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2015年9月22日火曜日

母猿に舐められつづけた小猿の流儀

佐々木敦@sasakiatsushi
起業家みたいな人たちが妙に現政権寄りで、またそのことを隠そうともしてないのは、アベノミなんたらのせい以前に、彼らが定められたルールの中での勝ち負けで生きており、ルール自体の書き換え可能性には思いも寄らない、というかそれには反対であるということが多分に関係してるのじゃないかと思う。

ーーというのは、学者、講壇批評家もあまりかわりがないよ(参照:「リベラル学者という道化師たち」)。

そもそも研究者たちの「科研費」取得システムとは、《定められたルールの中での勝ち負けで生き》る新自由主義システムの侍僕に飼い馴らす仕組みさ。

生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション、勝ち組と負け組ーーこれらはすべて経済のディスクールだからな、(参照:Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf)

科研費獲得とは、この新自由主義の標語に精を出すことではないか。

ーーいやいやそんなことはない、どうやらリッパなシステムらしい・・・(科研費による研究者養成」福田秀樹 神戸大学・学長)。

とはいえ二十代のときにまともなことを書いていたようにみえるのに、博士論文後しだいに凋んでいくヤツが多いのは、アレはナンダロウ・・・

フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」(ナンシー・フレイザー)のと似たようなもんじゃないかい?

あれは《ルール自体の書き換え可能性には思いも寄らない》、システムという母熊に舐められつづけているのが研究者の姿ではないかね?

サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う。彼は人間の非社会化を祝い、母熊に舐められた〔躾けられた〕部分を徐々に捨てることを教える。(『詩におけるルネ・シャール』ポール ヴェーヌ, Paul Veyne, 西永 良成訳)

いずれにせよ、次の通り。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

“Sie wissen das nicht, aber sie tun es” 、「彼らはそれを知らないが、そうする」のだ。

さてもうすこし蓮實重彦の「話芸」を貼り付けておこう。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)

佐々木敦氏もどちらかというと《どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口に》するタイプなんじゃないか、オレは読んだことはないがね、ツイートを眺めるかぎりではの印象さ。いまだ「青春」をやっているわけでもないだろうが。

知識も基礎学力もない人たちが、こうまで簡単に批評家になれるとはどういうことですかね。最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。要するに芸がなくてもやっていけるわけで、こういう人たちが変な自信をまでもっちゃった。(『闘争のエチカ』蓮實重彦)

ーーシツレイ! これはどこかの馬の骨の憶測にすぎないよ・・・

……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」より)

…………

制度に抗うには、 少なくとも抵抗すべき対象を見据えうる程よく聡明な視線がそなわっていなければならぬ。 その意味で、 あらゆる反抗者は、いくぶんか制度的な存在たらざるをえないだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
誰もが、 いかにも今世紀にふさわしい流行だねとささやきあいながら流行をまぬかれたつもりでいるが、 まさにそう口にすることそのものが流行になっているということには気づいていないのである。(同『凡庸な芸術家の肖像』)

誰もが、いかにも《ルールの中での勝ち負けで生きている》ヤツラばかりだねとつぶやきながら、己はそれからまぬかれたつもりでいるが、まさにそう口にするヤツが制度的な存在であることには気づいていないのである。

ーーオレかい? オレも気づいていないんだよな、どこかの馬の骨と記したばかりじゃないか? 凡庸な似非インテリの肖像を自ら描いているだけだよ、〈あなたたち〉のためにな

というかそもそもツイッター言説、ブログ言説の限界でもあるさ

自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)