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2019年8月26日月曜日

奈落の母



貪り喰う空虚。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。Incontinent the void. The zenith. Evening again. When not night it will be evening. Death again of deathless day. On one hand embers. On the other ashes. Day without end won and lost. Unseen. ((サミュエル・ベケット Samuel Beckett『見ちがい言いちがいIll Seen Ill Said』)




で、おっかさん亡くなってから具合はどうなんだい?

死んだほうがもっとこわいですよ

こわいってのは?

毎夜、こんなぐあいなんですよ


(ベケット、母から子宮へ Samuel Beckett: From the Mother to the Womb.

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


ーーそうなのか、おれはまだ幸運なのかもな





批評家やら文学者ってのはありゃだめだね、おれたちの作品を、Rien[無]、vide[空虚]、creux[空洞]、vacuole[空胞]、abîme[深淵]、béance[裂孔]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、faille[断層]、trou[穴]やらとはいっておきながら、そこには女陰の奈落 abîme de l'organe fémininがあるってのに触れないんだからな、






風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)




ここまでしめしたってわかんねえんだな、あの連中は。





ジュネぐらいだよ、ずばっとみやぶったのは。




美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

アレそのものはひみつにしといてくれっていっておいたけどな




そしたら風がとおりぬけるようにわらってたよ、やつもふたりの母親もって苦労してるからな

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)




しあわせもんなんですよ、あの文学者連中ってのは。

そうだな、こっそり嗤っておけばいいんだろうな




この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス Jean-Bertrand Pontalis,『夜の境界 En marge des nuits』2010年)


でもおっかさんてのはな、おれんとこはいつまでも生きていそうだからな





どうなるんだろうな、このまま続くと?





まだいいですよ、ボクすみたいに毎夜のパクパクはないのだから

とすればあれもやっぱりアレのことなのか




じゃあこうしておこうよ、暗闇に蠢く母の徴としてな。






美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ミレール Jacques-Alain Miller L'inconscient et le corps parlant、2014)

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance 1999)

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? » 2014セミネール)