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2019年8月26日月曜日

奈落の母



貪り喰う空虚。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。Incontinent the void. The zenith. Evening again. When not night it will be evening. Death again of deathless day. On one hand embers. On the other ashes. Day without end won and lost. Unseen. ((サミュエル・ベケット Samuel Beckett『見ちがい言いちがいIll Seen Ill Said』)




で、おっかさん亡くなってから具合はどうなんだい?

死んだほうがもっとこわいですよ

こわいってのは?

毎夜、こんなぐあいなんですよ


(ベケット、母から子宮へ Samuel Beckett: From the Mother to the Womb.

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


ーーそうなのか、おれはまだ幸運なのかもな





批評家やら文学者ってのはありゃだめだね、おれたちの作品を、Rien[無]、vide[空虚]、creux[空洞]、vacuole[空胞]、abîme[深淵]、béance[裂孔]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、faille[断層]、trou[穴]やらとはいっておきながら、そこには女陰の奈落 abîme de l'organe fémininがあるってのに触れないんだからな、






風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)




ここまでしめしたってわかんねえんだな、あの連中は。





ジュネぐらいだよ、ずばっとみやぶったのは。




美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

アレそのものはひみつにしといてくれっていっておいたけどな




そしたら風がとおりぬけるようにわらってたよ、やつもふたりの母親もって苦労してるからな

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)




しあわせもんなんですよ、あの文学者連中ってのは。

そうだな、こっそり嗤っておけばいいんだろうな




この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス Jean-Bertrand Pontalis,『夜の境界 En marge des nuits』2010年)


でもおっかさんてのはな、おれんとこはいつまでも生きていそうだからな





どうなるんだろうな、このまま続くと?





まだいいですよ、ボクすみたいに毎夜のパクパクはないのだから

とすればあれもやっぱりアレのことなのか




じゃあこうしておこうよ、暗闇に蠢く母の徴としてな。






美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ミレール Jacques-Alain Miller L'inconscient et le corps parlant、2014)

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance 1999)

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? » 2014セミネール)



2019年6月8日土曜日

真のフェチ作家ジャコメッティ

ジャコメッティは、まさに最後まで『ドキュマン』の記事を保持していた。それは、バタイユが1929年から1930年に出版したもので、ジャコメッティの作品に捧げられた最初の記事(ミシェル・レリスによる)が含まれている。(Christian Klemm, Alberto Giacometti, MOMA出版、2001)




私はジャコメッティの彫刻を愛している J'aime la sculpture de Giacometti…これらは真のフェティッシュ vrais fétichesである。つまりわれわれに似た、われわれの欲望の具象化された形態 forme objectivée de notre désir である。

…私に期待しないでほしい、この作品を疑問の余地なく彫刻と呼ぶことを。私は「さまよい DIVAGUERU」と呼ぶことを好む。なぜなら、これらの美しいオブジェクトを私は見つめて触ることができるから。そして私のなかにある多くの記憶の発酵 fermentationを揺り動かすのだ。…(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)

ーー《最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、隠蔽記憶 Deckerinnerung のように、この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。》(フロイト『性欲論』1905、1920年注)




(ミシェル・レリスにとって)フェティッシュは、光を発し熱のこもった対象あるいは瞬間だ。全体のコンテクストから逃げさるものでありながら、それにもかかわらず全体性の効果を生む。フェティッシュは外在的で、欲望の具象化された結晶である。遠くにありかつ奇跡的に近くにある何ものか、内部と外部のあいだにある裂け目を消し去る何ものかである。フェティッシュへの固着によって生み出されたエロス的な十全感は、しかしながら、性的経験に限らない。それは強度のリアリティ感を、最も共有的な知覚と遭遇をもたらしてくれる。(Clifford, "The Tropological Realism of Michel Leiris",1986)


ーー《親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S7、03 Février 1960)

ラカンの外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物(異者としての身体 corps étranger) のようなものである。…外密はフロイトの不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)

この外密=フロイトのモノとは対象aの初期ヴァージョンであり--《対象a とは外密であるl'objet(a) est extime》(S16、 1969)ーー、後に示すが、「真の」フェティッシュと相同的である。





レリスは、このジャコメッティ小論の冒頭近くでこう書いている。

われわれ人間存在の基盤 base de notre existence humaineにあるフェティシズム fétichisme は、偽装されていない形態 forme non déguiséeとしての条件をめったに見出せない。…われわれは「変質されたフェティシズム fétichisme transposé」へのしがみつきに至っている。それは、われわれの最も深い動因にたいする貧しい見せかけsemblantに過ぎず、この「粗悪なフェティシズムmauvais fétichisme」は、われわれの活動の大いなる部分を占めている。実質的に「真のフェティシズム fétichisme véritable」にとっての余地はないのだ。…

芸術作品の領野において、われわれはこの「真のフェティシズムvrai fétichisme」の要求に相応しいどんなオブジェクト(絵画あるいは彫刻)もほとんど見出せない。「真のフェティシズム」とは、われわれ自身の愛(真に愛するもの réellement amoureux)、自己の内部から外部へと投射されたもの projeté du dedans au dehors だ。(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)

「変質されたフェティシズム fétichisme transposé」(「粗悪なフェティシズムmauvais fétichisme」)と「真のフェティシズム fétichisme véritable」が対比されて語られている。


フェティシズムとはもともと太古の呪物崇拝が起源である。わたくしは名高い芸術批評家としてのレリスをわずかばかりーーほとんど名だけーー知っているのみだったが、彼は文化人類学者でもあってこちらが本職だったようだ。彼は1934年に既に『L'Afrique fantome』を上梓している。





ここでは簡潔な記述のあるWIKIのフェティシズムの項から抜き出しておこう。

フェティシズムという言葉を使い始めたのはフランスの思想家ド・ブロス(Charles de Brosses)だといわれる。ド・ブロスは1760年に『フェティッシュ諸神の崇拝』(Du culte des dieux fetiches)を著した。ここで扱われているのはアフリカの住民の間で宗教的な崇拝の対象になっていた護符(フェティソ:Fetico)であった。これは呪物崇拝と呼ばれる。

心理学者のアルフレッド・ビネーが1887年の論文で肌着、靴など(本来、性的な対象でないもの)に性的魅力を感じることをフェティシズムと呼ぶよう提唱した。次いでクラフト=エビングが『性的精神病理』第4版(1889年)の中でフェティシズム概念を採用した。この著書はフェティシズム、同性愛、サディズム、マゾヒズムを主に論じたもので、世紀末によく読まれた本である。フロイトも性の逸脱現象としてこの用語を用いた。フロイトは足や髪、衣服などを性の対象とするフェティシズムは幼児期の体験に基づくものと考えた(『性の理論に関する三つの論文』1905年)。

このほか、カール・マルクスもド・ブロスを読み、ノートを取っていた。『経済学・哲学草稿』(1844年頃執筆、死後の1932年公刊)で資本主義経済批判を展開し、経済を円滑にする手段として生まれた貨幣自体が神の如く扱われ、人間関係を倒錯させていると述べた。また『資本論』第1巻(1867年)の「商品の物神的性格とその秘密」という章で、「商品」の持つフェティシズム(物神崇拝)を論じた。マルクスのフェティシズム論(物神崇拝論)は20世紀になって注目されるようになった。

ラカンはこのマルクスのフェティッシュを、対象a(剰余享楽)とした。

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)

最も基本的な認識でありながら、いまだ充分には理解されていないことは、フェティッシュとは「欲望の条件」なのであり、欲望する主体はみなフェティシストであるということである。それはレリスが言う通り、《われわれ人間存在の基盤 base de notre existence humaineにあるフェティシズム fétichisme 》なのであり、1929年の段階でこう書き得たこと自体、こよなく貴重である。


現代ラカン派では、欲望の条件としてのフェティッシュにかかわる倒錯を《一般化倒錯》と呼ぶ。一般化倒錯とは、一般化妄想(《人はみな妄想するTout le monde est fou》(ラカン、1978))と構造的には等価の意味をもつ(参照)。



ーーヒトには耐え難い穴(トラウマ)があり、その穴を穴埋めするのが一般化妄想であり一般化倒錯である。


ここで何度か掲げている二種類の対象aの記述があるジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げておこう。これが、レリスのいう「変質されたフェティシズム fétichisme transposé」(「粗悪なフェティシズムmauvais fétichisme」)/「真のフェティシズム fétichisme véritable」の二つのフェティシズムと「完全に合致する」とはわたくしは言わない。ただし限りない近似性をもっている。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appâtである。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004年、摘要訳)

ようするにこうなる。



ラカン自身の発言をもつけ加えておこう。

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…
フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)
・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)


さらにミレールとジジェクの注釈を掲げよう。

対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993年)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


ラカンは「黒いフェティッシュ」という表現も使っている。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)
純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. (S10, 16 janvier 1963)


享楽ーーここでの享楽とは《傷ついた享楽 jouissance blessée》(ソレール、2011)のことであるーーの原象徴化の試みが「黒いフェティッシュ」である。それはまた、S(Ⱥ)=Σ(サントーム)とも記される(参照)。






究極の享楽とは生きる存在からは常に既に控除されている。これが、《傷ついた享楽 jouissance blessée》であり、《トラウマ化された享楽 jouissance traumatisée》(ミレール、2011)の意味である。それを取り戻すには母なる大地との融合しかない、つまり死しか。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin である⋯⋯。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)(フロイト『三つの小箱』1913年)

したがってラカンはこう言うのである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

他方、最晩年のラカンが《享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 》( Lacan parle à Bruxelles、1977)というときは、傷ついた享楽のことを言っている。


そして上図に示したサントームΣ(享楽固着)=黒いフェティッシュをさらに隠蔽し覆うのが、囮としてのフェティッシュである。





ひょっとしてすべての芸術作品をこの観点から見うるかもしれない。ジジェクはこの見方から、あのベンヤミンのアウラまで批判している。

ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


ところで究極のメドゥーサとはなんだろうか。

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)


すくなくともある時期(1927-1934)のジャコメッティの作品はすべてこれをめぐっている、--などということはわたくしは口が裂けてもいわない・・・





ジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」、…女の溝 creux fémininで刻まれたこの木製の玉は、クロワッサンの上にヴァイオリオンの細い弦で宙吊りになっている。三日月型の縁は空洞 cavité に触れかかっている。見る者は、本能的に強制されて隆起物の上の玉を滑らせる。しかし弦の長さは二物の間の接触を部分的にしか許さない。(サルバドール・ダリ Salvador Dalí, « Objets surréalistes », Le Surréalisme au service de la révolution, 1931)

ジャコメッティはこのダリとブルトンによる「宙吊りになった玉 Boule suspendue」絶賛により、ブルトングループに入った。だが1933年6月25日の父の死によるメランコリー、翌年1934年に具象芸術への復活の試みがあり、それをブルトンに咎められてブルトンからただちに去った。

だがブルトンは終生、1930年もしくは1931年に手に入れた 「宙吊りになった玉」を第二期シュルレアリスム運動の護符として書斎中央に飾って手放さなかったようだ。ここで第二期というのは、1929年に数多くのメンバーの離反がありーー専制君主的ブルトンに嫌気がさした離反とされるが、その一人はレリスであるーー、ブルトンは新しいメンバーを探し求めていたからである。





話を戻せば、たとえばバタイユが批判した《美しいポエジー》、ニーチェが排除しようとした《美しいメロディ》は、黒いフェティッシュの上覆いとしてのまがいものにすぎない。

バタイユの名高い『不可能なもの』の最初の題名は、『ポエジーへの憎悪 La Haine de la poésie 』である。彼は、多くの詩が美文的な《美しいポエジーにすぎない》ものに陥ってしまっているという批判をした。

この美しいポエジー批判に先だって、ニーチェによる《美しいメロディ》批判がある。

・芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的もののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。

・わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう! 美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない! それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない! (ニーチェ『ヴァーグナーの場合』1888年のトリノ書簡)


もっとも人生を楽しくすごすためには囮、すなわち「まがいもの」のほうが好ましいという立場をとる人たちをバカにするつもりはない。ときには慰安も必要なのである。

そしてここで最も重要なのは、黒いフェティッシュとは個人的なものなのである。それは、ラカンのいう《身体の出来事 un événement de corps》、バルトのいう《身体の記憶 la mémoire du corps》の審級にあり、つまりは個人の発達史における「身体の上への刻印」にかかわる。人はみなこの個人的な出来事あるいは記憶を共有しているわけではけっしてない。ある人がある作品に黒いフェティッシュを見出し惚れ込んでも、別の人はそうでない。ようするに普遍的な黒いフェティッシュはない。だから他人の愛を安易にバカにしてはならないのである。わたくしは時にこれをやってしまうことがあるが、ようするにそれが言わんとしていることは、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。(『彼自身によるロラン・バルト』)である。


とはいえ、まとまった芸術批評において、形式的分析ばかりやって、この個人的な身体の出来事のレベルの記述がまったくなされていないものは、たんなるオベンキョウ家向けのものととして笑ってやりすごすことにしている。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)


最も基本的レベルに戻って言えば、リルケのドゥイノの冒頭にあるように、《美は恐ろしきものの始まり Denn das Schöne ist nichts als des Schrecklichen Anfang》である。囮のほうはキレイにすぎない。

美には傷以外の起源はない Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

ジュネのいう《どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷 la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi》が肝腎である。個人の単独性における傷なのであって、それゆえ美に対する感じ方も各人異なる。

一般論として言えば次のことである。

美は現実界(=トラウマ界)に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)




この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス Jean-Bertrand Pontalis,『夜の境界 En marge des nuits』2010年)



2019年6月7日金曜日

他の性 Autre sexe




ピロポ Piropo はスペイン語で、街頭で男性が女性に投げかけるほめ言葉、誘い文句、あるいは冷やかしなどです。…

男、ピロペアドールは相手の女を引き止めることは求めないし、奇妙なことに、同時にそれは根本的に無欲なものです。…

ピロペアドールとは、未知の女が自分の前を通り過ぎていくのを常に眺めている、そして自分の存在を認めてくれる一瞬の間、女を引き止めておこうとする不幸な男、それは女 la femmeの裡に体現されている他者Aに聞き入られることを放棄しない男です。…

どんな女性であっても、女性によって体現されているものは(……)言語のコードの場である大文字の他Aなのです。ピロポが典型的な状況だと思われたのは、大文字の他Aの構造的な機能が常に「他の性 Autre sexe 」を表わしてきた女性によって支えられているからです。他の性といっても、けっして、それが男性に対して他の性である、といえるような意味ではありません。両性は互いに他のもので、それぞれがもうひとつの相手としますが、もっとも深い意味で女性といわれる性が根源的に他者(Autre)なのです。そしてその神秘はずっと男達、分析家も含む、を惹きつけてきました。そして最初の男性の分析家であったフロイトは、《女は何を本当に欲するのか Was will eine Frau eigentlich?》という神秘は彼自身も明らかにすることができなかった、と述べていました。そこには精神分析の壁ともいえるものがあるのです。(ミレール Jacques-Alain Miller「エル・ピロポ El Piropo」、ベネズエラ講演、1979)





「他の性 Autre sexe」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexe」である。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)




父の名の排除から来る排除以外の他の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(Anna Aromí & Xavier Esqué, PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018)



女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)


2018年6月28日木曜日

身を慎んで目を覚ましていなさい

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)


(ゴダール、『(複数の)映画史』1A)


ああ、《すべての天使は恐ろしい Ein jeder Engel ist schrecklich》(リルケ、ドゥイノの悲歌)



(ゴダール、『(複数の)映画史』3B)

海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)

ああ、すべての女神は恐ろしい

僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)

ああ、子宮回帰は恐ろしい





誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、…この母胎内 Mutterleib への回帰…(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

《ラカンの母は、quaerens quem devoret(『聖ペテロの手紙』lettres 1, 5, 8)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐 crocodileとして、口を開いた主体 sujet à la gueule ouverte.として提示した。》(ジャック=アラン・ミレール 、La logique de la cure、1993)

母とは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。…あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


ああ、《世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし》(太田南畝)

かつて「ジンプリチシムス Simplicissimus」(ウィーンの風刺新聞)に載った、女についての皮肉な見解がある。一方の男が、女性の欠点と厄介な性質 die Schwächen und Schwierigkeiten des schöneren Geschlechts について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ Die Frau ist aber doch das Beste, was wir in der Art haben』。(フロイト 『素人分析の問題』1927年 後書)





行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

《世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい》(太田南畝)

自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道 Vom Wege des Schaffenden 」)




生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる女への愛 Liebe zu einem Weibe にほかならない・・・(『ニーチェ対ワーグナー』エピローグ、1888年)
真理への意志 Wille zur Wahrheit は、いまだ我々を誘惑している。…我々は真理を欲するという。だがむしろ、なぜ非真理 Unwahrheit を欲しないのか? なぜ不確実 Ungewissheit を欲しないのか? なぜ無知 Unwissenheit さえ欲しないのか?(ニーチェ『善悪の彼岸』第1番、1886年)

《真理は女である。真理は常に、女のように非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute》(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理は女である die wahrheit ein weib 、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)



2018年4月2日月曜日

空虚と穴(初期ジャコメッティを中心に)

前回、いささか格調を落とした投稿をしてしまったので、アワテテ在庫ノ中カラ、格調高い投稿を抜き出して、誤解を振り払うことにする。

⋯⋯⋯⋯


ラカンのテーゼである「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)


◆「見えないオブジェ L'Objet invisible」(1935)



我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)




この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス、2010、Jean-Bertrand Pontalis, En marge des nuits


⋯⋯⋯⋯

「歩く女 Femme qui marche」(1932年、下のものは1936年ヴァージョン)



人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou.(ラカン, Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974)






◆「宙吊りになった玉 Boule suspendue」(1930-1931)+「見えないオブジェ L'Objet invisible」(1935)




1930 年代にアルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)がパリで制作した彫刻作品の多くは、当時の芸術家達との関わりから、「シュルレアリスム期」として位置づけられる。中でも 30 年 4 月に発表 された『吊るされた球』(Boule suspendue 1930-31)は、後にブルトンによって買い上げられ、彼の死までアトリエの壁の中央に置かれていた。また、ダリがこの作品を「象徴的作用のためのオブジェ」 と呼び、「欲望とエロティックな幻想を引き出す」と表現したことにより、当時のシュルレアリスト達のフロイト的な見方を助長することになった。(藤本玲「アルベルト・ジャコメッティにおける「宙吊り」の問題」、ーー《触るなかれ!》)


◆「不快なオブジェ Objet désagréable 1931」、「捨て去られるべき不快なオブジェObjet désagréable à jeter 1931」、「男と女Homme et femme 1928」、「宙吊りになった玉 Boule suspendue 1931」 






◆ゴダール『(複数の)映画史』より








2017年10月19日木曜日

《触るなかれ!》

タンブラーでマン・レイの1933年の作品に行き当たった(シュールレアリストたちの雑誌に掲載されたもの)。



次は、1930年の作品。




どちらが先行して制作されたのかはわからないが、わたくしは、すぐさまジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」(1930)を想い起した。


(Alberto Giacometti - Boule suspendue (Suspended Ball) 1930-1931)

1930 年代にアルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)がパリで制作した彫刻作品の多くは、当時の芸術家達との関わりから、「シュルレアリスム期」として位置づけられる。中でも 30 年 4 月に発表 された『吊るされた球』(Boule suspendue 1930-31)は、後にブルトンによって買い上げられ、彼の死までアトリエの壁の中央に置かれていた。また、ダリがこの作品を「象徴的作用のためのオブジェ」 と呼び、「欲望とエロティックな幻想を引き出す」と表現したことにより、当時のシュルレアリスト達のフロイト的な見方を助長することになった。(藤本玲「アルベルト・ジャコメッティにおける「宙吊り」の問題」、pdf)



ジャコメッティは娼婦以外はインポテの時期があった。

娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)

とはいえ、アレはどの男にとって怖いのである。いわゆる魅惑と戦慄である。宙吊りの玉 Boule suspendue はヴァギナデンタータ Vagina dentata にきまっているのである。

宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」ーー縄文ヴァギナデンタータ

美、それは《恐るべきものの始まり》(リルケ、ドゥイノ)であり、《触るなかれ! beau : ne touchez-pas 》(ラカン)である。

美は、欲望の宙吊り suspendre・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。

…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7)

オッカサマが恐いとヴァギナデンタータはよりいっそう怖くなるのである(参照「ジャコメッティと女たち」)




身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り食おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っています。それはあなたがたも知っているとおりです。(『ベトロの手紙,五八』)

ラカンの名高い鰐の口は、もちろんこのペテロの手紙が起源である。

ーー《ラカンの母は quaerens quem devoret と一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として》(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である

やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。

シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


(Alberto Giacometti's Woman with Her Throat Cut ,1932)

ーージャコメッティが、この作品の真の名を隠蔽したのは歴然としている・・・

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねに fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ1995, Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL1995)

女たちとは、遠くから眺めるのが一番である。





2017年3月7日火曜日

ジャコメッティと女たち

あなたにとっての「世界で一番カッコいい人物」」第二弾。

あの頃ロダンを愛したのはリルケが褒めていたせいだ
あの頃ドガを愛したのはヴァレリーが褒めていたせいだ
あの頃ジャコメッティを愛したのはサルトルが褒めていたせいだ

人が褒めていたから愛するようになったに過ぎない
ジャコメッティは森有正が褒め加藤周一が褒め
そのため矢内原を読んだ

1959年8月3日、矢内原は2年ぶりにオルリー空港に降り立つ。パリを走るバスのなかから認めたアネットの姿。「彼女はぼくのほうに走ってくる、彼女は喜んでいる」。矢内原の眼には、街も人も変わっていない。アルベルトはまだスイスだ。そこでアネットと公園のなかを散歩、サン=ジェルマン=デ=プレに出かけて食事をとり、ホテルに帰って愛しあう。(矢内原伊作『完本 ジャコメッティ手帖』 II

(ジャコメッティとアネット、矢内原撮影)


ジャコメッティ夫妻は、有名になり金銭的な余裕が充分にできても浴室も流し台もない、パリ最下層のアトリエに二人で住み、食事はほとんどつねにカフェでとっていたと言われている。




ジャコメッティは娼婦にところに「もらい湯」にいっていたというが、もちろんそれだけではないだろう。

以下、James Lord、Giacometti portraitから引用するが、必ずしも全面的に信用する必要はない。それは矢内原伊作の叙述もある意味そうだが、朝吹登水子や石井好子などによって人はいくらか矢内原の叙述がそれほど間違いでないだろうと憶測する「証拠」がないではない。



娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)

(ジャコメッティが晩年まで愛した Caroline Tamagno)


(アネットととものジャコメッティ)

仕事がうまく進まなくて神経がたかぶっている時に〈椿姫〉や〈冬の旅〉などが聞こえてくると『アネット! なぜヘンデルをかけないのだ』とどなったりした。ジャコメッティは他のどの音楽家のものよりも特にヘンデルのものが好きなのだ。ヘンデルの音楽は、いささかのわざとらしさも誇張もなく、全く自然で、最も『開かれた』音楽だ、と彼は言うのである。ヘンデルにくらべれば、ベートーヴェン以後のロマン派音楽はあまりにも技巧的主観的であり、『芸術』的であり過ぎる、というのが彼の意見だった。最もすぐれた芸術は『芸術』を感じさせない芸術にある。(矢内原伊作「ジャコメッティ」)

彼のなかにはニーチェだっているじゃないか! --《優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る》(ニーチェ『ヴァーグナーの場合』トリノ書簡)

四分の三の力―― ひとつの作品を健康なものらしく見せようというなら、それは作者のせいぜい四分の三の力で産み出されていなくてはならぬ。

これに反して、作者がその極限のところまで行っていると、その作品は見る者を興奮させ、その緊張によって彼を不安におとしいれる。

あらゆるよいものは、いくぶん呑気なところがあって、牝牛のように牧場にねそべっている(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的』)



アネット夫人はどうしても近代音楽の価値を夫に認めさせようとしてしきりに論じたが、ジャコメッティの方も近代芸術よりも中世或いは古代の芸術のほうが優れているという説を主張して譲らない。(……)「しかしあなたがそういう風に言うのも、あなたが近代人であり、現代の芸術家だからではありませんか」と僕が述べると、これには彼も賛成して、「確かにそうだ、(……)近代の目で見るからこそ古代や中世のものに動かされるのだ、つまり私はグレゴリアン聖歌を最も近代的、或いは最も現代的な音楽としてきいているのだ」と言った。「それならどうして(……)今日の芸術家はエジプトやビザンティンのような美術、或いはグレゴリアン聖歌のような音楽が作れないのかしら。」ジャコメッティは呟くように、しかし即座に答えて言った、「一人の力で社会を作ることは出来ないからだ」と。(同、矢内原伊作)

しかも彼はヘンデルさらにいっそうグレゴリオ聖歌を愛している。「僕の趣味と同じじゃないか!」

当時わたくしは立教に女友達があり、彼女に導かれて皆川達夫のグレゴリオ聖歌の話をこっそりききにいっていた。《まぎれもなく生月島の歌オラショ『ぐるりよざ』の原曲となった聖歌『オ・グロリオザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄光の聖母よ)』、夢にまで見たそのマリア賛歌の楽譜が記されていたのである。》(皆川達夫


(La femme qui marche,1932-1936)


乳房の下にある窪みに人差し指や中指を入れて感触を愛しんでいたくなるような作品だ。

彼の20歳代の作品の窪みだっていい。

(Watching Head,1927)


わたくしは若いころルーヴルの土産物ショップで手に入れた キクラデス Cycladesの小さな模造彫刻を撫でまわすだけで今のところ我慢しているが、どうも最近はくぼみが欲しくてたまらない。




ブランクーシのイミテーションでも手に入れるべきだろうか。




だがすぐにくぼみが物足りなくなる気がする。

おそらくコンスタンティン・ブランクーシ Constantin Brâncuşi の作品群はおおむね女性向けなのではなかろうか・・・



…………

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

 Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti)




ジャコメッティは若き時代、毎夜眠りにつく前に、自分が二人の男を殺し、二人の女をレイプして殺害することを想像した。(James Lord、Giacometti portraitより)

美には割れ目以外の起源はない。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,2000ーー「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」


(Suspended Ball 1930-1931)

ーーこの作品はアンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ等を魅了した。ジャコメッティはこの作品制作前後にシュルレアリストグループに入る(1934年に父の死があり、作風の変化をブルトンに難詰され1935年にブルトングループから離反する)。

ジャコメッティはシュレアリストのある会合にて、次の問いに答えるよう求められた。「どうやって女たちを選ぶのか?」「あなたは暗闇に身を隠す。女が通り過ぎるとき、彼女目掛けて身を投じ、強姦する」(James Lord、Giacometti portraitより)

(LE COUPLE,1928-1929)

1926ー27年に同じカップルと題された作品は、次のもの。




1925年から関係が続いていた4歳年上の米女性Flora Mayaとは1929年に別れている(Giacometti Chronology, MoMA、2001,PDF





ジャコメッティの母は、彼の家族のなかで「支配者」であり、彼は強い依存関係にあったとされる。(James Lord、1986)




さてここまで精神分析的記述を敢えて避けてきたが、ここですこしだけフロイトとラカン派の記述にお出まし願っておこう。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』ーー自分の屍骸を解剖してその病状を天下に発表する義務

(左端、ジャコメッティ)

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねに fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ1995,Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,PDF


すべての女性に母の影が落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

ジャコメッティの母の名は、Annetta Giacometti-Stampaである。

そして1943年にBrasserie Centraleにおけるディナーで、ジャコメッティは20歳になったばかりのAnnette Armと出逢う。



ーーとても美しい写真だ。



いやあ、徹底的に美しい。ブランクーシ的抱擁! 




わたくしは不幸にも若いころ、ブランクーシを褒めている人物に誰も出会わなかったので、長いあいだ彼の作品にはほとんど関知していなかったが、とてもすばらしい彫刻家であるに相違ない。もっとも現実とはこういうものではない。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳ーーうんざりすることのない愛しい妻



ーーアネット! 私のグレゴリア聖歌をヴェルディだけにはしないようしてくれ

…………

※付記

蛇足ながら、ここに写真として貼り付けたジャコメッティの作品群のほとんどは、通説では、いわゆる「真のジャコメッティ」となったと言われる1945年のモンパルナスの映画館の出来事以前のものであることを断っておく(他の作家の作品の提示も、いささかキクラデス彫刻への偏愛気味のことろがあるわたくしの「趣味」に大いにかかわっている)。

「でも、空間についてのぼくのいっさいの考えをくつがえし、ぼくを、ぼくが今いる道に決定的に導き入れてくれた真の啓示、真の衝撃ともいうべきものを、ぼくは同じころ、1945年に、ある映画館で体験したのだ。ニュース映画を見ていたのだけれどね、突然、ぼくには、そこに映っている人の姿のかわりに、三次元の空間を動いている人々のかわりに、平たい布の上のいくつかの斑点が見えたのさ。ぼくには画面に映った人々の存在がもう信じられなくなっていたんだな。

ぼくは隣にいる人を見た。すると、これがまた対照的に、何か途方もない深みを帯びているのだ。ぼくは突如として、あの深みを意識していたのだ。ぼくたちは皆、この深みのなかに身を浸しているけれども、慣れているせいで気づかないんだよ。ぼくは外に出た。すると、モンパルナスの大通りが、まるで見知らぬものに思えた。何もかも、別物になっていた。あの深みが、人々も、樹々も、事物も、変形させていたのだ。おそろしく静かだったな―苦しいほどだったよ 。あの深みの感情が沈黙を生みだし、事物を沈黙のなかに沈めているのだ。

この日に、ぼくは理解した、写真だとか映画とかは、真の意味での現実性を何ひとつも表現していないってことをね。とくに、空間という第三の次元を少しも表現していないということをね。ぼくにはわかったのだ。現実に関するぼくのヴィジョンは、映画などが持っているいわゆる客観性とは反対の極に位していることが。ぼくがこんなに強く感じているこの深みを描くように試みなければならない、ということがね」 」 (ジャン・クレイ「アルベルト・ジャコメッティとの最後の会話」 )

キクラデス彫刻にかかわっていえば、20世紀最大の古代キクラデス作家モディリアーニを忘れてはならない(モディリアーニはブランクーシに学んだが、貧困のため画家に転向したと言われている)。



ほかにもわたくしの住まいの比較的近場に存在するクメール彫刻群が、至高の「愛の呼びかけ」を以て、常にわたくしを待っているという幸福をもっている。




もちろんときには生身のほうがよいとすれば、カンボジアジプシーと当地の人が呼ぶ女たちの踊りを歩いて五分の市場裏広場にて年に数度観賞することさえできる。




ーーいやあ、ぜんぜんジャコメッティの女の話じゃなくなってしまった・・・

とはいえ、ニーチェを再掲すれば、《優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る》(『ヴァーグナーの場合』トリノ書簡)のである。すなわち《最もすぐれた芸術は『芸術』を感じさせない芸術にある》(ジャコメッティ)なのだ。




James Lordによれば、ジャコメッティは足フェチだったそうだが、彼ははたしてこんな美しい足たちに遭遇できたであろうか? もちろん蚊居肢散人がひどい足フェチであるのは知る人ぞ知るである。




われわれは、ユーラシア大陸西端の陸塊にすぎない「ヨーロッパ半島」の女たちの美を過大評価してはならない。

かつまた人は、《笑うことによって厳粛なことを語る ridendo dicere severum》(ニーチェ)ーーのでなくてはならぬ。