ーー個人的には、現状、わたくしのやや政治的に偏ったサントーム理解(最晩年のラカン理論)の決定版(臨床的には、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」やそこにリンクされてる先を見よ)。
※より基本的なサントーム理解としては、「ラカン派の二種類のサントーム・症状」にいくらかのまとめがある。
【Lorenzo Chiesaによるミレールのサントーム吟味】
◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007より
結びとして、私は、サントームにかんする二つの示唆に富む問いにコメントしたい。第一にHoensとPluthの 『The sinthome: A New Way of Writing an Old Problem』によるもの、次にミレールのセミネール『The Six Paradigms of Jouissance』に見出されるものである。どちらの場合も、筆者は慎重に、彼らの問いを放ったままにしている。それはおそらく、我々はラカンの仕事において結論づけられていないままのものに直面していることを示している。そしてフロイトの精神分析のラカン自身による再生のさらなる再生を駆り立てるものだ。
HoensとPluthから始めよう。彼ら問う、「どんな観点から、父の名はサントームと同じものだと見なすことができるだろうか?」と。我々がセミネールVIIを分析するときに既に見てきたように、1950年代後半のラカンにとって、「父の名Nom-du-Père」は、排他的に、禁止の「父の否Non!-du-Père」であることを止める。
事実、神経症の標準的な状況では、父の名は、それが機能しなければ引き起こす破壊的な享楽を、症状を通して統整するin the standard situation of neurosis, it also allows the regulation of an otherwise destructive jouissance through the symptom。その「否」を、我々は(イデオロギー的に仮装して)享楽する。そこで享楽するのは象徴界に穴を開ける欠如である。ラカンがジョイスについての後期のセミネールにて、さらに示唆しているようにみえることは、「引き金をひかれていないnon-triggered」精神病の場合では、この同じ統整ーーそれは主体を社会的領野に住むことを可能にするものだがーーが、究極的にサントーム自体によって実現されうることだ。
言い換えれば、〈他者〉の斜線化ーー構造的欠如の出現ーーに従った「父の名」の相対化は、究極的に二つの補足的な結果を伴う。それが症状にかかわる限りで、だが。
一方で、父の名はそれが事実上コンピタンスcompetenceの外部に横たわった場を占める限りーーというのは、欠如は現実界の領野に属するのだからーー、父の名はそれ自体、症状として捉えられる(故に、ラカンはセミネールXXIIIにて、「エディプスコンプレックスはそれ自体、症状である」と言っている)。
他方、「享楽を方向づけ組織しようとするものは何もかも」制御行動を行う。それはふつうは「標準的な」父の名によって成し遂げられるものだが、父の名が正しく機能しないなら、なにか他のものが必要だ。
ジョイスの父の隠喩には欠陥があった。すなわちそれは作者によって補わなければならない。このように「ジョイスJoyce」という名は、文字通り〈他者〉における欠如の独自のプレイスホルダplaceholderを具現化している。そしてエクリチュールの独特の仕方によって、父の隠喩の欠如を補足するのだ。
ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。
ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。
私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。
私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。
しかしながら、ミレールの問いはひどく興味深いままであると私は信じている、もし人が次のようにその問いを再構成したら、である。すなわち、根本的幻想を横断した後ーーその横断とは、症状の非イデオロギー的ノウハウにとって必要不可欠な前提であるーー、主体は新しい根本的幻想を作るのだろうか? と。言い換えれば、サントームによって齎された欲望することの新しい方法は、根本的幻想(その新しい必要不可欠に反復する運動)を含むのだろうか、それとも除くのだろうか、と。
私の見解では、もしサントームが(根源的に新しい)根本的幻想の形成物を除くならば、そのとき、ラカン自身の仕事、その基礎における正確な地位を明瞭化をすることが、ひどく困難になるだろうということだ。この場合、いかにサントームを定義するのか、象徴界と現実界ーー後者に傾くものとしてーーのあいだの関係の(非精神病的な)ひっくり返し以上のなにかもっと正確なものとして定義しえないのではないかと思う。それは、すなわち、「逆転させた」昇華、あるいはミレール曰く、「まさにリアルなままである象徴界」である。
さらにまた、この新しい種類の象徴的同一化の政治的含意について何を言うべきだろうか? 率直に言うなら、現存する支配的な主人のシニフィアンとの妥協から離れてーージョイスはたしかに彼が書くようには話さなかった…ーー、いかにサントームは互いにコミュニケーションするのか、もし、個人による現実界の名づけのレヴェルで、共通の幻想的背景がないのなら。
言語の全きサントーム的な存在による仮説上の社会ーー言語のファルス的存在に対してーー、この社会は避けがたく象徴界の断片化が起き、多数の象徴界に分裂し、究極的には全き終焉に向かうのではないか?
他方、もしサントームが新しい根本的幻想の形成を含んでいるのなら、そしてミレールが言ったように「反復の新しい作法」が真の原初的な根本的幻想ーー根源的に革新的である主人のシニフィアンの不可避の対応物ーーの顕現に相当するのなら、そのとき、人は、「無を享楽するjouis-sans」というラカンの倫理の遺産を正当にも相続し得る政治のアウトラインを明瞭に理解するだろう。
精神分析のコミュニティそれ自体は、政治的アバンギャルドではない。ラカンの精神分析は特定の主人のシニフィアンを奨励しはしない。しかしながら、精神分析がはっきりと意図していることは、その倫理に適合した新しい主人のシニフィアンのための道を歩むことである。
さてここで、結論をいう前に、いくつかの重要な点を振りかえってみよう。象徴構造が普遍的であるのは、特定の偶発的主人のシニフィアンーー根本的幻想を支配する主人のシニフィアンを通してのみである。その限りで、主体の遭遇、イデオロギー化された根本的幻想の底にあるリアルな欠如との主体の遭遇は、普遍性における欠如を想定することを主体に余儀なくさせる。
逆に、欠如の再象徴化は、定義上、つねに個別性のレヴェルで成し遂げられる。より正確に言うなら、これは主体が、もし普遍性があるのなら個別性が必要だと悟る特別な瞬間以外の何ものでもないーーその限りで、個別性は個人性に変わる。この決定的な段階で、主体のとる道は二つある。
(1) 彼自身の名になること。彼自身のサントームを開発すること。それは支配的な〈他者〉と共存しつつ、である。この解決法は、避けがたく、支配的な世界の無分別senselessnessとのある妥協を意味する。普遍性は個人に依拠するという認識の漸進的な縮小を意味する。そのような再疎外は、精神分析的治療を通した、新しい根本的幻想の横断を定期的に経ることによってのみ取り除かれうる。
しかし人はすぐに悟るだろう、これは、倫理と政治のすっきりした分離を自動的には意味しないことを。実際、ラカン派の精神分析治療を経て、倫理的に象徴秩序の非一貫性・無を享楽することjouis-sansを当然のことと決めてかかる人びとの増加は、必然的に政治的勢力ーー欠如を覆い隠すことを元々は目的としていない勢力の成功の機会を増やすだろう。
(2)運動を名づけること。新しい象徴界を奨励することーーそれは個人の主人のシニフィアン/サントームを通して再象徴化されたものであるーー。そしてヘゲモニーを確立するために政治的な闘争をすること。
これは明らかに上の(1)を前提としている。例えば、マルキシズムは、マルクスが最初にジョイスの様式で、彼自身の名を作ったことを前提としている。言うまでもなく、そのような享楽の直接的政治化は、そこで設立される根本的幻想が根源的に新しい場合にのみ、ラカン派の精神分析と一致する。
言い換えれば、主人のシニフィアンが革新的で、結果として闘うに値するのは、唯一、象徴界におけるリアルな欠如、無を享楽するjouis-sansことの一時的な想定に従ってのみである。今ここでのみ導き入れた錯綜した問題の過-単純化の危険を冒して、私は敢えてこう提案しよう、無からex nihiloの過激な倫理のどんな可能なる政治的エラボレーションも、「何が新しいか」そして「何が善か」のあいだの方程式に依拠すべきだ、と。
【主人のシニフィアンとは?】
以下、ジジェクは〈主人のシニフィアン〉の否定的側面も含めて叙述している。だが、上のLorenzo Chiesaはその肯定的側面の強調である(より基本的な定義は、「「主人のシニフィアンと統整的理念」を見よ)。
〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、この判読可能性を、定義によって支える知のネットワークを詳述するわけだが、その言説は、当初の〈主人〉の仕草を前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。
ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、「Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。」すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)
バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーcorporatist anti‐egalitarian mottoではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの補足的な説明が必要となる。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012ーー「神の二度めの死」=「マルクスの死」)
…………
【ジジェクによる二つのミレール(政治的)批判】
◆LESS THAN NOTHING(2012)より
1、CHAPTER 9 Suture and Pure Differenceより
2、Conclusion: The Political Suspension of the Ethical
ーーというわけで「新しいコミュニズム」という主人のシニフィアンがいやなら(参照:ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち)、われわれは別のシニフィアンを探さなければならない。もちろん、たとえば柄谷行人=カントの「世界共和国」もその試みだったが、十分に機能するところまではいっていない。
主人のシニフィアン? それがいかにもラカン派的すぎるなら、「言葉を探せ!」ということだ、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるような言葉を。
…………
ラカンはEncore pp.20-21 で次ぎの詩に言及している。
À une Raison Rimbaud
※参照:ある理性に:イリュミナション
◆LESS THAN NOTHING(2012)より
1、CHAPTER 9 Suture and Pure Differenceより
ミレールにとって(彼はここでラカンに従っている)、不安は、我々を騙すことのない唯一の情動である(フロイトがすでに言ったように)。この意味は、〈大義〉のためのどの(政治的)熱狂も、想像的な誤認の要素だということだ。ミレールは、この最近の数年、ことさら主張しているのだが、政治は、想像的あるいは象徴的同一化の領野であり、それ自体イリュージョンだと。
このような立場は、必然的に、ある種の冷笑的悲観主義に終わる…。すなわち全ての集団的熱狂のアンガーシュマンは屑に終わる。真理は、悲壮な誠意の自己盲目的行動において、瞬時のあいだのみ経験されるだけである……。
こういった瞬間は永遠に維持できはしない。だから我々に出来る唯一のことは、「(社会的)ゲームをする」ことだけだ、と。政治的行動は、究極的にイリュージョンの単なる遊戯でしかないと気づきつつ。
バディウは、我々を、この高尚化された悲壮な冷笑主義から抜け出すことを可能にしてくれる。すなわち、熱狂は、不安よりも、すこしも「真正」でないわけではない、と。集団的な政治のアンガーシュマンは、その事実だけで、想像的誤認であるわけではない。
この相違は、今日、全く決定的である。政治的な死と生の相違であり、支配的なポスト政治的な冷笑主義への是認と、ラディカルな解放運動のための勇気の集結のあいだの相違である。
2、Conclusion: The Political Suspension of the Ethical
分析過程の最後の瞬間の新しい概念に依拠して、ミレールは「道具的理性(目的合理性)批判critique of instrumental reason」の単純化されたヴァージョンを展開する。そこではデモクラシーの文化とレイシズムのあいだの繋がりが打ち立てられる。
すなわち、我々の時代は、普遍的な科学的理性を特権化する。その理性とは、数学的に定量化された言明のみを認める。その言明の真の価値は、特異な主体の立場に依存することはない。この意味で、普遍性と平等主義-民主主義的な熱意は、科学的言説のヘゲモニーの結果である。しかし、もし我々が科学的理性の有効性を社会的領野に拡大するなら、その結果はあやういものである。普遍化への熱意は、我々をなによりも優れたものとしての享楽の普遍的モードの探求へと向かわせる。それに反抗する者たちは「野蛮人」として不適格者の烙印をおされる。
《このようにして、科学の進歩のせいで、レイシズムは明るい未来をもっている。科学によって提供される差別discriminationsが洗練されればされるほど、我々は社会における分離segregationを獲得する》(Nicolas Fleury, Le réel insensé: Introduction à la pensée de Jacques‐Alain Miller)
この理由で、精神分析は現在、攻撃にさらされている。精神分析は各個人における享楽のモードの独自性に焦点を当てる。その独自性とは、科学的普遍化に抵抗し、かつ民主主義的平等主義にも同様に抵抗する。
《民主主義による平準化はとてもすばらしい。だがそれは例外のエロティシズムの代替とはならない》(Jacques‐Alain Miller, “La psychanalyse, la cité, les communautés,” La cause freudienne 68 (February 2008))。
人は認めなければならない、ミレールが大胆不敵にも、主体における享楽のモードの特異性へのこの固執の政治的含意を明らかにしていることを。すなわち精神分析が《暴露するのは、社会的理念は、見せかけsemblancesの性質のなかにしかないということだ。そして我々はつけ加えることができる、それは享楽の現実界であるところの現実にかかわる見せかけ(サンブラン)だと。これはシニカルな立場である。というのは、享楽のみが唯一真実なものであると言っていることになるのだから》(同ジャック=アラン・ミレール)。
これが意味することは、精神分析家はイロニストの立場を占めることだ。政治的領野への介入には関知しないと。精神分析家は見せかけが彼らの場に残ったままで行動する。他方、彼の世話のもとにある主体が、見せかけを現実なものとしては取らないように気をつける…。人はともかくも見せかけに囚われた(騙された)ままでいるべきだ、と。
ラカンは言った、《騙されない者は間違える》と。すなわち、もし人が、見せかけがあたかも現実的なものであるかのごとく振舞わなければ、かつまた、もし人が、その見せかけの有効性に煩されないままなら、事態はさらに悪化するということだ。すべての権力の記号はたんなる見せかけであり、主人の言説の気まぐれに依拠していると考える者は、ぐれた連中bad boysだ。彼らはいっそう疎外される(Fleury, Le réel insensé)。
そのとき、政治に関して、精神分析家は《なんの提案もしない。彼はそれをし得ない。ただ他者の提案をあざ笑うことのみ可能だ。それは精神分析家の見解の視野を限定する。イロニストはなんの偉大な企図ももたない。彼は他者が最初に話すのを待っている。そして可能なかぎりすばやく他者の落度を指摘する…。言わせてもらえば、これが政治的英知だ、それ以上のものはない》(Miller, “La psychanalyse, la cité, les communautés)
この英知の金言はかくの如し。
人は権力の見せかけを保護すべきだ、人が享楽しつづけることが可能でなければならないというもっともな理由のために。要点は、既存の権力の見せかけにへばりつくことではない。そうではなく、見せかけを必要不可欠なものとすることだ。《これは冷笑主義を定義する。ボルテールの様式のシニシズムである。彼は、神は我々の発明、人びとを礼義正しく保つために必要不可欠な発明であると理解していた》。社会はただ見せかけによってのみ束ねられる。《その意味は、抑圧のない社会はない。同一化のない社会、そしてとりわけ慣例のない社会はない。慣例は本質的である》(Fleury, Le réel insensé, (quotations from Miller))。
こういうわけで、結果は冷笑主義的リベラル保守主義である。すなわち、安定性を保つために、人は、つねに気まぐれかつ権威主義的な選択で確立された慣例を尊重しそれに従わなければならない。《持続するどんな革新主義もない》、むしろ個別の快楽主義、《享楽の自由主義》と呼ばれるたぐいしかない。人は、慣習の規範、その法と伝統を損なわないようにしなければならない。人は受け入れなければならない、ある種の蒙昧主義は、社会秩序を維持するために必要不可欠なことを。《人が問うべきはない問題がある。もしあなたが社会の亀をひっくり返して背中を下にしたら、あなたはふたたびもとに戻って社会をかぎ爪で引っ掻くことに決して成功しないだろう》(Fleury, Le réel insensé, (quotations from Miller))。
ミレールのシニカル快楽主義者の考え方、主体は象徴的見せかけsemblances(理想、主人のシニフィアン、ーーそれなしでは、どんな社会もばらばらになってしまう)の必要性を認めつつ、それから距離を取り、それらは単に見せかけに過ぎないこと、そして唯一の現実界は身体の享楽であるに気づくという考え方に対抗して、我々は強調すべきだ、《自ら享楽し、他者が享楽するに任せる》という姿勢は、正当的な個人の特異性の領野を開く新しいコミュニスト秩序のみにおいて可能だと。《不適任者、変わり者のユートピア、そこでは、均一化の体制への順応の束縛が取り除かれ、人間は自然な状態の植物のように野生的に成長する…もはや新しい抑圧の社会によって足枷を嵌められることなく、彼らは、神経症に、強迫症に、妄想症に、パラノイアや分裂病に咲き乱れる。我々の社会は彼らを病気と見なすかも知れないが、真の自由の世界として、「人間性」自体の動植物の繁茂を取り戻す》Fredric Jameson, The Seeds of Time, 1994)。
ーーというわけで「新しいコミュニズム」という主人のシニフィアンがいやなら(参照:ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち)、われわれは別のシニフィアンを探さなければならない。もちろん、たとえば柄谷行人=カントの「世界共和国」もその試みだったが、十分に機能するところまではいっていない。
主人のシニフィアン? それがいかにもラカン派的すぎるなら、「言葉を探せ!」ということだ、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるような言葉を。
…………
ラカンはEncore pp.20-21 で次ぎの詩に言及している。
À une Raison Rimbaud
Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.
Un pas de toi, c'est la levée des nouveaux hommes et leur en-marche.
Ta tête se détourne : le nouvel amour !
Ta tête se retourne, - le nouvel amour !
"Change nos lots, crible les fléaux, à commencer par le temps" te chantent ces enfants. "Elève n'importe où la subtance de nos fortunes et de nos voeux" on t'en prie.
Arrivée de toujours, qui t'en iras partout.
※参照:ある理性に:イリュミナション