なぜ我々は、他者 l'autre を大文字のA の〈他者〉« l'Autre » avec un A とするのか。
言語によって与えられる記号を補うよう余儀なくされるときは常にそうだが、疑いもなく種々の理由がある。その理由、全ての基盤…を次に示すなら、すなわちーー、
《あなたは私の妻(女)だ Tu es ma femme》というとき、結局何を知っているのか?
《あなたは私の師です Tu es mon maître》、これについて本当に確信が持てるだろうか。
この発話 paroles に「創設的価値 valeur fondatrice」をもたらすもの…このメッセージにおいて目指されてているもの、それが見せかけ(振り feinte)として言われている場合でも同様だが、《絶対的な他者 Autre absolu》としての〈他者〉がそこにいるということである。絶対的、すなわち、この〈他者〉は気づかれ reconnuてはいるが、知られて connu はいないということである。…
同様に、見せかけ feinte を見せかけたらしめているもの、それは結局、人は見せかけか否かを知らないということである。これは本質的なことである。
この本質的な要素、《他者の他者性 l'altérité de l'Autre》のなかの直かの未知 inconnue directe の要素、これが発話関係を特徴づけるものである。(ラカン、S3、30 Novembre 1955)
このように1955年にラカンは、《絶対的な他者 Autre absolu》、《他者の他者性 l'altérité de l'Autre》を語った。
いま「他者の他者性」と訳したが、正確には「大他者の他者性」である。この1955年の時点のラカンは、「大他者の大他者は存在する」のラカンである。とすれば、「大他者の他者性」とは何だろうか。
それは一般的には「父の名」であり、フロイトのエディプスの父、ひょっとしたら「神」でさえありうる。だが「精神病」のセミネールのため(精神病とはこの当時「父の名の排除」と定義されている)、上の文にかかわる箇所の前後には「父の名」という語彙は出現しない。
もっとも名高いローマ講演(1953年)においてはもちろん、《父の名は…象徴機能の基礎である le Nom-du-Père …… le support de la fonction symbolique」》(E278)とある。これは象徴的大他者を支える大他者は父の名であると言っていることになる。
ところで、1959年4月、ラカンは突如、以前の教えとは反対のことを衝撃的に言い放つ、「大他者の大他者は存在しない」と。
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)
この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…
一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……
父の名は《シニフィアンの 場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)
……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
ミレールは2013年時点でさえこんなことを強調しているが、ラカン派内部でもまだわかっていない人びとが跳梁跋扈しているせいなのだろう。
ここでポール・バーハウ他2002の論からも引用しておこう。
初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち大他者の大他者は存在しない、と。
父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが母なる大他者の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の大他者である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002)
といいうわけだが、さてでは「大他者の大他者がない」ときの「他者の他者性」とは何なのか?
それは対象a のことであり、かつまた〈女〉のことである。
対象a とは、主体の構成の残余であり、他者の他者性 l'altérité de l'Autre の唯一の証拠である。 cette preuve et seule garantie en fin de compte de l'altérité de l'Autre, c'est le petit(a).(S10, 21 Novembre l962)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。 La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
と、ここまでマガオで記してしまったが、いやあ、ラカン派ってのは実に厄介だね、前期ラカンの「大他者の大他者」、つまり超越的な「父の名」がへばりついてしまっている旧套ラカン派もいまだたくさんいるわけで。ある時期から超越論的「父の名」になったにもかかわらず。つまりは神でも対象aでも女でもーー父の名でもフロイトの超自我でもーーなんでもいいじゃないか、他者の他者性は、って具合のラカン派がいまだいるわけで。
ラカン自身の言葉を拾っても誤解はやむえないってところはあるのだが。
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(Lacan, S17, 18 Février 1970ーー 原超自我 surmoi primordial )
無意識の仮説、それはフロイトが強調したように、父の名を想定することによってのみ支えられる。父の名の想定とは、もちろん神の想定のことである。
L'hypothèse de l'Inconscient - FREUD le souligne - c'est quelque chose qui ne peut tenir qu'à supposer le Nom-du-Père.Supposer le Nom-du-Père, certes, c'est Dieu.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)
で、セミネール20では、「神の仮説」なんて言ってるし、セミネール21では父の名に騙されない者は間違えるって言ってるんだな。
宗教的ディスクールにそまりきった連中が、ラカンが神を信じていると誤解してもやむえない・・・
……自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、女性の享楽を信じている………naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu :je crois à la jouissance de « L femme »(Lacan,S20 février 1973)
とはいえラカンも結局、神が好きだったんだろうよ、カトリック教義の臭気ぷんぷんのおっちゃんだよ。
ある時期まで、ラカンはフロイトのエディプス理論を立証し増幅あるいは拡張した。彼は、父性隠喩の公式とともに構造主義的用語を以て、子どもが母から解放されるメカニズムを描いたのだが、それは父自身の介入ではなく彼が「父の名 le‐Nom‐du‐Père」と呼ぶところのものによってである。
この概念の宗教的含意(コノテーション)は、大文字の使用によって強調されているようにひどく鮮明であり、ほとんど自動的な嫌悪感をもたらしうる。ラカンの反-母性的見解は、その家父長制の密かな神格化と相俟って実にきわめてカトリック教義を連想させる (Tort, 2000)。もし人がこの嫌悪感をなんとかやり過ごすのなら、この公式にフロイト理論との二つの主要な相違を見出すだろう。…… → 続き.(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)
21世紀もだいぶたったんだから、この時期になっていまだ神よ、神の愛よ、カトリックよと言っているラカン派がいたら破廉恥漢だと思ってまちがいなよ・・・と言い切れないところがあるわけで。
人は直接的には大他者の不在を手に入れえない。人は先ず大他者に騙されなければならない。というのは、「父の名 le Nom‐du‐Père 」とは、「騙されない者は間違える les non‐dupes errent」を意味するからだ。「知を想定された主体」の錯覚 illusion への屈服を拒絶する者たちは、この錯覚によって隠されている真理を失う。
このことは、我々に「神は無意識的である」へと引き戻す。すなわち〈神〉(知を想定された主体としての神、大他者としての神、経験上のすべての受け取り手を超えた究極の受け取り手としての神)は、半永久的な、言語の構成的構造である。〈彼〉なしでは、我々は精神病となる。ーー〈神-父〉の場なしでは、主体はシュレイバー的妄想に陥る(Lacan, “La méprise du sujet supposé savoir,” 1968)。
「知を想定された主体」としての神は、この上ないものであり、大他者、真理の場の基盤的側面である。このように、大他者は神性のゼロレヴェルである。…《もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu—le dieur—le dire (神ー神語るー語る)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説 l'hypothèse Dieu はそこにあるだろう》(Lacan, Le séminaire, Livre XX: Encore)。
我々が話す瞬間、我々は(少なくとも、無意識的に)神を信じている。ここで我々は、ラカンの「神学的唯物論」に、最も純粋な形で遭遇する。発話行為(究極的には、我々自身)そのものが神を創造する。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
ジジェクは、「父の名 le Nom‐du‐Père」としているが、セミネール21見たら、「父の諸名 Les Noms du Père」なんだよな。ジジェクってのは血液型O型じゃなかろうか・・・わたくしももちろんO型だが・・・
Alors, Les non-dupes errent et Les Noms du Père consonent si bien, qui consonent d'autant mieux que contrairement, comme ça, à un penchant qu'ont les personnes qui se croient lettrées à faire des liaisons même quand il s'agit d'un « s », on ne dit pas « les non-dupes z'errent », on ne dit pas non plus « les cerises z'ont bon goût », on dit : « les cerises ont bon goût » et « les non-dupes errent ». Ça consonne.(S21,13 Novembre 1973)
で、父の諸名ってのはなんだっけな? やっぱり女たちのことだよ。それと名付けることだね。
父の諸名(複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことである。[…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)
最初に言葉ありき、ってわけで神とは言葉のことさ。
ほかにも次の二文。超自我となっているが、実は「父の名」のことばかり私は考えてんだ、って白状しているようなもんじゃないか。
私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)
la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、le séminaire XVIII. 10 Mars 1971)
私に教えを促す魔性の力…それは超自我だ。
Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (le séminaire XXⅣ 08 Février 1977)
ま、勝手にしてくれっていいたくなるね、神でいいよ、わたくしは神を信じるね・・・言葉を信じるってだけじゃないな、神を信じるよ、 パロールparoles の「創設的価値 valeur fondatrice」ってわけだろ、これが?
パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である。La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.(Lacan,S.23、1976)
やあ、おめでとう、パロール! おめでとう、癌としての神!
でもたぶん違った神だよ、これは。
神は「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました。(interior intimo meo et superior summo meo)(聖アウグスティヌス『告白』)
いやあすばらしい、ラカンの対象a の定義みたいじゃないか。プルーストだっている、《自我であるとともに、自我以上のもの il était moi et plus que moi 》(『ソドムとゴモラ』)
私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)
やっぱり神もバラバラにしなくちゃいけないもんだろうか・・・
真ん中の丸い穴をほじくりだすために。いやそれなら神よりも女のほうがいいな。
隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味なunheimilich」と呼ばれる。(シェリングーーフロイト『不気味なもの』より )
ーー「不気味なもの」は、仏語ではそれに相応しい言葉がない。フロイトの『不気味なもの (Das Unheimliche)』は、L'inquiétante étrangeté.と訳されている。すなわち「不穏をもたらす奇妙なもの」。ラカンはこの訳語の代りに、《外密という語を発明した》(ムラデン・ドラ―、Mladen Dolar, Lacan and the Uncanny,1991、PDF)
親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S..7)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S.16)
ーーこの二文を並べるだけで、前期ラカン(セミネール7)で集中的に扱ってその後消滅した、フロイトのdas Ding(ラカンのla Chose)概念が、中期以降のラカンにとっては、対象aのことだとわかるはずなのに、いまだdas Ding 好きのラカン派もいるわけで・・・ジジェクもあれだけ対象aを語っていながらdas Ding概念を捨てていない、セミネール7以降、ラカンはまったく触れていないのに。きっとなにか理由があるに相違ない。
で、das Dingって何だっけな・・・至高善 Souverain Bien だな・・・だけれど近親相姦の対象「母」でもある・・・
…par FREUD, est celui-ci, c'est de nous montrer qu'il n'y a pas de Souverain Bien, que le Souverain Bien, qui est das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, est un bien interdit, et qu'il n'y a pas d'autre bien.(Lacan,S.7)
ーーすなわち至高善=至高悪ということになる・・・
要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
……フロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を作る何か、あるいは真っ直ぐな無限と言ってもよい(それは同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。(S.23 le sinthome, 11 May 1976)
享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 ex‐timate」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
この「異物」という語は、フロイト起源である。
トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状が形成されると、好ましからぬ衝動にたいする防衛の闘いは終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、衝動にたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
やあ、ラカンのExtimité とは、ラカン概念で最も美しい言葉だよ。フロイトの異物 Fremdkörper よりずっといい。不気味なものなんてされたら興ざめだし。
外密なんて訳語じゃなくてもっといい訳語がないものかね、昨晩一時間ほど考えていたのだがーー漢字辞典をひっくりかえしてーーどうもいけない、いい語がひねくりだせない。
せいぜい「密」を「蜜」にかえるぐらいだな。
「今度はあたしにしてちょうだい。ふたりであたしを慰めてちょうだい。ジュリエットや、その胸にあたしを抱いてちょうだい。その口にキスをしてあげる。舌を絡ませあって........、舐めあって........、しゃぶりあいましょう」続けて張形をわたしに差し出しながら、「これを膣にハメてちょうだい。ユーフロジーヌ、あんたはこの可愛い薬莢をあたしのお尻に入れておくれ。あたしのアヌスはこんなに狭いわけじゃないのよ........でもこれがいいのよ。あんた」とキスを繰り返しながらわたしに言いました。「あたしのオサネから手を離しちゃだめよ。女が一番感じるところなんだから。傷つけるぐらいにこすってちょうだい。あたしゃ、ちっとやそっとじゃだめなんだよ........慣れちまったのさ。強い刺激が要るんだよ。女の蜜にまみれさせておくれ。何十回でもイカせておくれ」(サド『悪徳の栄え』)
サドの示唆を受けて、「臥位蜜」という言葉を考えてみたのだが、どうだろうか、 Extimité の訳語に。Extimité とはこれもラカンがふんだんに使用する ex-sistence(外立=現実界)とほとんど等価であり、このハイデガー用語でもある ex-sistence の語源は、extasy である・・・いやあでも「臥位蜜」じゃちょっと刺激が足りない・・・「害蜜」でもダメだ・・・潮吹きのイメージが欲しい…「吹蜜」?……
ところでーー話を戻すがーーラカンはこんなことも言っている。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)
神はやっぱり迂回したほうがいいんだろうか。それとも迂回するのは女のほうだろうか。迂回といっても安心させられる。「女を使用する条件のもとで」らしいから。
さてもう一文付け加えておこう。
私が今年取り組んでいるのは、フロイトが明らかに考慮に入れていないことである。
フロイト曰く « Was will das Weib ? »、つまり «女は何を欲するのか? Que veut la Femme ? »ーー フロイトは、男性的リビドーだけがある il n'y a de libido que masculine と主張した。それはどんな意味だというのだろう、明瞭に無視してよいわけではない領野が無視されているのでなかったら? すべての人間にとってのこの領野…言わば…あなたがたがそう想定するのがお好きなら…彼女の宿命…
…彼女を女 La femme と呼ぶのは適切でない。…女は非全体 pas tout なのだから、我々は 女 La femme とは書き得ない。唯一、斜線を引かれた « La » 、すなわち Lⱥ があるだけだ。
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。…(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
女は S(Ⱥ) である、女は非全体である、と言っているわけだが、上にながながと記した叙述からは、女は外密で対象a、あるいは神だった。
で、S(Ⱥ) と対象a とどう違うんだろ? わかるかい? わたくしにはわからんし、仮に「わかったふり」をするにしても今の三倍ぐらい引用する必要があるね・・・
でもえらいラカン派もいるよ、たとえばブルース・フィンクはすでに1990年代に、S(Ⱥ)はS(a) とも書けるんじゃないか、ーーラカンの教えの時と場合によって書ける場合があるんじゃないかとーーと、恐る恐るだけど指摘してるから(わたくしはフィンクはあまり読まないけどさ、彼は誠実すぎておもしろくないんだな・・・)。
…………
結局、わたくしは次のミュッセの言葉を信じるね、これでいいんじゃなかろうか、ラカン理論の核心というのは。
女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)
もっともこれは母が欲することは、神も欲する、と言い換えねばならない。
ジジェク組のムラデン・ドラ―が1990年代に次のように記している。
ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として特定した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに強烈で本源的である。ーー声は生命の最初の顕現ではないだろうか? 自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか? そして母の声は最初の〈他者〉との問題含みの繋がりではないか? それは臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、生の最初期の段階の宿命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー1996、Mladen Dolar, The Object Voice)
というわけで、女=母が神であるのは、当たり前なのである・・・日本の昔の庶民の言葉遣いにわずかでも思いを馳せれば、ラカン理論の核心がわかる。
そのころには、一夏過したお増の様子がめっきり変っていた。世のなかへ出た当時の、粗野な口の利き方や、調子はずれの挙動が、大分除れて来た。櫛だの半襟だの下駄などの好みにも、下町の堅気の家の神さんに見るような渋みが加わって来た。どこか稜ばったところのあった顔の輪郭すら、見違えるほど和らげられて来た。(徳田秋声『爛』)
しっかりとした老人の声に、もうはずれの角に近い茶店を見ると、軒からお赤飯とか、ところ天とか、埃まみれの札をさげ、小笊に盛った里芋やらちょっとして土産物やらを並べた店さきに、主人〔あるじ〕らしい中年の男とそのお神さんらしいのが立って、驚きの色も見せず、若い女の肩につかまって着いた老人を、おかしそうに眺めやった。(古井由吉『中山坂』)
だからややこしい注釈を読まなければいけなくなる。
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。
これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。
この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。
事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。
そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF)
《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan.S5)
ーー勝手きままな法であるには相違ないが、あなたを最初に愛称で命名したのはほとんどの場合、母であるだろう。
父の諸名(複数の父の名) 、それは、何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)