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2017年3月2日木曜日

自分の屍骸を解剖してその病状を天下に発表する義務

涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。(夏目漱石)
われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる。 (プルースト)

ーーほとんど同じことを言っている、この同時代の作家二人は。

夏目漱石  1867年2月9日   - 1916年12月9日
プルースト 1871年7月10日 - 1922年11月18日

しばしば語られる「創造による癒し」ということでもあるだろうが、なぜその癒しのシーニュを《天下に発表する義務》があるのだろう? 

【漱石】
詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上のぼった時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。

これが平生から余の主張である。(夏目漱石『草枕』1906)

【プルースト】 
悲しみが協力した作品が未来の苦しみの不吉な表徴だと解する第一の見方からすると、作品はもっぱら一つの不幸な愛と考えられ、その愛はさらにほかの不幸な愛を宿命的にまえぶれし、その結果、生活は作品に似ることになり、詩人にはもう書く必要がほとんどなくなるほど、彼はすでに書いたもののなかにこれから起ることの先どりされた形を見出すだろう。そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような相違を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていたのであ(る)。(……)
しかし、第二の見方からすれば、作品は幸福の表徴なのだ、なぜなら、作品は、どんな恋愛のなかにも普遍は特殊と並存することをわれわれに教えるとともに、また作品は、悲しみの本質を深めるために悲しみの原因である相手を閑却させながら、悲しみにたいする一種の強化訓練によって、特殊から普遍に移ることをわれわれに教えるからである。そういえば、のちになって私が経験しなくてはならなかったように、人は、愛して苦しんでいるときでも、天職がいよいよ自覚されたとなると、仕事の時間中、愛する女がより広大な現実のなかに溶けこむのを非常にはっきりと感じて、ときどき彼女を忘れてしまい、仕事をしながら、自分の恋のことをあまり苦しまなくなる、(……)
われわれはその苦しみを普遍的な形のもとに考えなくてはならないのであって、そう考えることは、苦しみの束縛からある程度われわれをのがれさせ、すべての人をわれわれの苦痛の共有者にするのであって、そのことはいわば一種のよろこびにならないわけではないのである。(プルースト「見出された時」)

このプルースト文のドゥルーズによる解釈は次の通り。

われわれが反復するのは、そのたびごとに、ひとつの個別的な苦しみである。しかし、反復それ自体は常に楽しいものであり、反復という事実は、ひとつの一般的な歓びを形成する。あるいは、事実は常に悲しく、個別的であるが、そこから抽出される観念は一般的で楽しいものである。なぜならば、愛の反復は、苦しみを歓びに変えるような意識の把握にわれわれが近づく、進行の法則と不可分だからである。われわれは、苦しみが対象に依存しなかったことを認める。それはわれわれが自分自身に向ってする《芸》であり、《道化》でありあるいはむしろ、イデアの罠と媚態と、本質の陽気さであった。反復するひとには悲劇的なものがあるが、反復の行為には喜劇的なものがあり、もっと深いところでは、法則に含まれた反復、あるいは法則の理解からえられる歓びが存在する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳)

《反復それ自体は常に楽しいものであり、反復という事実は、ひとつの一般的な歓びを形成する》とは、フロイト的には「快の獲得」、ラカン的には「剰余享楽」に相当する。《フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。》(Lacan, S21)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。(ジジェク2016, Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー二種類の対象aとフロイトの快の獲得 Lustgewinnung)

…………

さて冒頭近くの問いに戻る。なぜ癒しのシーニュを《天下に発表する義務》があるのだろう? 

わかるかい? わたくしにはわからないな、すくなくとも「義務」ではないのではなかろうか。なにか別の必然的な「強制」があるのではなかろうか。《無理に、強制される contraints et forcés》何か(ドゥルーズ=プルースト)があるのではないか。

岡崎乾二郎によれば次の理由で、人間は常に「他者」が必要だということを言っている。

「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている。(岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』「あとがき」)

それ以外にもーーもちろん食べていくために発表するということは当然あるだろうがそれはここでは割愛ーー、人間は常に愛されたいんじゃないだろうか?

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年ーー人間の宿命:「愛されたいという要求」

ここでの「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」とは、承認欲求、「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir.E.151」とほとんど等価である。

そして「他人の役に立ちたい」とは、精神分析的にいえば、その裏に隠されている「私を見て!」の投影機制である。

また観客無視(読み手に背中を向けて書く)とは、ほとんどの場合、承認欲求がないふりをする承認欲求である。

自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである(ラ・ロシュフーコー)

観客無視が上のメカニズムから逃れている稀な事例のひとつは、神という「他者」に向かうとき(いや、だがやはり神に承認されたいのではなかろうか)。

グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール、グールド『孤独のアリア』)

死ぬまで未発表の書き物を秘蔵した作家がいないわけではないが、なぜ保存していたのか、なぜ燃やしてしまわなかったのか、という風に問えば、あの振舞いも「他者」に承認されたい欲望を免れているわけではない。

他者が標準的な人とは別の「他者」であるだけである。

ここでクンデラによる「誰かに見られたい」四つのカテゴリーを示そう。

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

ーーこれは四種類の「他者」として読み替えうる。

【第一のカテゴリー】
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。

【第二のカテゴリー】
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

【第三のカテゴリー】
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

【第四のカテゴリー】
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

このクンデラの考え方は、ラカンの四つの言説理論のマテームを使用すれば、「形式的には」次のようになる。

①主人の言説:S1 → S2
②大学人の言説(知の言説):S2 →  a
③分析の言説(倒錯の言説):a   →  $
④ヒステリーの言説:$  → S1

「形式的には」としたのは、それぞれのマテームの読み方は多様であるから。

例えば、aとは、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮の背後にある空虚であったりする。③の「a」を前者として読めば、倒錯の言説であり、後者なら分析の言説である。②の場合の「a」は、基本的には飼い馴らされていない「小文字の他者a」と読む。

※詳細はラカンの「四つの言説」における「機能する形式」を参照のこと。

マテームのさらに最も基本的な読み方は、ラカンのセミネール17の冒頭近くにある次の文がよいだろう。

S1(ファルス的主人のシニフィアン) が「他の諸シニフィアンS2 autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何か quelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)



…………

とはいえ、これだけなのだろうか? おそらくそうではない。そこをしばらく考えていたのだがよくわからない。

なぜ詩人、いやそれだけでなく芸術家たちは作品を公表するのだろう。

たとえば「自分の中にいる一人の読者」という言い方がある。

小説を書く場合、私は依然として読者を意識することができない。(略)自分の中にいる一人の読者だけを意識して作品を書き上げた後に、私は自分と精神構造や感受性の似た少数の読者が、あるいはこの作品を愛読してくれるかもしれぬ、とはかない期待を抱く。しかし、大して大きな数字を予想することはできない。(吉行淳之介全集 第12巻

この「自分の中にいる一人の読者」も「他者」である(参照: 神と女をめぐる「思索」)。わたくしの最も内部にいるものは、「他者」である。

《「私」とは他者である ''JE est un autre.''》 ( ランボー)

《私は他者だ ''Je suis l'autre''》 (ネルヴァル)




親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S..7)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S.16)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

a が外密 Extimité であるならーーここでの a は実は、 空虚・穴としてのȺ とも書きうる[参照]ーー、Aは言語としてもよい。


我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「シニフィアンの集合 la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。(……)

S1 はそこに介入する。それは「特別な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

生きている個人から分け隔てられるとは、リアルな身体の(ある意味で動物的な)存在を喪失することでもある。これを象徴的去勢と呼び、われわれ人間の宿命である。

・人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)

・去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化 articulation signifiante 以外のどの場からも生じない。 (Lacan,S17, 18 Mars 1970)

この前提で、次のヴァレリーを読んでみよう。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

ーー訳者恒川氏によれば、この「他者」は言語Aである。だがかならずしもそれだけではない、と考え得る。つまりクンデラの四つの他者やラカンの四つのマテームのそれぞれを想起しうる。

やあまた、こうやってラカンに戻ってしまう。だがラカン的解釈からはずれる何かはないのだろうか。それがよくわからない。なにかウッカリ抜かしていることはないのだろうか・・・

(わたくしは象徴的登録ということをしばしば考えるのだが(たとえばこのブログ記事もそうだ)、これは「形式的には」第四のカテゴリーのはずである。)

最後にコメント抜きで福島震災後の谷川俊太郎の言葉を付記しておく。

震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。

詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(谷川俊太郎ーー震災後 詩を信じる、疑う 吉増剛造と谷川俊太郎)。