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2015年11月15日日曜日

「一にして全」による 「イスラム国」攻撃の激化?

フランスも米国も、今回のパリのテロを受けて、さらにIS攻撃を激化させることになろう。しかし、オランド大統領には9月下旬からIS対応として、IS空爆に参加しながら、その実、最悪のテロが国内で起こったことの責任が問われるべきだろう。国内の怒りを中東のISに向けるだけでは、国内のイスラム教徒の若者が過激化することへの対応が、さらに遅れることになりかねない。(IS空爆どころではないパリ襲撃事件の脅威、川上泰徳

ここで、今から記そうと思う文脈からはずれた見解をなぜか唐突に想起したので、先に挿差しておく。

ジジェクはフランスについて、《わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている》、そしてそれが「最悪の国」を生みだしたーー The French are much worse than either the Germans or the British ーーという意味合いのことを言っている。(『ジジェク自身によるジジェク』)。

…………

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

辺見庸はそのブログ「私事片々」で、《いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる》としている。もちろんこれは今年の 8・30のデモのありようを想起しつつ書かれているにちがいない。

あるいはこうもある。

わたしに言わせれば、たとえば、遵法的服従はしばしば犯罪よりもよりいっそう犯罪的な〈暴力〉となりうる。それはミルグラムが『服従の心理』(山形浩生訳)の第1章「服従のジレンマ」で引用しているC.P.スノーのことば「人類の長く陰気な歴史を考えたとき、反逆の名のもとに行われた忌まわしい犯罪よりも、服従の名のもとに行われた忌まわしい犯罪のほうが多いことがわかるだろう」にもかかわる。服従という非〈暴力〉は、無関心という非〈暴力〉とともに、反逆的〈暴力〉よりもはるかに暴力的で犯罪的である……とわたしは年来おもっている。

この考え方にかかわる思いは、「構造的な類似(ネトウヨ/カウンター)」で記した。

さて、ここで浅田彰の『シャルリー・エブド』 事件についてのコメントを参照することにする。

こうした世論を受けたフランス政府の対応を一瞥しておこう。事件をフランスの「9.11」ととらえる向きもあったが、総じて「9.11」後のブッシュのアメリカの対応とは違う方向を目指そうとしたことは、一応認めておいてよい。オランド大統領は「敵はテロリストであってイスラム教徒ではない」と明言し、1月11日に行われた抗議の行進(フランス全土で370万人が参加したと言われる)に欧州各国の首脳に加えイスラム諸国の首脳も招いた(オランド大統領を中心とする列にはパレスチナのアッバス議長とイスラエルのネタニヤフ首相も並んだ)。イスラム圏でもトルコのエルドガン首相などは言論弾圧で悪名高く、他方、イスラエルのネタニヤフ首相にいたってはパレスチナ側のジャーナリストを多数殺害してきたのだから、彼らが言論と表現の自由のために行進するというのは噴飯ものだが、政治ショーというのは元来そうしたものだろう。

しかし、ヴァルス首相が国会での演説で「フランスはテロリズム、ジハード主義、過激イスラム主義との戦争状態にある」と踏み込み(*注)、オランド大統領もIS(「イスラム国」)空爆のためペルシア湾に向けて出港する空母シャルル・ドゴールに乗り込んで「対テロ戦争」に参加する兵士たちを激励する、それによって低迷していた支持率が急上昇する、といったその後の流れを見ていると、ブッシュのアメリカをあれほど批判していたフランスも結局は同じことをしていると言わざるを得ないだろう。

また逆に、行進に左右すべての党派を招きながら極右の国民戦線は排除した、これは結果的に国民戦線の立場を強めることになりかねない。そもそも「他者に開かれた多文化社会」を目指しつつ、実際は移民をフランス人の嫌がる仕事のための安価な労働力として使い、「郊外」という名のゲットーに隔離してきたわけで、そういう移民の若者の鬱屈をイスラム原理主義が吸収したあげく今回のようなテロが起きたと考えられる。国民戦線はそういう多文化主義の偽善を右翼の側から批判して大衆の支持を集めてきたのだ(とくに、古臭い極右だったジャン=マリー・ル・ペンに対し、後継者である娘のマリーヌは移民問題などをめぐって大衆の生活感情をとらえるのがうまく、今回は事件後ただちに『ニューヨーク・タイムズ』に寄稿するといったしたたかな国際感覚も見せている)。「多文化主義の建前を奉ずる偽善的言説のアゴラから排除された国民戦線こそが、そのようなアゴラの外の現実的矛盾を直視し解決しようとしているのだ」という主張にいっそうの説得力を与えてしまったとすれば、国民戦線の排除は賢明だったとは言い難いのではないか。

いずれにせよ、テロ後のフランスは、「9.11」後のアメリカほどではないにせよ、やはり大きく右傾化したと見るべきだろうし、「9.11」で始まった世界的な流れを再び加速することになったと言うべきだろう。移民問題に集約されるグローバル資本主義の矛盾の激発が、「文明の衝突」の焦点としての「宗教戦争」というイデオロギー的な表象に回収されてしまい、ユダヤ=キリスト教の側でもイスラム教の側でも宗教的情熱が火に油を注ぐ結果となっている——もともと、移民の若者たちも、彼らをリクルートしたと言われるISなどのイスラム原理主義組織も、本来のイスラム教主流とはほとんど無関係であるにもかかわらず。21世紀はいまだ「9.11」の呪縛から抜ける道を見いだせずにいるかに見える。

『シャルリー・エブド』後の抗議の行進において、マリー・ル・ペンひきいる極右の国民政党を排除したとある。このときの浅田彰の論調は、《国民戦線の排除は賢明だったとは言い難い》とあるように、その排除は、結果的にいっそうの右傾化を促すという見方だ。

さて、今回は逆にマリー・ル・ペンを排除したあのフランスの指導者たちや「良心層」の心性が、無謀な行動化を抑制する動きとして現われるという「僥倖」をもたらさないか? そんなことを期待するのは馬鹿げているのだろうか。

フランスではマリー・ル・ペンに投票したのはとりわけかつての社会主義者たちです。労働者階級は言うわけです。「オーケー、あいつらは我々にではなく、移民のことにしか興味が無いんだな」と。(中道体制の崩壊(シャンタル・ムフのインタビュー)

ーーどうだろう、《行動というものには「一にして全」という性格がある》のであり、《今回のパリのテロを受けて、さらにIS攻撃を激化させる》のならば、彼らは「マリー(ヌ)・ル・ペン」と合体することになる。それに恥じ入るという意識を抱かないものだろうか。

(マリーヌの父ジャン=マリー・ル・ペンは、アルジェリアで解放戦線に対する拷問のプロだった。その彼が、フランス本国で国民戦線のリーダーになり、イスラムの移民がわれわれフランス人から職を奪っていると言って、ナショナリズムを煽りつづけた。)





それとも選挙での投票の影響を考え、これ以上「労働者階級」の支持を失いたくないという「一にして全」志向のメカニズムがやはり働くのだろうか。

浅田彰から再掲すれば次の文である。

ヴァルス首相が国会での演説で「フランスはテロリズム、ジハード主義、過激イスラム主義との戦争状態にある」と踏み込み(*注)、オランド大統領もIS(「イスラム国」)空爆のためペルシア湾に向けて出港する空母シャルル・ドゴールに乗り込んで「対テロ戦争」に参加する兵士たちを激励する、それによって低迷していた支持率が急上昇する、といったその後の流れを見ていると、ブッシュのアメリカをあれほど批判していたフランスも結局は同じことをしていると言わざるを得ないだろう。


以下、中井久夫の「行動化」あるいは「暴力」論であるが、読みやすさのためにいくらか行分けした。

ここでは、《行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。》を中心にして、わたくしは読むことにする。

行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。

時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。

さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。

時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。

行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。

もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。

暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。

また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp.311-313)

…………

ちなみに、ラカンは「一にして全」をめぐって考え続けた思想家だった。

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわちイマジネールな「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)とシンボリックな「一」(還元的な、「一の徴 le trait unaire」にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、リアルの「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、リアルの「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、2012,私訳ーーréel/réalitéの混淆

そして現在 IS( Islamic State:イスラム国))は、「〈一〉のシニフィアン」( l'Un-signifiant)あるいは主人のシニフィアンとして機能しつつあることはまちがいない。

ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、「Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。」すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012,私訳

2015年10月2日金曜日

テレビ撮影用のデモ

おい、歴史の教科書によればフランス革命は1789年だったな、年を特定するのは困難だとはいえ(1787-1799)

ロシア革命は1917年だ。ーーええっと 1917-1789=128 だ

1917+128=2045年か、計算間違えないだろか、かなり先だな、次ぎの「革命」は。オレはもう生きてそうもないよ・・・

この際、1799年のナポレオンによるクーデター年から計算することにすれば、2035年だな、これはまだ場合によっては遭遇できそうだ

李鵬が1997年に「まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう」と言ったのだが、日本だけに限っていえば「あと30年」とは2027年だな、オリンピック後だし、ちょうど頃合じゃないか。こっちの予測が起こらないかね、まずは日本で。

…………

ところできみらはマジでいまのシステムが続きうると思ってんだろうか、「オレたちは保守だ」などとほざいている社会運動家の諸君よ!

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です! (野間易通)

彼をはじめとするカウンターの連中をアホウドリだとは言わないでおくが、徹底的な経済音痴だね(参照:「この世の不幸のもとは安倍政権だ」)。

社会運動やってて、いまどきエコノミーを外すって手があるんだろうか(参照:イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミー(ネーション、ステート、資本制)の三幅対)。





もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)

われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代”概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)

なぜ彼らは現在のファシズムやレイシズム、戦争法案、あるいはアベノミクスが新自由主義の危機からの脱出のせいかもしれないと一瞬でも想起しないんだろう? 

ファシズム、レイシズム=イデオロギー(ネーション)
戦争法案=ヘゲモニー(国家)
アバノミクス=エコノミー(経済)

ーーじゃないのかい?

真の敵は「新自由主義」だよ、それに気づかないってのは・・・

バカジャナイノカ? いやいやシツレイ! バカじゃなくて、「ユートピアン」なんだろうよ

人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。(ジジェクーーユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

ユートピアン、すなわちそれを寝言派という。

《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である》(二宮尊徳)


…………

・いまさらわざとらしい顔をするなよ。もうあきるほどいいふるされているじゃないか。そして敵は依然として勝ちつづけている、と。未来はいうまでもなくひたすら空虚である。万が一、敵に勝ったとしても、だ。総員おためごかし。(辺見庸 日録 2015/09/17

おい、辺見庸はおまえらにカツいれてんだよ

 確かに、良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとうエルベックの服従」

おまえらそれも分からなくなっちまったのか、そもそも辺見庸の「日録」ってのが、荷風の「断腸亭日乗」のパロディだということさえ分からぬ文学音痴なんだろうよ。

ただし8・30の絵を作ったことには敬意を表するよ、

@kentarotakahash
3万人だろうが、12万人だろうが、35万人だろうが、この絵を作ったことで、もう日本は変わっている。 https://pic.twitter.com/AoS5jP6QrA

《ほぼ官製・完全順法管理無害ハナクソデモ。ジンコウモタカズヘモヒラズのテレビ撮影用のパレード》だって、ないよりはズーッとましさ。

・「見ずして信ずるものは幸いなり」。ジョージもエルナもエレーナも知らない、とってもお寒いやつら。いつかアイコク・ボウエイタイになるアホウども。大韓民国全羅南道高興郡金山面出身のキムイル(김일)氏のことも、かれのつらさも、パチキのすごさも知らない、あまったれのクソッタレ・ニッポンジンども。どこでだれにどういう教育をうけたのかね。おまえたちの、ほぼ官製・完全順法管理無害ハナクソデモ。ジンコウモタカズヘモヒラズのテレビ撮影用のパレード。中平卓馬も安田南も堀内義彦も天国であきれてるぞ。「ふざけるな、ぶんなぐってやる!」。あはは、中平さんはネコパンチだけどもね。オマワリとあらかじめウチアワセしたり、いちゃついたり。おまえら、まったく気色わるいぜ。反吐がでるぜ。まだましなのは、なにもおこなわない(しない、やらない、やらされない、やろうともしない、誘導もされない、すこしの移動もしない、そのようにそそのかされもしない、説得をうけつけない、とくだんの意思もなく、ただそこにあるだけ)で、にもかかわらず、ときに、なにかしずかにきわだっているようにもみえる、ひとつのものだ。それは、存在を、影ごとみずからの内側に、イソギンチャクのようにくぐもらせてゆく(みずからがみずからの内側に埋まってゆく)……それ以外ではまったくありえようもない、ひとつのなにかだ。じぶんをじょじょに内側にたぐりこみ、引きこんでいって、ついに消えてゆくじぶんだ。きのうはエベレストにのぼった。けふはダフネにいったけれど、エベレストにはのぼらなかった。さらばじゃ、クソッタレ!(2015/09/30)

 ーーで今からでも遅くないから「経済」勉強したらどうだい?

きみらは基本的な過ちを犯しているのだよ。

……基本的な過ちを犯 している。ヨーロッパの体制側が依拠する筋書きは、巨大な赤字が金融部門の大規模な債務棚上げや不況期における政府の歳入の低落によって脹れ上がるという事実を曖昧にしている。アテネへの大規模な貸付は、ギリシアのフランスやドイツの巨大銀行に対する 債務支払のために用いられることになるだろう。欧州連合による債務保証の真の目的は、 民間銀行の救済にある。というのも、ユーロ圈の国家の1国でも破綻すれば、ユーロ圏全体が烈しい打撃を被るからである。他方で、抗議する側における筋書きは現代における左派の相も変わらぬ悲惨な状態を証して余りある。既存の福祉国家との妥協を一般的に拒否するにすぎないその要求に、具体的な計画的内容を見出すことはできない。ここに見ら れるユートピアはシステムの根源的な変更ではなく、福祉国家はシステム内部で維持可能だという思いつきである。(マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」

ーーやあすまなかったな、「妄言」を記してしまって。

…………

文句をいってくるヤツがいるのを憂え先に記しておくが、リンク先を読んでからにしてくれよな、文句は。とはいえ、だいたい元じばき隊の諸君やそのシンパは「キャッチーさ」のみがお好みらしいから、長たらしい文献などは読まない・読めないのだろうがね(参照:旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

だからいつまでも経済音痴で通すつもりなんだろ? 寝言派でな。

‏@kdxn野間易通
経済の話と日本史の話が始まると、貝のように口を閉ざす。

知ったかぶりするネタすら持っていない。

ーー「これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい」(野間易通)ぜ、なあ、おい!


だから元しばき隊のおそらく中心メンバーの一人だろう「ばんちょう」氏は次のような厚顔無恥なことをつぶやいてしまう。

9月30日@bcxxx
実際にはあんたらが社会構造の問題だと思ってる物事のほとんどは、特定の政治家や政党や官僚の産み出した政策のせいだよ。

社会構造のせいにし続ける限り、あんたらは本当の敵を見失って、あんたらの寝言を優しく聞いてくれそうな隣の誰かさんのことを殴り続けることになる。

これでは「経済的下部構造」について無知のままでいたいと自白しているようなものではないかね

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。

(……) 資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.35-36)

そもそも日本だけではなく世界が次ぎのごとく高齢化しているなかでどうやっていままでのシステム(社会保障制度をはじめとする制度)を保つってわけだい? 税金(国民負担率)倍増しないともたないに決まってんだろ!








2015年9月18日金曜日

きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち

@OesWords: しかし、いまここに来て見ると、若い人が力強い声を発している。民主主義の基本の力がこのように活発で失われていない以上、自分たち老人がもう希望はないとへたり込んでしまうことはできない。(2015.9.14国会前)大江健三郎

ーーということをおっしゃっているようだが、辺見庸氏のブログが「おひさしぶり」(9月15日)に更新されて大江健三郎にも触れている。前投稿は8月8日であり一カ月以上の空隙がある。体調でも崩されかとシンパイしていたが、おゲンキなようだ。

・おひさしぶりだというのに、あまりにも唐突で恐縮ですが、あの醜いブチハイエナは、ちょっと嗅ぎでもしたらたちまち失神するか、あなたが虚弱体質のばあい、ころりと死にいたるほど、とんでもなくくさい屁をするのだ。食性はいうまでもなく肉食で、ものすごいアゴの力で骨までばりばりと嚼みしだく。並はずれた体力と(無)神経をもち、10数種類の鳴き声をときにおうじて器用に鳴きわける。英名はspotted hyenaだが、ひとをこばかにして「アハハハ…」「へへへへ…」「ヒヒヒヒ…」などとよく笑うことから、 laughing hyenaともよばれる。いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう(ex.inada gas-hyena)。ブチハイエナは雌雄ともいっぱんに無用のけんかをこのまないが、いったんしかけられたら、集団であいてを傷めつくし殺しつくすまでたたかう。しかるのちに敵を食いつくし、みなで放屁しながら「アハハハ…」「アへへへへ…」「アヒヒヒヒ…」と笑うのである。ブチハイエナは、つまり、本質的には超過激で超強力な暴力集団であることをわすれてはならない。話などつうじるものではないのだ。さて、数十頭の群れ(クラン)からなるブチハイエナ集団を覆滅するにはどうすればよいのか。それが問題だ。そろいの字体のプラカードをぶらさげた無害なヒツジさんたち数万頭で、ブチハイエナたちをミンシュテキに包囲し、メ―メ―メ―メ―鳴けばよいというのか。メ―メ―メ―メ―・オマワリサン・ケフモ・オツカレサマ・コンバンモ・ゴクロウサマ!まいどおなじみ大江健三郎たちに、やくたいもないスピーチをさせて、メ―メ―メ―メ―、無傷でもりあがろうってか!?おい、大江、このクニに戦前も戦後もいちどだって民主主義なんてありえたためしがないことぐらい知っているだろうが。まもるものなんてヘチマもない。ならば、大江よ、なぜそう言わないのだ。なぜこうなったのかをかたらないのか。このていたらくのわけを。血のいってきもながさずに、無傷ではなにもできはしない、虫がよすぎる、と。たとえ50万いや100万のヒツジさんたちが、ペンライトをケツの穴から夜空に照らして、メ―メ―メ―メ―、ミンシュテキに鳴いてみたところで、takaichi gas-hyenaの屁いっぱつ、たちまち異臭さわぎで全員気絶だぜ。おい、大江、もうちょっとましな演説ができないのかね。あんたも、もうかるくいっぱつ、頭にかまされたんとちがうか。なに?オナラは暴力ではない?あくまでミンシュテキに、ボウリョク・ハンタイだと?……ああ、見解のそういですな。ひつようなのは、laughing hyena集団の国家暴力をはばむ対抗暴力のイメージだ。やかましい、メ―メ―メ―メ―鳴くんじゃない、きたるべきアイコク・ヒツジさんたちよ、さっさとブチハイエナどもに骨ごと食われてしまえ。いでよ、ふかき憎悪もて、群れず、ひとり闇をさまようもの。暗きうちを歩みて、おのが往くところを知らず、これ暗黒がその眼をくらましたればなり……。されど、いでよ!(2015/09/15

ーーでこの「名文」を引用すれば、ガンジーの非暴力やらなんたらと言ってくる連中がいるかもしれないのを憂え、ここでガンジーの言葉をも引いておこう。

侵略者達にあなたがたの屍の上を歩かせなさい、罪のない人々の屍の上を踏み越してゆくような軍隊は二度と同じ経験をくりかえすことはできないでしょう。(ガンジー『非暴力の精神と対話』)。

屍になるまでの覚悟があるなら非暴力もよろしい。ブチハイエナどもに貪り喰われる覚悟があるのなら。

そして《いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》ブチハイエナどもである。

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」《不滅》クンデラ

ーーなぜこうなのか? いやいやソンナコトハナイ、ある種の男たちの錯覚である・・・

だがある種の女たちもどうやらそうであるのではないかとシンパイしているらしい。

イギリスのラディカル・フェミニスト・グループの創設者の一人であったジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellは精神分析フェミニズム系のフェミニストで名高いが、21世紀になって、ラカン派の臨床医の書(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、PAUL VERHAEGHE 2009)の序文をーー序文にしてはいささか長すぎるほどの文をーー書いている。

このヴェルハーゲの書のフロイト・ラカンの女性論をめぐる箇所のまとめ(のいくらか)は「古い悪党フロイトの女性論」にある。だがいまはその話ではない。ラディカルフェミニストの序文の話である。

ジュリエット・ミッチェルはその長々しい序文で、シルヴィア・プラスの詩、 「すべての女はファシストを崇拝する Every woman adores a Fascist(Sylvia Plath)」を引用して、なにやらを説明しようとしている。ただし、女のほうが残酷である、などということは口が裂けても記さない、ただ「父なる超自我」/「母なる超自我」に近いことを口に出そうとはしている。

「母なる超自我」とは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan)である。

ーーというわけで女性のみなさん、フロイト・ラカンなどは決して読まないようにしましょう! そんなものを読めばラディカルフェミニストでもこんなことを口にだそうとしてしまいます!


さてなんの話だったか?


ベンヤミン(『暴力批判論』)は問う、「係争をなんとかして非暴力的に解決することは可能なのか?」

彼の答えは、非暴力的な解決が可能なのは、礼儀、共感、そして信頼のある「内輪の人間どうしの関係において」である、としている。「暴力を行使せず人間同士が合意する領域というものが存在するのは、それが隈なく暴力を受けつけない場である場合だ。すなわち、「理解」(悟性)に固有の領域、言語である。」

ブチハイエナとメーメーこひつじさんたちは、「内輪同士の関係」にあるつもりなのだろうか。それなら「非暴力」に徹したらよろしい。


ところでヒトラーにひとは「非暴力」で対抗できるだろうか。




《ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。》

彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。(小林秀雄『ヒットラーと悪魔』)
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。(同上)


ところでヒットラーは1930年代の日本を羨んだらしい。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収

この「会社主義」の主要な原因(のひとつ)はなにか。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

 父権的/母性的などとある。これもある種の男たちの錯誤である・・・

とはいえかの上野千鶴子さんーー思想界の注目すべきメス個体、《陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》などとはわたくしはケッシテイワナイーーがひどくお好みになっているらしい精神科医中井久夫もこっそりとこんなことを言っている、→「母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)」。

というわけで、女性のみなさん、「思想家」の本など読まないようにしましょう! 穏やかでスカスカの人生指南書のたぐいだけ読みましょう!

…………

※附記:念押ししておけば、ここでの男/女は解剖学的な性別ではない。たとえばラカン派では男と女とはシニフィアンにすぎない(参照)。

いまの総理大臣をどうして「男」だと決めつけるのか、あの解剖学的には男であるらしい人物が実は「女」であると推定してどうしてワルイわけがあろう?


…………

で、何が言いたいんだってーー。

おまえらよく「秩序を以て行列をつくる国民」のデモをいまだやってられるな、感心するぜ!

たしかに権力者に人民への恐怖はある。連合艦隊司令長官山本五十六は、東京が空襲されれば「近衛や自分などは3度ぐらい八つ裂きにされる」と言ったという。だが、それどころか、実際に起こったのは敗戦をお詫びする人民の群れであった。当時の首相は一億が総懺悔せよと言った。

今、原発の真実を知らなかったと自分を責める普通の人たちがいる。その気持ちはどこか私にもある。しかし、一億総懺悔に陥ってはなるまい。どこに、当日、秩序を以て行列をつくる国民があるか。こんな治めやすい国があろうかと多くの国の為政者は羨ましく思ったにちがいない。しかし、不信や「なめるな」の思いが積もっていった。風評被害はその延長上にある。(中井久夫 「清陰星雨」(9.18)より

※補遺→ 暴力と精神衛生

2015年9月3日木曜日

「バター犬」という諷刺

あまり時事的な話題を記すつもりはないのだが、このところなぜだか続いている。きょうもまたそのたぐいだ。やや身体的な不調があり(痛風気味がつづく)、退屈しているせいかもしれない。

…………


◆「「バター犬」という揶揄・罵倒は、外野女性としては、性差別とセクシャルハラスメントだと受け取ってますが、それって全的もしくは限定的にも受容すべきなの?(絶望)、というまとめ。」より


よい子はこういった「諷刺」を面白がっちゃいけないぜ。

bcxxx氏ーー通称ばんちょう氏ーーは本人によれば、かの「ヘサヨ」という秀逸な語を発明された方である。だが「バター犬」も秀逸な表現だなどとイッテハナラヌ!

律法は罪であろうか。決してそうではない。 しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。 たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、 わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。(パウロ ローマの信徒への手紙7章)

しかし「バター犬」がこんなにもツイッター上で流通しなかったならば、わたくしは「バター犬」を知らなかったであろう。

◆last tango in paris (The butter scene)




すこし探ってみると(dog,lick,○○○○の三語で)、こんなものもある。


My dog licks my pussy

シツレイ! 重ねて言うが、よい子はこんなものを貼り付けてはならぬ!

ここでフェミニストのお二方に敬意を表して、そのツイートを貼りつけておく。

@akishmz: 女性研究者と師弟関係にある男性研究者を「バター犬」と罵るって、1. 女性がかかわる非性的関係を性化して侮蔑 2. 女性「上位」の性的関係にある男性を非人間化して嘲笑 3. それを「通常の(正常位挿入的)」性関係と区分される「異常な」関係として揶揄、の三重の意味で下劣で差別的。清水晶子
@kazukazu881: 「バター犬」という揶揄は、女性を上司に持つ男性を「去勢された人間以下の存在」として表象すると同時に、男性を部下に持つ女性も性的にグロテスクに描く女性嫌悪丸出しの「罵倒」なのだから、片方の普段からのセクシズムを指摘しても、社会的地位にある女性全体を貶めていることは変わらないよね?

@kazukazu881: 社会的地位にある女性を性的にグロテスクに表現することを通して他の男性を貶める行為に対して、それはおかしいと指摘があるのであって、罵倒された一人の男性を擁護しているのではないでしょ。

@kazukazu881: さらに言えば、なぜ女性差別問題に敏感な人間が、そのような社会的地位のある女性をグロテスクに描くことに問題視するかと言えば、社会的地位にある女性をことさら攻撃の対象にするのは、男性のジェンダー支配を揺るがすような女性の処罰と他の女性の服従のための手段として長く使われてきたわけで。

@kazukazu881: それは現代でも、オバマの選挙スタッフが選挙で敗北したヒラリーの写真の胸を揉むような写真をSNSにアップするような「遊び」から、ISISが支配した地域の女性の議員や人権活動家、医者や弁護士といった社会的ステータスのある女性を真っ先に処刑した「暴力な支配」まで幅広く見られるわけで。

たぶん男性のジェンダー支配の社会であるからあの諷刺はいけないのだろう
とすれば女から男への悪態はかまわないのだろうか?

"Obama? He's got nothing in the pants."(Hillary Clinton)ーー• Sarah Palin: Operation "Castration" •.........Jacques-Alain Miller

サラ・ペイリンの選択は時代のサインである。政治において、女性の言明は支配的になりつつある。しかし注意して! もはや肱を振り回して男たちを模倣する女性についてではない。わたしたちはポストフェミニストの女性の時代に突入している。その女性たちは、容赦なく、政治的な男性たちを殺す準備をしている。この移り変わりは、ヒラリーのキャンペーンのあいだに完全に目に見えた。彼女は最高司令官の役割をもって始めた。だがそれでは機能しなかった。何をヒラリーはしたのか? 彼女は潜在意識的なメッセージを送った。それは次ぎのような何かである。“オバマ? 彼はパンツのなかに何もないわ”。そして彼女はすぐさま撤回したが、遅すぎた。サラ・ペイリンは、切り上げられた場所を拾いあげただけではない。15歳若い彼女は、その他の点では、獰猛で、女性的皮肉を、自然に投げつける。サラは明らかに彼女の男性の敵対者を去勢する(率直な大喜びで!)。そしてそれらへの反応は沈黙したままだ。彼らはどうやって攻撃したらいいのか分からないのだ、その女性性を、男たちをからかうのに使い、男たちをインポテンツに陥れる女性に対して。さしあたり、“去勢”カードで遊ぶ女性は、征服できそうもない。(ミレール 「サラ・ペイリン:「去勢」手術」ーー獰猛な女たちによる「去勢」手術の時代

いやかりにヒラリーの悪態が差別的であったにしろ、彼女には「情状酌量」しなければいけない理由がある。




クリントンは政治権力上ではファルスを持っていた。だが…モニカは彼が去勢された主体であることが分かってしまった…私の友曰く、フロイトの「葉巻はただの葉巻だ」よ、と。…モニカが見出しのは、クリントンはファルスを持っているが、所有していないことだ。(Levi R. Bryant, Sexuation 1– The Logic of the Signifierーー簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」(ラカン)

さてここでいささか飛躍してこういってみよう。

ーー日本の男たちもそろそろ「情状酌量」される余地はないのだろうか。

男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。

men were the new silent victims in the sex war, "continually demeaned and insulted" by women without a whimper of protest.(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(Élisabeth Badinter

Doris Lessing(ノーベル賞作家)はすくなくともかつてのフェミニストの闘士のひとりだが、 Élisabeth Badinter もフェミニストの範疇に入る思想家だろう。

著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。(エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話(L'Amour en Plus)』訳者鈴木晶「あとがき」)

さてここでまた話をかえるがーー。

ところでこんな表現も、たとえば「同性愛者」への侮蔑にあたるのだろうか。

白状しろよ。いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。(辺見庸


白状しろよ、そこのボク珍たち!おまえらフェミニストのケツをペロペロ舐めてきたバター夜郎自大の社会学者だろ、キンタマついてんのか! それとも隠蔽された男根主義者か、はあ?

ーーくり返せば、よい子はこんなことを書いてはいけない


一方は完全ロバと、もう一方は自分の墓掘人どもの才気ある同盟者(クンデラ『不滅』)

おまえらフェミニストの墓掘り人にだけはなるなよな

ーーいやシツレイ! すくなくとも「完全ロバ」はここでの文脈ではまったく正しくない!

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006 鈴木晶訳)
女がフェミニストの主体になるにはどうするか? 父権的ディスコースによって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。“庇護”のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男の“女性に対する心遣い”(食事代を払う、ドアを開ける等)を拒絶することによってのみ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012,私訳)

《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(ヴェルハーゲ) ーーとすればオカアチャンのバター犬になりたいというのは、ほとんどすべての男のひそかな欲望なのではないか。

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)

女たちはどうだろう、バター犬のような若いツバメをかかえていたくないのだろうか?

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

いずれにせよーーと誤魔化しておくがーー過度の「バター犬」批判は、《すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなる》傾向を促進させかねない。ある種の男たちは、《抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている》ーーかどうかは知るところではないが。

浅田彰)いまの論調の支配的な流れの一つは、デリダからレヴィナスへの回帰ですよね。ポジティヴな絶対的神はない、しかしネガティヴな絶対的他者がその不在においてわれわれに呼びかけている、それに向かってわれわれは無限の応答責任(レスポンサビリテ)を負う、と。これはニーチェ的にいうと最悪のモラリズムになりかねないでしょう。さらに問題なのは、そういう擬似宗教的な他者論がしばしば政治的な文脈にダイレクトに導入されることです。いわゆる「従軍慰安婦」の問題にしても、まずは、国家が謝罪し補償するという近代の原理で行けるところまで行くのが先決だと思う。そこで、われわれは他者の顔の前に恥を持って立たねばならないとか何とかいっても、あまり実効性がないばかりか、いたずらにマジョリティの反発を招くことにさえなりかねない。結局、そういう擬似宗教的なモラリズムは、一種の麻痺――すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなるという、最近よくあるポリティカリー・コレクトな態度を招きよせるだけではないか。そのような脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるそ、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないんだというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思うんですが。(「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」(『NAM生成』所収)
 確かに、良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとうエルベックの服従」

…………

とはいえ、世の中には言わせちゃいけないことがある。だがわたくしには「バター犬」がその言ってはならない諷刺・揶揄のたぐいなのかは判断できないままでいる。

ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を、致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。それはそこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。人種差別的態度が、イデオロギー的・政治的言説の主流に許容されるような姿をとったとしたら、それは全体としてのイデオロギー的指導権争いの釣り合いを根底から変動させるだろう。 (……)

今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。「アウシュヴィッツで実際に何人が死んだのか」とか「奴隷制のいい面」は何かとか「労働者の集団としての権利を削減する必要性」といったことは論じるべきでないことを強調しておこう。その立場は、ここでは非常にあっけらかんと「教条的」であり「テロリズム的」である。 (ジジェク『幻想の感染』松浦俊輔訳)

2015年6月10日水曜日

ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきる

血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないのがひどいです
あなたの方からみたら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

――宮澤賢治「眼にて云ふ」(「疾中」所収)

…………

わたしが育った石巻および三陸の沿岸都市は、つねに、気配、兆しというものを孕んでいた。わたしは太平洋沿いの海岸近くに住んでいて、いつも潮騒と海鳴りを聞きながら、なにかの気配を感じていた。耳の底にはいまでも、遠雷のような低い響きがあります。海のうねりが磯でくだけるときに空気とこすれ、空気をまきこんで発する音が海鳴りですが、それは台風や津波などがくる前兆とされていました。

 気配、兆しとは、これから、いつか正確にはわからないけれども、今後にやってくるもの、襲ってくることの見えないさきがけです。その気配、兆しというのは、いったいなにかということをずっと考えながら育ってきたのです。なにかがやってくる。なにかというのはよいことではないらしい。よからぬこと、それも途方もないことがやってくるとからだの奥で感じて育ちました。(辺見庸『瓦礫の中から言葉を』

《予感というものは、……まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。むつかしいことではない。夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい》(中井久夫「世界における索引と徴候」)

《雷は相異なる強度の落差で炸裂するが、その雷には、見えない、感じられない、暗き先触れprécurseur sombreが先行しており、これが予め、雷の走るべき経路を、だが背面において、あたかも窪みの状態で示すかのように、決定する》(ドゥルーズ『差異と反復』)

にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログより)

…………

《戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない》(中井久夫「戦争と平和についての観察」)

私は戦争直前の重圧感を「マルス感覚」と呼んだことがある。湾岸戦争直前、私はテレビを見ていて、太平洋戦争直前に似た「マルス感覚」を起こしている自分に驚いた。「ああ、あの時の感じだ」と私は思った。フランスの哲学者ベルクソンは第一次大戦の知らせを聞いて、「部屋の中に目にみえない重苦しいものが入ってきていすわった」と感じたそうである。これをも「マルス感覚」とすれば先の「事前的マルス感覚」に対して「事後的マルス感覚」となろうか。私は二〇〇一年九月十一日以後、アフガニスタン戦争の期間を通じて、「事後的マルス感覚」をしたたかに味わった。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

『分裂病と人類』以来、予感をめぐって、世界の《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》や、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》感覚をめぐって、書き続けてきた中井久夫は、自ら「分裂病と人類」について「他の仕事は、この短い一分の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできる」としている。

私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一分の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う。S親和的な人、あるいは統合失調症患者の士気向上に多少程度は役ったかもしれない。家庭医学事典などは破滅的なことが書いてあるからである。(中井久夫「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)
一言にしていえば、S親和者の優位性は「徴候を読む能力」にある。少くとも狩猟採集民族には欠かせない能力である。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが全く別の接近路から「徴候知」を抽出していたのとほぼ同時に独立して私も徴候知に市民権を与えたわけだ。この能力は、農耕社会の到来とともに重要性が減り、その結果、失調をおこしやすくなるかもしれないが、リーダーや気候や天災の予測に必要な能力である。雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていたという。医師にも当然なくてはならない能力である。

しかし、職業生活だけがすべてではない。鬱病の場合と違う。徴候知は万人に必要であり、赤ん坊が母親の表情を読むことがすでにそうではないか。そして徴候的認知はとくに配偶者選択に有利である。相手が世俗的なことを考えているときに求愛しても成功はおぼつかない。状況や相手の表情や何やかやから「今だ」というタイミングを読む力は徴候知に属し、徴候知は「接合率」を高める重要因子である。だから、S親和者はなくならないーー。これはハックスリのよりもナイスな答えではないかと私は思った。(同上「『分裂病と人類』について」)

このS親和者と対照される執着気質(親和)者については次の通り。

執着気質者は)カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する(……)。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

執着気質とは、とりわけムラ社会の民の気質である。

……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)


2015年3月8日日曜日

「グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する」

◎共同通信インタビュー

2015年1月初旬におこなわれた共同通信インタビュー記事が全国加盟各紙に掲載されています。添付したのは、2月8日付の新潟日報「転換期を語る――暴力が噴出 歴史的危機」。(インタビュアー:沢井俊光記者。撮影:中野智明カメラマン)

ーーとの記事を「辺見庸ブログ」から拾ったので、ここにその一部をPDF画像からOCRの読み取りをして、貼り付ける(辺見氏は突如記事を削除するので、こうやって貼り付けておかないと失念する)。

たとえば、次ぎの文章は、驚くべき「名文」にもかかわらず、たまたま保存していたからよいようなもの、リンク元の記事はなくなってしまっている。

……にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログ

…………

なお、ここに貼付するのは、辺見庸インタヴューの一部であり、全文はPDファイルを参照のこと(共同通信インタビュー.pdf

ーー戦後70年の意味をどう考えますか。

「戦間期」という言葉がある。戦争と戦争の谷間にあって戦争のなかった時代という意味だが、第1次世界大戦が終わる1918年から第2次大戦が始まる39年までの約20年間を『第1次戦間期』としたら、第2次大戦が終結した45年から今までを『第2次戦間期』と言えるかどうかに興味がある。敗戦後70年たち、これから続く状態が戦争とは逆の平和かどうか、疑わしい。現代は日常の中に戦争が混入しているのではないかと思う」
ーー今はどんな時代でしよう。

「フランスの哲学者レジス・ドゥブレは90年代に『グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する』と言ったが、びっくりするぐらい当っている。経済も文化もボーダーレスの時代になり、いろいろなものが均衡化していくに従って逆に、(分裂や分断が進む)バルカン化が起きるパラドキシカル(逆説的)な時代に来ていると思う。ウクライナの紛争や『イスラム国』の出現はまさにそれで、国家の衰退と封建制の復活に立ち会っているといえるのではないか。旧来の国家像が崩壊し始めている。

資本の活性化、収奪力はすさまじく、人聞は人間であり得たという圏内からどんどんはじき出され、疎外されている。地球温暖化の問題を含め、これほど巨大な不安に固まれて生きている時代はないのではないか。ストレスが一人の人間としては耐えられないくらいのものになりつつある」
ーー民主主義も行き詰まっているように見えます。

「普遍的な現象になっている。欧州のメディアは日本の右傾化を警戒しているが、ネオナチ的なものがたくさん現れる欧州自身の右傾化はすさまじい。民主主義が根付いていると思っていた米国でも、最近の黒人襲撃に見られるように差別が原始的な形で、暴力的に噴出している。民主主義というシステムの中で、問題を処理していく機能が破綻している感じさえする。現代は歴史的な危機を経験しつつあるのではないかと思う。

以前はプロレタリアートのような階級的アイデンティティーがあり、『自分たちは皆貧乏だ。許せない。政権を打倒しよう』となった。だが危機の時代においては、階級的アイデンティティーを民族的、人種的アイデンティティーが凌駕してしまう。ウクライナでもロシアでも中国でもそうだ。日本でも戦後史上、例を見ないほどの勢いで、人々の意識が嫌韓、嫌中に向かっている。日常というのは、急にこの日から崖っぷちですという変化の仕方はしない。暗転はゆっくり、大規模にいくわけで、その過程は見ることができない。でも敏感に耳を立て、目を見聞き、五感を研ぎ澄ませていれば感じることはできると思う」


さてここでは《フランスの哲学者レジス・ドゥブレは90年代に『グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する』と言った》という文のみに取り合えず注目しておこう。

まず「グローバル化で等質化すればするほど」を「世界資本主義化で差異が解消すればするほど」と読み換えてみることにする。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。

しかし、利潤が差異から生まれるのならば、差異は利潤によって死んでいく。すなわち、利潤の存在は、遠隔地交易の規模を拡大し、商業資本主義の利潤の源泉である地域間の価格の差異を縮めてしまう。それは、産業資本の蓄積をうながして、その利潤の源泉である労働力と労働の生産物との価値の差異を縮めてしまう。それは、新技術の模倣をまねいて、革新的企業の利潤の源泉である現在の価格と未来の価格との差異を縮めてしまう。差異を媒介するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。資本主義とは、それゆえ、つねに新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない。それは、いわば永久運動的に運動せざるをえない、言葉の真の意味での「動態的」な経済機構にほかならない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』P59)

すなわち、世界資本主義化すればするほど、差異そのものが解消されてしまう。それゆえ、新たな差異を探し求めていかなければならない。それが「資本主義」である。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』


次に「等質化すればするほど世界はバルカン化する」の「バルカン化」に注目しよう。これはフロイト派あるいはラカン派においても同じようなことが言われている。


《ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える》と意訳できる文章だが、ここでは英文をそのまま、その前段も引用しておこう。

Eros and Thanatos are not separate drives: they indicate opposing directions for the course of life. This accounts for a typical characteristic—the more one of the two directions is present and predominates, the stronger the other will become as well. This does not only apply to couples. The more a united Europe is achieved, the stronger nationalist and even regionalist trends become.(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

ここにエロスとタナトスとあるように、もともとはフロイト起源の文章の変奏である。

フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に終結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe,BEYOND GENDER. From subject to driveーー「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)

フロイトから直接引用すれば次の如し。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳


というわけで、『グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する』とは、次ぎのようにいうことができるだろう。

世界資本主義で、世界中の差異がなくなり平等化して融合すればするほど、すなわちエロス化すればするほど、この平等化、大きな融合を破壊しようとするバルカン化、切断・破壊欲動、すなわちタナトス欲動が生じる、と。

このエロス化/タナトス化は、同一化(疎外化)/分離化ともいいかえられる。

もしわれわれが「すべての動物は平等である」の時代に生きているのが本当ならば、これが必然的に意味するのは、差異の消滅である。権威は差異を基盤としているという事実の観点からは、この意味は、権威はどぶに嵌っているということである。われわれにとって不幸なことは、望まれた帰結――「平等と自由」が実現されるのは、不成功に終わっていることだ。そしてその代わりに、われわれは直面しているのだ、少なくともヨーロッパでは、たえず増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムに。往年の権威の代わりに、われわれはいっそうの権力に遭遇する。権威と権力はなにか違ったものだ。

重要なことは、権力powerと権威authorityの相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。このような社会的症状social symptomsの背景に、われわれは共通のあるひとつの要素を見出す。それは不安である。これは疑いもなく、症状の核であり、どうやってそれを理解したらいいのかという問いをわれわれに課す。これは核となる現象であり、ラカンが主体になることthe becoming of the subjectと呼んだことの中で、われわれをそれを研究しうる。私はすでに他の場所で(Verhaeghe, 1998)、幅広く研究したので、ここではただ二つの過程だけを喚起しよう、それは疎外alienationと分離separationと呼ばれるものだ。この主体になることにおいてIn this becoming、ふたつの過程は、一つに応じれば他を取り除くというふうに機能する。仮にこの機能をこの論文のテーマに適用するならば、そんなに理解することは難しいことではない、疎外は、主体を他者と同じものにすることを余儀なくさせることを。他方、分離とは、差異の可能性の領野を開く。ふたたびくり返せば、同じことと他のことsameness and othernessとは、――われわれがこのあと見てみるように、偶然の一致ではないのだ、ラカンが分析の終りを、全き差異absolute differenceとして定義したことと。その意味とは、 I(A) とobject aのあいだの距離を可能なかぎり大きく保つことということだ(Lacan, 1964, last paragraph).(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe))


ここにあるように、われわれは権威の時代が終わり(父の名の崩壊)、権力の猖獗する時代を生きているということになる。権力の猖獗とは、ラカン派的には貪り食う母の時代である。それはいくつかの変奏があり、享楽の父(エディプスの父に対して)とか、母なる超自我などとも呼ばれる。

たとえばラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールはこういっている。

“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”([PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org

すなわち、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。

「貪り喰う母/エディプスの父」とは、「母性のオルギア(距離のない狂宴)/父性のレリギオ(つつしみ)」(中井久夫)としてもよい。とはいえ、先ほど掲げたポール・ヴェルハーゲの論文.(社会的絆と権威)にも強調されているように、エディプスの父を復活させるなどとはとんでもないことである。だが、では「母なる鰐の口」(ラカン)から逃れるにはどうしたらいいのか? それへの答えはない。

悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェクーー絶望さえも失った末人たち

「母なる鰐の口」の時代とは、「新自由主義」の時代のことでもある。すなわち、弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代である。

「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(柄谷行人 第四回長池講義 要綱



2014年12月7日日曜日

ファシズム、ケインズ主義の回帰

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)
われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代”概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)

ーーとあるように世界資本主義が危機に陥ったとき、ファシズム、コミュニズム、そしてケインズ主義がかつて起こった。

ここで、現在、西欧の先進諸国や日本でネオナチが猖獗しつつあるのは、ひょっとして世界資本主義の危機のせいではないか、と問いを発してみることもできる。そして黒田日銀の異次元金融緩和などのアベノミクスは復活したケインズ主義ではないか、と。

「どのような利子率であれ、それが永続きしそうだと十分に強い確信をもって受け入れられるならば、現に永続きする」のである。

 ケインズの洞察によれば、人々の生活態度には確固とした知識の裏付けなどない。「大衆が利子率の緩やかな変化に対してかなり急速に馴染んでいくことはあり得る」。そう考えれば、「少しは気も楽になろう」と言い切っている。

 『一般理論』は不況と失業という難病に取り組むための、知的な実験だった。黒田日銀の異次元緩和はデフレという難病の解消を目指すものだ。両者の発想と行動が似ていたとしても不思議はない。知の武器庫を活用するときだ。(大機小機)ケインズの洞察と黒田日銀 2013/5/29)

このように思いのほか、われわれの社会に起こる現象は、「経済」の影響の下にある。そして世界資本主義の危機などといわないまでも、日本の財政はとんでもない「危険水域」に突入しつつあることは間違いない。

「白川方明前日銀総裁が以前の講演で、財政悪化したときの回復方法について言及していた。増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかないという。調整インフレやデフォルトを避けようとすれば、財政再建の道筋しかないのだが、働いても給与の手取りが増えず、社会保障サービスも低下するというきつい状態だ。こうなると人やマネーは日本から出て行ってしまうのではないか」(インタビュー:「危ない橋」渡る日銀、円の信認喪失も=上野泰也氏 | Reuters)

白川方明前日銀総裁の見解として、《増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかない》とある。

これはジャック・アタリの『国家債務危機』の変奏としてよいだろう。アタリは、国家債務の解決策は8つ存在するとしている、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、デフォルト》。

8つのうちの選択肢のなかに「戦争」とある。安倍政権の戦争への傾斜とも見られるものが、資本主義の危機のせいだとは断言しまい。だが次のように引用することはできる。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人[反原発デモが日本を変える])
……基軸商品の交替という観点から見ると、この次に、今までのようなヘゲモニー国家が生まれることはありそうもない。それよりも、資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(柄谷行人「第四回長池講義 要綱 歴史と反復」
「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみあわない」

安倍晋三政権が集団的自衛権の行使に向け、憲法解釈を変えようとしている。なりふりかまわぬ手法をどう見るか、そう尋ねた後だった。

 「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りね」(【時流自流】作家・辺見庸さん ファシズムの国2013.09.08

 ジャック・アタリに戻れば、彼の『国家債務危機』の「第5 債務危機の歴史から学ぶ12の教訓」には次のようにある。

1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである
2 公的債務は、経済成長に役立つことも、鈍化させることもある
3 市場は、主権者が公的債務のために発展させた金融手段を用いて、主権者に襲いかかる
4 貯蓄投資バランスと財政収支・貿易サービス収支は、密接に結びついている
5 主権者が、税収の伸び率よりも支出を増加させる傾向を是正しないかぎり、主権債務の増加は不可避となる
6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る
7 債権者が債務者を支援しないと、債務者は債権者を支援しない
8 公的債務危機が切迫すると、政府は救いがたい楽観主義者となり、切り抜けることは可能だと考える
9 主権債務危機が勃発するのは、杓子定規な債務比率を超えた時よりも、市場の信頼が失われる時である
10 主権債務の解消には八つもの戦略があるが、常に採用される戦略はインフレである
11 過剰債務に陥った国のほとんどは、最終的にデフォルトする
12 責任感ある主権者であれば、経常費を借入によってまかなってはならない。また投資は、自らの返済能力の範囲に制限しなければならない

ここでしばしば議論に上がる《6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る》については、小黒一正氏の2010916日に書かれた記事「「政府の借金は内国債だから問題ない」は本当か?」に簡明な分析がある。そして最後にこう書かれることになる。

国債発行は世代間格差を引き起こし、将来世代に過重な負担を押し付ける。したがって、「政府の借金の多くは内国債だから問題がない」というのは、間違いである。

すなわち、ジャック・アタリの《1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》に関わってくる。池尾和人氏も、2011年の段階で次のように発言している。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

 われわれがこの数十年来ーー超少子高齢化社会になることが周知になったあともーー、《負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきた》ということになる。