人は忘れるのだ。深く考えなかったこと、他人の模倣や周囲の過熱によって頭にタイプされたことは、早く忘れる。周囲の過熱は変化し、それとともにわれわれの回想も更新される。外交官以上に、政治家たちは、ある時点で自分が立った見地をおぼえていない、そして、彼らの前言とりけしのあるものは、野心の過剰よりは記憶の欠如にもとづくのだ。社交界の人々といえば、ほとんどの事柄はおぼえていないにひとしいのである。(プルースト「囚われの女」)
しかし「深く考え」ただけで、人は忘却をまぬがれるだろうか。
「烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」)
もっともーー誤解のないようにつけ加えておくがーープルーストの「深く考え」るとは、烙印されたことのみを言っている。通念の「深く考える」とは異なることを強調しておこう。
『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴスと文学機械」の部)
ドゥルーズ=プルーストは何を言っているのだろう、観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈、ことば/名、意味作用/シーニュなどを対照させて。
理知が白日の世界で、直接に、透きうつしにとらえられる真実は、人生がある印象、肉体的印象のなかで、われわれに意志にかかわりなくつたえてくれた真実よりも、はるかに深みのない、はるかに必然的に乏しいものをもっている……(プルースト「見出された時」)
「見出された時」のライトモチーフのひとつは、forcer(強制する)ということばであるーー、プルーストは《あらかじめ考えられた決意》による思考の動きである前者を攻撃し、《思考させる》、つまり無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何か=シーニュによる「思考のイマージュ」を称揚する。
哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
さらにここで、積極的意志/無意識的強制などの二項対立の前者は、ほとんどすべては「好奇心」にかかわるといっておこう。
快楽も、愛も、好奇心から生まれるものではない(……)。好奇心とは、感覚器官の粗雑さを忘れるために、知的に遂行されるストリップのごときものであり、自信にみちた心の動きだ。ニーチェにならって、「われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのだろう」とバルトが書くとき、科学の名で指し示されているのは、まだ見えていないものへの究明へと人を向かわせるものが好奇心だとする社会的な、それこそ粗雑きわまる暗黙の申し合わせのことである。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」『表象の奈落』所収)
…………
《誰もが、性急かつ臆病に、己れが潜在的なターゲットであると知りかつ感じている。》(JACQUES-ALAIN MILLER ON THE CHARLIE HEBDO ATTACK)
われわれは一年もたたない出来事ーーシャルリエブド事件ーーを忘れている。もちろん四年以上まえの出来事などすっかりと忘れている。東京エリアの二三千万人が運命のさいころのわずかな転がりぐあいの違いで、すべて「難民」になっただろうことなどは、もはや須臾の間さえ想像をすることはない。あれらの出来事が「烙きつけ」られたのは、わずかな人ーーたとえば掛け替えのない愛する人を失った者や移住や生活習慣の変更を余儀なくされた人たち、いまだ悪夢にうなされている人たちーーだけだ。
身近なフクシマだって忘れてしまっているのだ。今回のパリテロ事件も三ヶ月後にはすっかり忘れているさ。島国日本では、身近にムスリムや仏人の知合いがいるひとは、稀だろうしな。
通念としての「憐れみ」の思想家ルソーでさえこういっている、《人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ》(『エミール』)
……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収)
そもそもいつ起こるかしれない地震を忘れて生活していかなくちゃいけない民族なのだから、やむえないね、これは皮肉ではまったくないさ。
中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人がダメなのは成功のときである」1994初出『精神科医がものを書くとき Ⅰ』所収 広英社)
それに戦争トラウマがなかったら、戦争のにおいを嗅ぎつける嗅覚も弱いに決まってるさ、オレも人のことはまったく言えないよ、
戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。(中井久夫「戦争と平和についての観察」)