2017年1月19日木曜日

「神さん」という原超自我

以下、「神と女をめぐる「思索」」の別ヴァージョンである。

前回、女は神であること、究極的には母=神であることが「理論的に」証明された(?)。すなわち昔の日本庶民の言葉遣いが正しいことが証明された・・・(何度か記しているがわたくしの三点リーダー記号は(笑)のかわりである・・・)。

しっかりとした老人の声に、もうはずれの角に近い茶店を見ると、軒からお赤飯とか、ところ天とか、埃まみれの札をさげ、小笊に盛った里芋やらちょっとして土産物やらを並べた店さきに、主人〔あるじ〕らしい中年の男とそのお神さんらしいのが立って、驚きの色も見せず、若い女の肩につかまって着いた老人を、おかしそうに眺めやった。(古井由吉『中山坂』)

ここではこの《主人〔あるじ〕らしい中年の男とそのお神さんらしいの》を「理論的に」解釈してみることにする・・・

この古井由吉の示唆あふれる文は、「Φ らしい中年の男とそのS(Ⱥ) 」と翻訳できる。よりわかりやすく日常語でいえば、「主人とヴァギナ・デンタータ」、「張りぼてファルスとブラックホール」である。

…この過程の出発点において、フロイトが「能動的」対「受動的」と呼んだ二つの傾向のあいだの対立がある。我々の観点では、これはS1(主人のシニフィアン)とS(Ⱥ) とのあいだの対立となる。S(Ⱥ) 、すなわち女にとって男のシニフィアンの等価物の不在ということである。この点において、正規の抑圧に関してフロイトによってなされた区別を次のように認知できる。

引力:抑圧されねばならない素材のうえに無意識によって行使された引力。それはS(Ⱥ) の効果である。あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。

斥力:すべての非共存的内容を拒絶するファルス Φ のシニフィアン S1 から生じる斥力。

この関係は容易に反転しうる。すなわちすべての共存的素材を引き込むファルスのシニフィアンと、他方でその種の素材をまさに排斥するS(Ⱥ)。

(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF


フロイトの「能動的」対「受動的」については、「すべての乳幼児にとって、母は「男」である」にて詳述した。

引力/斥力については、ここではフロイトからではなく、ドゥルーズの簡潔な文を掲げておくのみにする。

エロスは己れ自身を循環として・循環の要素として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトスでしかありえない。両者は、愛と憎悪、構築と破壊、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ただしバーハウの記述にある反転のメカニズムはドゥルーズ解釈内では理解しがたいだろう。 だがそれは記述しだすととても長くなってしまう。ここでは当面、「「原始的な快自我 primitiven Lust-Ichs」と「世界」」を参照してもらうことにする。

他方、これまた前回示したように、S(Ⱥ) とは対象a のことである(すくなくともある時期のラカンにとって)。その観点にて、ジジェクの次の文を読むと、すべてが(?)明瞭になる。

女の問題とは、(……)空虚な理想の象徴的機能を形作ることができないことにある。これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

もうひとつバーハウ1999 の記述を補うために次のジジェク文をつけ加えておこう。

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

…………

ここまでで明瞭にならない方は、「原超自我」にて集中的に資料が掲げてある。ここでは簡潔に核心的箇所だけを引用しよう。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ジャック=アラン・ミレールによる母なる超自我の注釈は次の通り。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ無分別な法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、この「一」のシニフィアンから生まれる徴候でありパラドックスである。というのはそれは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996よりの孫引き,PDF)

肝腎なのは、母なる超自我=S(Ⱥ) 、そして「法なしの気まぐれ勝手放題の母の欲望」である。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan.S5)

ここでも「母の法」をサントーム(人間の原症状)とともに語るGeneviève Morel 2005 で補足しておこう。

サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

さて前回見たように、ラカンのマテームS(Ⱥ)とは、La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme を徴示するシニフィアンである。

そしてジジェクの記述にある「享楽の父」=〈女〉とは、ラカンの次の文に現れる「原父 Père originel 」と「非去勢la non-castration」、すなわち純粋享楽の「超自我surmoi」のことである。

Quelle est l'ordonnance du surmoi ?

Précisément, elle s'origine de ce Père originel, plus que mythique, de cet appel comme tel à la jouissance pure, c'est-à-dire aussi à la non-castration. (S.18, 16 Juin 1971)

もちろん、あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)とは、「母なる鰐の口」のことでもある。摘要すれば次のようになる。

母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望である c’est le désir de la mère((ラカン、S17, 11 Mars 1970)

この鰐の口についても詳細版は、「原超自我 surmoi primordial」をみよ。

だが肝腎なのは日本古来の言葉「神さん」に十全に思いを馳せることである。

もちろんこれまた前回強調したようにミュッセの文で味付けしてもよろしい。

女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)

ーーーというわけだが、もちろんわたくしは、ほとんど誰にもわからないのをよく知っている・・・

…………

とはいえブラックホールぐらいはおわかりになるのではなかろうか?

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

人はまずは、S(Ⱥ)とはȺを徴示するシニフィアン、 「神さん」という原超自我、ヴァギナ・デンタータ、ブラックホールと捉えておけばいいのである。

宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)

ーーいやあ、簡潔に記すつもりだったんだが、また長くなってしまった・・・