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2015年11月14日土曜日

réel/réalitéの混淆

全て現実界的ものは、常に必ずその場にあるさ…現実界のなかで何かの不在なんてのは、純粋に象徴界的なものだよ

Tout ce qui est réel est toujours et obligatoirement à sa place…L'absence de quelque chose dans le réel est une chose purement symbolique (Lacan,Le séminaire livre IV .pp.47-48)

意味不明だよ、オクシモロンかい、ラカンせんせ?

 ロレンツォ・キエーザ(2007)は次ぎのように捕捉している。

全ての「潜在(潜勢)的」リアルは、常に必ずその場にあるさ…「現勢的」リアルのなかで何かの不在なんてのは、純粋に象徴界的なものだよ

現勢的 actuel/潜在的 virtuel とは、ベルグソン用語であり、ドゥルーズが純粋過去などにふれるなかで、プルースト論などで説明した概念である。

……ベルグソン哲学との関連では、そのような領野は「潜在的<潜勢的>なもの(ヴィルチユエル)」の場として規定されます。そこでは、差異的=微分的 differentiel な諸関係とそれに対応する諸特異点から成る潜在的な多様体があって、それが分化 differenciarion の過程を通じて顕在化<現働化>(アクチュアリゼ)されることで、現象が構成されることになるんですね。(浅田彰

ラカンの文に戻れば、「純粋に象徴界的なもの une chose purement symbolique」という表現でラカンが言わんとすることは、ある場所に何かがあるべきだという何らかの法=象徴界が設置されることよってのみ、「何かが欠けている」と言いうる、ということだ。《c'est-à-dire pour autant que nous définissions par la loi que ça devrait être là, c'est qu'un objet manque à sa place.》 p.48

ーーとすれば、こう言いえるだろう(ただし〈女〉の定義にもよるが)。

女には何も欠けていないさ、ファルスの欠如だって? ファルスの不在なんてのは、純粋に象徴界的なものだよ

ーーとすれば、こうも言いえるだろうか?

大他者の穴だって? 〈他者〉のなかの欠如 (Ⱥ )だと? アホらしい! 大他者には何も欠けてないさ、そんなものは純粋に象徴界的な言草さ

これにはいささか無理がある。そもそも大他者は象徴界なのだから。

ただし、こうは捕捉しておこう。

神とは シンプルに〈女〉のことさ、他者の他者があるなら、〈女〉が存在するってことさ(ラカン、S.23)

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (Séminaire ⅩⅩⅢ Staferla 版 p.173)
神は、我々が世界と呼ぶところのものの作者じゃない。我々が神に帰するのは、職人の仕事だな、最初のモデルは、ヨク知ラレテイルヨウニ、陶器作りだよ、型に入れて作ったといわれるがーーダガドンナ材料デダロ?ーー、偶然じゃないよ。世界、それはただ一つの事を意味する、y a d'l'Un(「一」のようなものがある)だ。

Yad'l'un、ーーだが何処にあるのかわからない。 この「一」が世界を構成したなんてことはあるはずがないさ

〈他者〉の〈他者〉、現実界、それは不可能だ、そんなものはゴマカシさ。われわれのはぐらかし……ハ・グ・ラ・カ・シ……詐欺だね。(ラカン、S.23、粗訳)
C'est pas Dieu qui a commis ce truc qu'on appelle l'Univers. On impute à Dieu ce qui est l'affaire de l'artiste dont le premier modèle est - comme chacun sait - le potier, et qu'on dit que… avec quoi d'ailleurs ? …il a moulé, comme ça, ce truc qu'on appelle, pas par hasard, l'Univers, ce qui ne veut dire qu'une seule chose, c'est qu'y a d'l'Un.

Yad'l'un, mais on ne sait pas où.
Il est plus qu'improbable que cet Un constitue l'Univers.

L'Autre de l'Autre Réel, c'est-à-dire impossible, c'est l'idée que nous avons de l'artifice, en tant qu'il est un faire… f.a.i.r.e, n'écrivez pas ça f.e.r …un faire qui nous échappe. (Lacan,Séminaire XXⅢ  Staferla 版 p.62-63 )

《L'Autre de l'Autre Réel》とはどう訳すべきなのだろうか、いささか覚束ないが、わたくしの手許の英訳では、《The real - that is, impossible - Other of the Other》となっている。


Alberto Giacometti Woman Walking


ーージャコメッティのこの女のトルソの穴はなんなのだろうか、--やはり神の穴ではないか

…………


1950年代のラカンの“réel”とはかなり混淆(混乱)して使われており、あるときは「現実性 réalité」であり、あるときは後年の「現実界 réel」であったりする。ただし冒頭の文は、ひとつのパラグラフに二つのリアルが混淆して使われている珍しい例のはずだ。

1960年代になってさえ、次のような例がある。

…le transfert est la mise en acte de la réalité de l'inconscient. P.225

[the transference is the enactment of the reality of the unconscious] (Le Séminaire, livre XI).

It should be noted that in this sentence “Real” would have been a better word than “reality".(ポール・ヴェルハーゲ、2001)

…………


いずれにせよ、核心は《原初 primaire とは最初 premier のことじゃない》だね(参照:ラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla)。

……「彼方」にかかわるこの〈他の享楽〉は、始原の享楽、原初の享楽として解釈されうるかもしれない、時系列な chronological 観点からは、後の二次的な享楽を従えた原初の享楽だと。

ラカンはこの読解の誤謬を、とても明瞭に指摘している、《原初とは最初を意味しない》と。非全体 pas-tout とは、事後的な効果である。それは遡及的 nachträglich なものであり、シニフィアンの〈他者〉 the Other of the signifier の影響によって輪郭を描かれるにすぎない。シニフィアンの〈他者〉 は、ファルス的シニフィアンの〈一者〉the One of the phallic signifier の手段によって、全体化する効果 totalising effect を確立しようとする。結果として、この〈他者〉は、ある種の二重化 double vision に追い込まれる。事実、この〈他者〉は、シニフィアンの手段によって何かーーそれ自身を超える何かとしての、このまさにシニフィアンによって定義された何かーーを見たいのだ。したがって、それは複眼 cross-sightedness (biglerie)である。(Paul Verhaeghe、 Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2001 → 原文
注)象徴秩序(他者)、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者 One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムと しての象徴秩序(他者)は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニ フィアンは、ファルスのシニフィアンである。したがって、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二分法の論法ーー「一」であるか「一」でないかーーを適用することによって、一体化の形で作用する。……(ポール・ヴェルハーゲ、2001,私訳)

…………

※附記:Y a d'l'Un については、ジジェクは次ぎのように解釈している。

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわちイマジネールな「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)とシンボリックな「一」(還元的な、「一の徴 le trait unaire」にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、リアルの「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、リアルの「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、2012,私訳)

※この文の続きは→「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」を見よ。

次ぎのパラグラフで始まる箇所である。

ラカンの「〈他者〉は無い il n'y a pas de l'Autre」は、彼の Y a d'l'Un、つまり「〈一〉の何かが有る there is something of the One」と厳密な相関関係がある。Y a d'l'Un の〈一〉Unが「分割できない残余indivisible remainder」、性関係を存在しないものとする限りにおいて、Y a d'l'Unは「性関係は無い il n'y a pas de rapport sexuel」とも厳密に相関関係がある。それは、この関係のまさに対象-障害object‐obstacleである。Y a d'l'Un の〈一〉 は元来、神話的なすべてを包括する〈一〉ではない。フロイトが嘲弄した悪評高い「大洋的感情oceanic feeling」ではない。そうではなく、〈二〉Twoのハーモニーをかき乱す「現実界の破片little piece of the real」、糞便のような残余である。