敵を見失って、あんたらの寝言を優しく聞いてくれそうな隣の誰かさんのことを殴り続けることになる。

これでは「経済的下部構造」について無知のままでいたいと自白しているようなものではないかね

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。

(……) 資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.35-36)

そもそも日本だけではなく世界が次ぎのごとく高齢化しているなかでどうやっていままでのシステム(社会保障制度をはじめとする制度)を保つってわけだい? 税金(国民負担率)倍増しないともたないに決まってんだろ!








2015年9月20日日曜日

これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(『看護のための精神医学』中井久夫

…………

小池一夫@koikekazuo

「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』)

野間易通)《@kdxn: この文章は前段と後段が矛盾している。「正義だと信じた」ということは実は正義ではなかったって意味なので、「最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ」という文は間違っていることになる。これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい。 https://t.co/yl4DDMfbtv》

《@kdxn: 「正義と称するが正義ではないもの」と「正義」をきちんと区別することができないと、本当の正義を行うことができないばかりか、それを行っている者を疑い、嘲笑する醜い不正義の人間になってしまう。》

‏@G2Nakamura

これ、わからないのは「実は正義ではなかった」というのはどの立場から言っているのかというところ。まるで神のように一段上から見下ろしてないか?所詮、絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている分、小池一夫のほうが共感できる。

《@kdxn: 「実は正義ではなかった」とみなしてるのは小池さん(が引用した文)なので、読み取りがおかしい。 https://t.co/CbV64l9QgK》

《@kdxn: あと「絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている」のは信用ならない。絶対概念は神にのみ適用されるもので、世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの。なので「絶対正義などない」という諦念表明は何も言ってないに等しい。 https://t.co/CbV64l9QgK》


…………

野間易通氏の本日のツイート(2015.9.20)だが、さてあなたはどう思う?

《これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい》な、《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》などという考え方は。

ことわっておくが、わたくしは野間易通氏のファンだがね、

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

少なくともこういった発言には抵抗しようがない(参照:「何もしないことのエクスキューズ」)。

だが、正義とは《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》とするのはいかにも浅墓すぎる。すでにかつてなんどもくり返し議論されて(とくに環境問題のとき)、すくなくとも現在生きている「人間同士の合意」では扱えない「正義」があることは、「識者のあいだでは」明らかになっているはずだ。すなわち、野間易通の考え方は「ほどよく聡明な」正義の現場派には《よくあるパターンなので早々に脱却したい》。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。また、過去の人間との対話や合意もありえない。彼らは何も語らない。では、われわれはなぜ責任を感じなければならないのか。実際、何の責任も感じない人たちがいる。国家や共同体に関して「道徳的」な人たちが特にそうである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P192)

人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとること——それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(……)

未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。(岩井克人「未来世代への責任」

とはいえツイッターでメンションを入れるのはやめにしていまこうやって記している。いま野間易通氏は他人の批判を受け入れがたいまでに自らの「正義」を確信する領域にはいってしまっているようにさえみえるからだ。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄)

…………

くりかえせば、《一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは……視野の幅が狭くなっていることが多い》のであり、野間易通氏もそれから免れていない。かつまた彼の繰り言「ポストモダン」批判(参照)も素直に耳を傾けるわけにはいかない(参照:元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判)。

ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』P18)

たとえば野間易通氏に代表される社会運動家たちは、ほとんどが消費税増反対だろう。消費税増に反対することは今生活している人(とくに低所得層)にとっての短期的な正義であるには相違ない。

だが消費税増ーーもっと大きく言えば国民負担率増ーー反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照)。

いずれにしろ人は《邪な心を抱いて正しい行為をする》こともあるし《正しい心を抱いて邪な行為》をすることもある(シェイクスピア『終わりよければすべてよし』)。視野の幅が狭い(短期的な)正義は、長期的には悪であることがしばしばあるのは周知だろう。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

「日本の国債市場と投資家行動 」(2014年10月3日 角間和男 野村アセットマネジメント)に引用されている橘玲氏の『(日本人)』におけるブキャナンの財政赤字の膨張の不可避性の見解はつぎの通り(もっともドイツは政治家の「秀れた」リーダーシップでそこから脱出したのだが)。

ジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。

このような説明は、ほとんどの人にとって不愉快きわまりないものにちがいない。だが 現実には、日本国の借金は膨張をつづけ、ついには1000兆円という人 類史上未曽有の額になってしまった。ブキャナンの「公共選択の理論」は、 この事実を見事に説明する。そしてこれまで誰も、国家債務が膨張する 理由について、これ以上シンプルな説明をすることができないのだ。(橘玲『(日本人)』)

こういったわけで、われわれは財政危機という課題をつねに未来へ先送りする傾向をもつ。「公共的合意」では埒が明かないのだ。

◆補遺:「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


…………

※附記

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』)

変奏:〈あなた〉が正義という理念のために己の正義を果たしていると考えているとき(たとえば安倍晋三を罵倒するとき)、〈わたくし〉は知っている。〈あなた〉のふだんは行き場のない攻撃欲動をこのときばかりと発散し、それを享楽していることを。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「で、どうおもう、〈あなた〉は?」)

《すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ》(ニーチェ遺稿「生成の無垢」)

ーーこのニーチェの言葉の例証として、日本では代表的な聖女とされるだろう神谷美恵子さんをめぐってみてみたことがある(参照:「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」(神谷美恵子))。

義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

さてどうしたらよいのか。まずは正義だと思い込んでいる自らの背後にある攻撃欲動(享楽)を認めることだ。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)
……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




2015年3月7日土曜日

元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判

野間易通氏が次ぎの二つのツイートをリツイートしている(15:00前後 - 2015年3月7日)。

@poem_japan: 以前、浅田彰が大江健三郎について「何故、あんなつまらないエッセイ書く作家があそこまで凄い小説を書くのか」みたいなこと言ってて、その頃の大江は直球の反戦反核で戦後民主主義的エッセイを連発してたんだけど、それのどこが悪いのかって思ったなー。
@bcxxx: 戦後民主主義は「つまらない」、という「戦争を知らない現代っ子の退屈主義」が、日本におけるポストモダン思想の根本にあり、その延長上に、90年代の政治サブカルの相対主義的歴史修正主義や、00年代以降の極右排外主義、趣味化した冷笑主義があると考えている。

前者はbcxxx氏がリツイートしたもののようで、bcxxx氏は、野間易通氏と同様、元しばき隊の仲間たちのひとりである。

3.11以後、これらの連中のやってきたことを評価し過ぎてもし過ぎることはないという立場に立つにもかかわらず、彼らの頭は単細胞すぎる。すくなくともそのツイートのかなりのものは、「キャッチーさ」のみが強調され、ときにひどく苛立たせられる。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。(2014/09/07ーー「旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通」より)

彼らはバカではない、だが、ことあるごとにポストモダンやら冷笑主義なる語彙をふりまわして否定するが、では例えば、「風刺」と「冷笑」とどう違うのか。彼らは今年初頭の仏風刺画をめぐる事件にどんな立場をとったのだったか(失礼ながら失念したが、今調べてみようとは思わない)。情緒の昂揚系ではなかったかどうかも思い出せない(参照:仏テロ事件後のラ・マルセイエーズによる「情緒の昂揚」)。

風刺/冷笑には、もちろん違いはあるのだろう、たとえば、そこにユーモア/アイロニーの二項対立を思い起す人もいるだろう(参照:「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト))。そして風刺はユーモア寄りだと言い募る場合もあるかもしれない。だが、それは受け取り手次第の場合が多い。

たとえば、これは別の例だが、ニーチェの能動的/受動的ニヒリズムの相違にひとは気づくことは容易ではない。それは受け取り手がどの立場に立っているのかによって変化する。ユーモア/アイロニーはその最たるもののひとつだ。

ニヒリズム。それは二義的だ。
A 高揚した精神力のしるしとしてのニヒリズム。すなわち能動的ニヒリズム。
B 精神力の衰退と退化としてのニヒリズム、すなわち受動的ニヒリズム。(権力 22番)
ニヒリズムは一つの正常な状態である。

それは強さのしるしでありうる。精神力が伸びきつて、これまでの目標(「信念」とか、信仰信条など)が身たけに合わなくなったという場合である。(――というのは、信仰は一般に、ある生物がそのもとで繁栄し、生長し、権力をうるような状況が示す権威に服従すること、すなわち生存の諸条件の強制をあらわすものだからだ。)

他方ニヒリズムはまた、創造的自主的に、あらためて一つの目標を、一つの「何のために」を、一つの信念を打ちたてるにたるだけの強さをもっていないしるしでもある。

能動的ニヒリズムは、破壊の暴力として、その力の最大限に達する。

これに対立するのが、もはや攻撃することをしない疲れたニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教であろう。受動的ニヒリズムとして、弱さのしるしとして。精神力が疲れ、消耗しきってしまった結果、在来の目標や価値が合わなくなり、それがもはや信ぜられなくなるという場合である。――価値と目標の綜合(すべて強い文化はこの綜合にもとづく)が解体して、その結果、個々の価値がたがいに戦いあう、すなわち崩壊することになるのだ。――活気づけ、治療し、安心をあたえ、麻痺させるようなすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とか、その他さまざまの扮装をして、前景に出てくるのだ。(権力 23番)

…………

たとえば、浅田彰の2001年4月28日 東京大学駒場の講演「知とは何か・学ぶとは何か」を読んでみよう。

自分はそもそも、近代はすばらしいと言っていた人に対して、近代にも様々な問題はあるし、近代が忘れてきた様々な問題をもう一回考える必要があるという立場だった。しかし気づいてみると近代こそが最低限の常識だ、という頑固親父がいなくなって、近代は絶対ではないとか、公教育というけれども情報量を詰め込むより生きる力をつけなければなどと言っている。

あるいは、「民主主義の中の居心地悪さ」にいくらか列挙されている抜き書きを。

なぜ、《戦後民主主義は「つまらない」、という「戦争を知らない現代っ子の退屈主義」が、日本におけるポストモダン思想の根本》などと言い募ることができるのか。これこそ「キャッチーさ」のみが強調された阿呆ツイートである。

ここではバディウ曰くの《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》などという類の話はしないでおこう(参照:民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である)。

もっと基本的レベルの話をしよう、野間易通氏は、《そもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、……》云々とツイートしていたのを垣間見たことがあるので、柄谷行人の話をしよう。

 ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』P18)

「超越論的」という言葉が出てきている。柄谷行人はいたるところでこの「形容詞」を語っているが、ここではトランスクリティークから。

カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)

すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(『闘争のエチカ』P53)ということになる。これは殆んどユーモア/アイロニーの定義である。「超越論的」がユーモアであり、「超越的」がアイロニーである。ここでドゥルーズの定義を掲げてもいいが、長くなるので千葉雅也氏の書から拾っておこう。

千葉雅也(動きすぎてはいけない)@ 逃走は、少なくとも二度、加速されなければならない。一度目は、しがらみを笑い飛ばすイロニー的な初速として。二度目は、そこから伸びるリゾームを、《この》加/減でよしと、笑って済ませるユーモア的なトップ・ギアとして。

あるいはまた柄谷行人の80年代の書から次の文をつけ加えることもできる。

人間が作ったものと自然が作ったものの差異はなにかという問いは、それ自体歴史的である。実際この問いが生じるのは、またテクネーの意味が問われるのは、 きまってテクノロジーが飛躍的に発展するときである。(……)サンボリストたちの問題意識は、19世紀のテクノロジーに密接に関係するのである。今日において、構造主義は、いうまでもなく、コンピューター・サイエンスの所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係にみえるような哲学者の言説においても、 本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック・デリダがアルシエクリチェールについて語るとき、分子生物学が遺伝子をエクリチュールとしてみているとい う事実の上である。

このことは何を意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、それはわれわれを伝統的な思考の圏内に閉じこめてしまうだろう。だが、同時に、われわれは歴史的な過去に遡行しなければならない。それは、現代のテクノロジーが与えている「問題」が、そのなかで解かれるべきものであるどころか、一つの反復的な症候にすぎないことを知っておくべきだからだ。さらに、もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』 講談社版1983)

この引用文の最後にある、《もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくこと》という振舞いがポストモダンの真の態度なのだ。

そしてくり返せば、「ポストモダン」が、「状態」になってしまえば、それを疑うことが「ポストモダン」なのだ。すなわち、《それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない》と。ただつねに懸念されるのは、それが何を意味するのか分からずにイメージだけの概念=表象として流通してしまいがちなことだろう。それを元シバキ隊の諸君はやっていないだろうか?

かつまた、われわれは、いまだ《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)には相違ない。これは殆んど誰もが例外ではないはずだ。さて、元シバキ隊の諸君はどうなのだろう?

さらにまた、人は「正しい心を抱いて邪な行為をする」(シェイクスピア=ジジェク)こともありうる。「誤った理由から正しいことをする」場合もあるように。彼らの多くは見たところ、--これはわたくしの推測だがーー共産党支持らしいが、それは場合によって、「正しい心を抱いて邪な行為をする」帰結になりはしないか。

ここでの文脈とは、あまり関係がないが、東浩紀氏が野間易通氏に向けた昨年末の選挙前のツイートを掲げておこう。

@hazuma: こういうとき、そんなこと言っても与党の横暴を止めるためなんだから、とにかくなんでもいいからうち(野党)に入れておけとか言ってきたから、日本の野党は競争力を失ったんだと思う。

ーーとはいえ、わたくしは与党の横暴を止めるために、「戦略的に」社会党や共産党などに入れてきたタチではあるが。

…………

以下、元シバキ隊の諸君の大キライなはずの蓮實重彦によるポストモダン批判(吟味)を附記しておく。

僕は「ニュー・アカデミズム」は本質的に思想運動ではなく「闘争」だったと思っています。その「闘争」は、出発点において共同体内の戦いだった。浅田彰にしても中沢新一にしても、その戦いを一つの攻撃として組織したんだと思います。そうした姿勢を勇気づける雰囲気はある程度準備されてはいましたけれど、より持続的な戦いの端緒として『構造と力』や『チベットのモーツァルト』は出版されたわけです。その際、共同体内の敵はもっと強力なものだという自覚があったはずです。その自覚とは、あっさり蹴散らされるほどの理論的な強力さではなく、いわば無視されるといった程度の負の強力さを予測していたということです。

ところが、仮想敵がまるで強くなかった。浅田氏にしろ中沢氏にしろ、積極的な敵意に出会う以前に共同体内的な嫉妬によって受け入れられ、それをバネにして共同体内で勝利してしまったのです。これは、日本社会の無責任的な柔構造にからめとられたということにほかなりませんが、大学といった「アカデミズム」の場にまで拡がり出しているこの柔構造の無責任性は、いつでも逆転しうるものだ。王殺しはたえず共同体的な健康維持として可能ですが。ところで、いわゆる「ニュー・アカデミズム」が一時的に占有しえた王の位置というのは、彼らが意図してそこについたわけのものでない。いわば、彼らの書物が読まれたことからくる思想的な勝利ではなく、共同体が容認しうるイメージに翻訳された観念に支えられたものでしょう。「アカデミズム」でさえ、そのイメージに汚染されているわけで、まあ、僕の場合なら、そうしたイメージ汚染の現状を物語批判として展開したのだけれど、「ニュー・アカデミズム」の当事者たちの方は、ある程度、そのイメージ汚染の醜悪さを楽しんでいました。それが柄谷さんのいう「調子に乗ってやってきた」という側面だと思いますが、いまや、彼らの書物が持っていた「闘争」性があらためて問われるときだと思う。(『闘争のエチカ』P176)

ここで蓮實重彦は何を言っているのだろう。浅田彰も中沢新一も、ニーチェの云う能動的ニヒリズムとして出発したのだ、といってはいないか。だがいつの間にかそれが取り込まれて受動的ニヒリズムの一環になってしまった、と言ってはいないか。

以下は補足的につけ加えておく。

……フレデリック・ジェームソンが「ポスト・モダンと消費社会」というのを書いたでしょう。たいした論文じゃないと思うんだけれども、そこで彼が陥っている最大の間違いは、時間と空間を限定してしまったことにある。もし、かりにポスト・モダンという状況を評価するならば、それは一定の時代じゃないわけです。場所でもないわけです。そのことを彼は、どうしても文章のなかに取り込めないわけです。時代と場所ということに、どうしてもこだわってしまってて、ポスト・モダン的な運動は映画なら一九五〇年代の終わりからフランスを中心に起こったとこ、そういうことを平気で書いちゃう。

たしかに、たとえばゴダールが出たのはフランスですよね。これは、誰も否定しない。それからゴダールは、ある種の歴史的な状況を背負って出てきたというのも当り前なんだけれども、こういう歴史的な時代設定によってポスト・モダンを語る姿勢って、ポスト・モダン的感性を抑圧するいかにも近代的な言説でしょう。僕にはそのつもりはないけれど、こうした筆遣いでポスト・モダンが語られるのを見ると、僕はつい、ポスト・モダンの擁護にまわりたくなっちゃう。いくらなんでも、もう少し魅力的な語り方がありはしまいか。

ゴダールがすごいのは、彼の撮る作品が、映画の魂といういうべきものをほとんど唯物論的にスクリーンに露呈させているからであって、そのことで「後期資本主義下に現れた新たな社会秩序に内在する真実」を描こうとする一連の表象形式から遥かに距てられた場所にわれわれを目覚めさせてくれるからです。そうした場所での覚醒の体験は無時間的なものですから、それをポスト・モダン的だというならまだわかる気がする。でも、そんなことを考えていそうもないジェームソンは、近代芸術がすでに完成しつくして、新たな形式の創造が不可能になったという芸術家の自覚が、個人という近代的な概念の機能しえなくなった時代の表現としてポスト・モダンを生み落したのだと主張する。そうした近代的な歴史観こそが、実は批判さるべきなんだと思う。つまり、近代は終わったという自覚は彼にとっては個人的かつ近代的な自覚でありながら、その矛盾には目をつむっているわけですから、こうした人たちが語るポスト・モダンの近代性には心からうんざりさせられるし、その批判は『物語批判序説』であからじめしてあるつもりです。

ジェームソンはマルクス主義者だから、いまだに時代と生産様式にこだわらざるをえないんでしょうが、そこから引き出される論述の啓蒙性には本当に驚かされます。そして、それを批判するには、ポスト・モダン的である必要なんかない。それを近代的とよぼうが何とよぼうがかまわないが、批評ができれば充分なんです。ジェームソンには批評が欠けている。少なくとも、彼は、ポスト・モダンを語っていながら、ポスト・モダンの魂ともいうべき「記号」を唯物論的に擁護してはいない。彼は、共同体がたやすく表現するイメージを介して相対的な差異と戯れているだけなのです。これでは、いくら何でもポスト・モダンが可哀そうだ。(『闘争のエチカ』P69-70)
フーコーにとって「ポストモダン」という問題は存在しない。(……)現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の兆候もない。いわゆる「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、またそれらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。考古学者フーコーにとって、「ポストモダン」とは、いわば誤まった問題なのである。(蓮實重彦『フーコーと《19世紀》』)
僕自身としては、真実をめぐる言説が「大いなる物語」の中に錨をおろしていた時代をモダンと呼び、その「大いなる物語」の機能失調が明らかになって以後の時代をポスト・モダンとよぶことには反対であり、かりに「大いなる物語」が近代=モダンの言説だと呼ぶなら、その成立は、真実とは無縁の「小さな物語」の発生と同時代的であり、あるいはその「小さな物語」こそが「大いなる物語」の伝播に役立っていたという視点をとっているので、ポスト・モダンをモダンに続く時代ととることにも反対です……(『闘争のエチカ』)

――さて〈諸君〉はこれら蓮實・柄谷・浅田の「三馬鹿トリオ」(吉本隆明)の語りを「批判=吟味」できるだろうか。すくなくともキャッチーさに専念して「相対的には聡明」なつもりでいる連中には無理だろう。

肝要なのは「超越論的」、あるいは「ユーモア」である。ユーモアが《メタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである》(柄谷行人『ヒューモアと唯物論』)。あるいは〈あなた〉の問いや批判が前提にしているのは何かというポストモダン的=超越論的な問いが肝腎である。「超越論的」とは、《合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判》することでもある(「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」)。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』清水知子訳)

ーー経験論に傾きがちな〈諸君〉も「偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」を知らないわけではないだろう。


この文は、海外住まいの身として「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」(野間易通)という批判を蒙ることは覚悟で、あまりにも彼らの調子に乗りすぎが目に余るため、以上の文句を記してみたものである。こんなことはおそらくわれわれの世代(すなわち三馬鹿トリオを読んだ世代)の者たちにとっては自明の理だろう。ただ反原発、反レイシズム、反安倍などで、実働部隊として活躍してくれそうなのは元しばき隊の連中しかいそうもないので、批判の口を閉ざしているだけなのだろう。





2015年1月6日火曜日

君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえに君から善を期待する

まずは、プラトン『国家』(藤沢令夫訳)から引用してみよう。

アデイマントス)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)

ニーチェは、プラトンやソクラテスの思想について、賛否混淆のニュアンス溢れることを言っているのだが、すくなくともこのアデイマントスの発言は、「ルソー派とニーチェ派」で引用した次の言葉の、あたかも起源のひとつであるかのようだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

だがニーチェから読みとるべき肝腎な点は、 《不正をはたらくだけの力》=攻撃欲動が己れに反転して自己統禦の力となるということである。

たとえば、浅田彰はフロイトの死の欲動、あるいはニーチェの権力への意志、さらにはフーコーやドゥルーズのニーチェ解釈から、《力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる》と読み取っているわけだ(同「ルソー派とニーチェ派」参照)。もちろん浅田彰はフーコーの『性の歴史』におけるギリシア文化における欲動の節制(自己陶冶)やら克己Enkrateia、節制Sophrosyneの概念などを想起しつつこのように語っているはずだ。

われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。…われわれの攻撃欲動を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 人文書院)
粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳)

同じ『ツァラトゥストラ』における、《わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ》とは、この解釈の光の下で読むべきだろう。

これにはかねてより数多くの変奏がある。たとえば熱心なプラトン読みであったアランは次のように言っている。

節制ということが勇気の妹ということ……この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。(アラン「四つの徳」

もっとも上の文と対照させるために、《生まれつきよく出来た人といわれている人間は、自己統御をまったく怠ると、最悪のところまで、しかもひとより早く達することが、しばしばある》(アラン)とも抜き出しておこう。すなわち「<力>への意志」の器の大きな人間は、場合によっては最悪の処へ突き進んでいく。

ここで、日本の「思想家」の言葉を拾ってもよい。

「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。(加藤周一「老年について 」1997)
停滞をとりあえず成熟と呼ぶことで、みんながおのれの貧しさを肯定しあ(う)(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ところで、われわれは次ぎの文をどう読むべきだろうか。

いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない。(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

Man hat schlecht dem leben zugeschaut, wenn man nicht auch die Hand gesehn hat, die auf eine schonende Weise - tödtet.

読んでいない著者や著作の断片を無闇に貼り付けるのは、あまり好まないのだが、次のような見解をウェブ上から拾ったので、ここに示しておこう。

なぜ人を殺してはいけないのか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」―誰も公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明の真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。(中略)ニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。(中略)反社会的な善というものがあるのだ。いや、あるどころではない。善とは、最終的・究極的には、反社会的なものである。(永井均『これがニーチェだ』)

《善とは、最終的・究極的には、反社会的なものである》とは、おそらく次ぎのようなことではないか。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収

ジジェクのこの小論には次のような文もある。

根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

ここで日本の代表的なユマニスト渡辺一夫の穏やかな言葉をも抜き出しておこう。

秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」


社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その既存秩序を破壊しよう、あるいはその秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にとっては「悪」とならざるをえないだろう。そもそも殆んどのひとは、《パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々)から規範に服従》しているだけではないか。

The time is out of joint: O cursed spite,
That ever I was born to set it right,(Hamlet 1.5.189-190)

この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!(シェイクスピア 福田恆存訳)
世界はまちがいもなく脱臼してしまっている。暴力的な動きによってのみ、それをふたたびはめ込むことができる。ところが、それに役立つ道具のうちには、ひとつ、小さく、弱くて、軽やかに扱ってやらなきゃならないものがあるはずだ。(ブレヒト『真鍮買い』)

もちろんブレヒトのように繊細な道具を使って「暴力的」な叛旗をひるがえすこともありうる。だがブレヒトのような「美的」な抵抗では効果がなかったら? いまはますますそれでは効果がない時代だろう。

私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』)

ジジェクの言っていることは、ニーチェの能動的ニヒリズムの文脈で捉えうるものだ。

ニヒリズム。それは二義的だ。
A 高揚した精神力のしるしとしてのニヒリズム。すなわち能動的ニヒリズム
B 精神力の衰退と退化としてのニヒリズム、すなわち受動的ニヒリズム。(権力 22番 秋山英夫訳)
ニヒリズムは一つの正常な状態である。

それは強さのしるしでありうる。精神力が伸びきつて、これまでの目標(「信念」とか、信仰信条など)が身たけに合わなくなったという場合である。(――というのは、信仰は一般に、ある生物がそのもとで繁栄し、生長し、権力をうるような状況が示す権威に服従すること、すなわち生存の諸条件の強制をあらわすものだからだ。)

他方ニヒリズムはまた、創造的自主的に、あらためて一つの目標を、一つの「何のために」を、一つの信念を打ちたてるにたるだけの強さをもっていないしるしでもある。

能動的ニヒリズムは、破壊の暴力として、その力の最大限に達する

これに対立するのが、もはや攻撃することをしない疲れたニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教であろう。受動的ニヒリズムとして、弱さのしるしとして。精神力が疲れ、消耗しきってしまった結果、在来の目標や価値が合わなくなり、それがもはや信ぜられなくなるという場合である。――価値と目標の綜合(すべて強い文化はこの綜合にもとづく)が解体して、その結果、個々の価値がたがいに戦いあう、すなわち崩壊することになるのだ。――活気づけ、治療し、安心をあたえ、麻痺させるようなすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とか、その他さまざまの扮装をして、前景に出てくるのだ。(権力 23番)

いまこういったことをやろうとしているグループがようやく出てきたのではないか。すなわち社会秩序の座標軸を変えようとする動きを先導するグループが。ここではつねに、彼らが“退行的な”原始集団の避けがたい帰結、残酷で血腥い破壊的な衝動に絡めとられないかどうかを危惧を覚えつつも、わたくしは《旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通》という男を、彼のやっている事を、あるいはやろうとしている事をーー時に彼の言葉には齟齬を感じることを否定するつもりはないがーー強く支持したい。彼が旧「しばき隊」を一年も経たないうちに解散したのは、集団に生じる退行性の臭気への極度の敏感さのためであると、わたくしは「錯覚」に閉じ篭り得ている。

野間易通@kdxn: ネット上の左派やリベラルが、消化不良のポストモダンで相対主義の泥沼にはまりこみ、「おまえも本当は差別者だ」とお互いを指差し糾弾しあっている間に、難しいこと考えなくていいネトウヨが大増殖、現在に至る。これがこの15年に起きた出来事である。

(2011.9.5 読売新聞)

ツイッター上での発言(罵倒)が過激すぎるって?

野間易通@kdxn 2015.01.06
死ねよゴミ。RT @sangituyama: で、どう関係ないの?RT@kdxn: 「どう関係ないの?」ってそんな質問があるかボケが。「こういう関係がある」と言えない時点でおまえは関係ないんだよ。こんなこといちいち説明させんなオッサン。@sangituyama”

たしかに行き過ぎもあるのかもしれない、だがこうも言っておこう。

《Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.》--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだって、それがどうしたというんだい? 
もう一度やって、もう一度ダメになればいいじゃねえか。
以前よりマシだったら、それでいいさ(ベケット)


そもそも野間易通氏は次ぎのようにも言っている(@cracjpnの内部は野間氏である)。

C.R.A.C.@cracjpn 2014.12.31
社会学者やヘサヨと呼ばれる頭の悪い人文系院生たちと論争していると、「理論より行動だ」とカウンターが主張していると誤解する人が多いのですが、実際にはアカデミシャンはカウンターの人たちに「おまえの理論は間違っている」と批判されているのです。理論vs行動ではなく理論vs理論です。

ここまで言われて社会学者がダンマリを決め込んでいるのは、あまりにも情けないではないか。

野間易通@kdxn 2014.11.29
ほんと、社会学者はまじめに考えなおしたほうがいいよ。アカデミアに閉じこもって、趣味の同好会じゃないんだからさ。一応、日本の未来に責任を負ってるんじゃないですか?

もっとも、わたくしも一面的に、すなわちあまりにも野間易通サイドに寄りかかりすぎているのかもしれない。

だが加藤周一が四十年以上前、その自伝『羊の歌』で書いたような、ーー《しかじかの理くつにもとづいて、はるかに遠い国の子供たちを気にしなければならぬということではない。彼らが気になるという事実がまずあって、私はその事実から出発する》ーーこれ同じような態度を取っている、すなわち、レイシズムの餌食になっている人たちやネオナチの振舞いがどうしても気になって仕方がないという事実から出発している人間と、そうでない人間ーーたんなる研究対象としている人たちーーの相違というのは大きい。

@gonoi: あれら先生方の言動で不思議なのは、カウンターの一挙手一投足にはダメ出しをしてくるのに、なぜかレイシストには直接対決しにいかないところ。あれでは避けているという印象を与えるし、何よりも説得力がない。RT @cracjpn なめてかかってんだろうね。学会ごと派手に批判してあげます。

ーーこのように書いているわたくし自身、海外からの傍観者にすぎないということは自覚的ではある。わたくし自身、この阿呆、死ね!と言われないかどうかを怖れつつ書いている。ーーだが、言われたっていいじゃないか、《以前よりマシだったら、それでいいさ》(ベケット)

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的にdogmatically 」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

次のような態度だけは取るまいとは念じている。

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)

やはりネトウヨには、「死ね!」というべきではないか。《とるべき戦略はあのような言い方ができないようにすること》ではないか。そしてネトウヨの繁殖に貢献するような「インテリ」諸子の言説に対しても、徹底抗戦すべきではないか。

たとえば次ぎのような発言をもっともらしく言い放つインテリくんーー彼はたぶん「社会学」者予備軍のつもりなのだろうが、ある意味でマイノリティに属する人間でもあるので、ここではアカウント名を伏せておくがーーを放っておいてよいものだろうか(もちろん彼だけではない、たまたま以前にツイッター上でフォローしていた人物なのでここでその一例として掲げる)。

いじめや差別にも言えることだが――集団的暴力については、メタなスローガンや「思い込み」はどうでもいい。左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている。それは(いわば)唯物論的に検証すべきことで、彼らの自意識はどうでもいい。
差別の再生産装置として、左翼・リベラルの言説こそが、ひどい機能を果たしている。たったこれだけのことすら、まったく論じられていません。

これは、《闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。》(浅田彰『憂国呆談』)とどう異なるのだろう。そもそも《左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている》だって? そしてこの己れの主張は絶対的に「正しい」と思い込んでいる口調がある。かつまた《(いわば)唯物論的に検証すべき》などという戯言を……。


だがこれ以上の批判は慎んでおこう。ただ野間易通の「正義」をめぐるツイートをここではひとつだけ抜き出そう。

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

人はこれに反論できるだろうか。もっとも街頭での《集団いじめへの「選択的非注意」》に浸りきっている連中までを批判するつもりはない。勇気と卑怯は紙一重なのだから。

…………

ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を、致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。それはそこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。人種差別的態度が、イデオロギー的・政治的言説の主流に許容されるような姿をとったとしたら、それは全体としてのイデオロギー的指導権争いの釣り合いを根底から変動させるだろう。 (……)

 今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。「アウシュヴィッツで実際に何人が死んだのか」とか「奴隷制のいい面」は何かとか「労働者の集団としての権利を削減する必要性」といったことは論じるべきでないことを強調しておこう。その立場は、ここでは非常にあっけらかんと「教条的」であり「テロリズム的」である。 スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』松浦俊輔訳 p.49-50)

さて、ここまで社会規範の座標軸を変容させる言動の実践者として野間易通氏をいささか過剰に顕揚したが、彼自身はこう言っていることを付け加えておく。

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です!

だが、野間易通氏は気づかずに、あるいは「無意識的」に、ニーチェの能動的ニヒリズムのような姿勢、すなわち動脈硬化に陥っている既成秩序の座標軸をーー破壊とはいうまいーー、ずらそうとする、社会的現実への介入実践者の「役割」をとりつつある、とわたくしは「斜めから」憶測する。またそれがーー当人が気づいていないのがーー逆に尊いとさえ言い得る。だがこれも過信であるのかもしれない、にもかかわらず敢えてこう書いておこう。

…………

最後に、フロイトとジジェクを交互に並べておこう。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より私意訳
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』) 
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)


もちろんジジェクは、ラカンがフロイトの『集団心理学と自我の分析』を「ヒトラー大躍進への序文」と評したことを忘れているわけではない。

…………

ところで、社会学者やら政治学者やら、あるいはその卵やらがツイッター上でやっているのは、似非能動性の一種ではないか、《人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する》。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P54)。

もっともツイッターという装置は、誰もがこの罠に嵌りがちであり、そこでは、受動性のなかに引き篭もること、前のめりにならないことは、とても困難ではあるだろう。

われわれに求められるのは、前のめりにならないこと、つまり、このじかに目に飛び込んでくる「主観的」暴力、誰によってなされたかが明確にわかる暴力に目を奪われないことである。われわれに必要なのは、そうした暴力の噴出の背景、その概略をとらえることなのだ。ジジェク(『暴力――6つの斜めからの省察』)

…………

※追記(2015.01.09)

野間易通氏の大きな「弱味」は、経済音痴だということだろう。あるいは「経験」論者でありすぎることか(社会学者はそこをついたらよいのになぜしないのかーー、すなわち彼らもともに経済音痴だからである)。もし経済にすこしでも関心があり、かつ長期的な視野があれば、無闇に「消費税」反対(たとえば共産党支持)などということはありえないはずだ。彼が「政治的」に大きく羽搏くことがありうるなら、その意味ですぐれたブレーンが必要ではある。以下のツイートを本日読んだので、ここに附記しておく。

‏@kdxn
経済の話と日本史の話が始まると、貝のように口を閉ざす。

‏@kdxn
知ったかぶりするネタすら持っていない。

参考: