バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012私訳)
要するにジジェクの考えは「正義」ではなく別のシニフィアンが必要だということ。だが誰もそれを提案できていない。
とすれば当面、この主人のシニフィアンを使わざるをえない立場の人たちがいるのは分かる。だがそれでは「正義」というシニフィアンに嫌悪を抱く数多の人たちの抵抗や嘲弄を免れることはできない。もちろんどんな主人のシニフィアンでも抵抗や嘲弄はあるが、「正義」というシニフィアンは手垢にまみれてすぎている。「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)が必要なのだ。
※参照
1、主人のシニフィアンと統整的理念
2、Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)
小泉義之氏が最近再開されたブログで次のように言っているのはこれらの文脈のはず。
仮に既成政党をガラガラポンするにしても、そのためには、既成政党を少しばかり越え出 る大義が必要である。外部注入が必要である。超越的シニフィアン、空白の玉座、空虚な シニフィアンが必須である。累進課税やデフレ脱却や公務員拡大や大学保護や反極右 などといったものが、そのポジションを占めるはずがない(残念なことに、と言い添えてもよ い)。ちなみに、現在の主流派は、日本・ジャパン・グローバル・国際・経済成長などといっ たものをそのポジションに据えて、(ラクラウ的な意味での)ポピュリズム的な勝利を続けて いる。これに対し、平和・反戦・戦後・敗戦後(?)・反(脱)原発・復興などは、一定の運動を 統合するシニフィアンにはなりえても、特定の政党に票を掻き集めるシニフィアンにはなり えない。福祉・医療・教育がそうはなりえないのと同じことである。要するに、選挙となれば どの政党でもそれらを言い募り、大差のない似たことしか言わなくなるからである(ここに社 会派の苛立ちがある)。この事態を断ち切るには、既存のものに対して、上から/外からの 新たな介入が不可欠である。その点で、一部には君主(制)の旗を掲げようとする向きもあ るが、君主自身が他を道連れにして身を廃する構えをとるのでなければ、成功するはずも なかろう。要するに、手詰まりなのである。そして、それは喜ばしい報せである。ゼロベース でやり直すしかないからだ。(現時の閑話休題)
ーー用語遣いにわたくしはやや抵抗はあるが。ラカン派や柄谷行人の文脈では超越的シニフィアンではなく、超越論的シニフィアンにしなければならない(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。また「大義=構成的理念」は「統整的理念」にしなければならない(参照)。
だが細部に拘らなければ言いたいことはよくわかる。いずれにしろわれわれは新しい「言葉」を探さなくてはならない。
さてジジェクが「正義」というシニフィアンに抵抗をしめすのは、次の文脈だろう("正義"という「主人のシニフィアン」(バディウ=ジジェク))。
彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。(ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」ーー「正義とは不快の打破である」)
プラトンの『国家』における「正義」はこれだけではない、という見解もあるだろうが、やはり『国家』における対話を読めば、ほぼこういう「正義」概念である、とすることができる。
たとえば『国家』には、上の「正義」概念以上に驚くべきエリート偏重の主張がなされている。
「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」
(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)
「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」
(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」
――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369
…………
※附記
〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、知のネットワークーーこの判読可能性を、定義によって支えるーーを分節化するわけだが、その言説は、当初の主人の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。 その言説は、当初の〈主人〉の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳)
もちろんジジェクはここでランボーのA une raisonに触れている(ラカンの『アンコール』に引用がある)、《Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.(君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる)》。
S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)
《ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。》(マルクス『資本論』)
ーーもちろんS1とS2はわたくしがつけ加えている。
(1)《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必らずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。
(2) 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両-一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両-一義的 bi-univocal」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。
(3)「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって代表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示するsignifiesことはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』、2007、私訳)
一見、〈私〉というシニフィアンをめぐってLorenzoの叙述(黒字強調箇所)と上の二人の叙述は齟齬があるようにみえるかもしれないが、これは異なった側面からの(シニフィアン、あるいはシニフィエからの)同じ指摘である。
……the signifier “I” which gives us the illusion of an identity of our own.(Paul Verhaeghe,FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES,1998)
the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)
これらは、フロイトの《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》をめぐっていると言ってよい(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。