いかなる経験もそれ自身では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自らを決定するのである。(アドラー『人生の意味の心理学』)
ーーという文を拾った。すばらしいんじゃないか。これは人生に対する基本的な態度である。
過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)
より一般的に言えば、次の文がいい。
赤ちゃんがはじめて笑うとき、その笑いは絶対になにも表現していない。幸福だからといって笑ったりしない。むしろこういったほうがよい。赤ちゃんは笑っているからこそ、いま幸福なのであると。赤ちゃんは笑うことに快楽を感じているのだ、食べることに快楽を感じるのと同様に。(アラン『プロポ集』杉本秀太郎他訳)
日本で流通しているアドラーの「心理学」と言われるものは、人生指南としてはごく標準的な啓蒙の教えのように思える。ましてやある時期からーーとくに21世紀に入る前後ぐらいからーー、トラウマという用語は、消極的人生の言い訳に使われる例もしばしば見受けられるのだから。「社会の心理学化」(樫村愛子) の時代にはなおさらアドラーのような視点が必要である。
そもそも最初からトラウマ、あるいはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を名乗る患者は疑わなければならないという議論は、すでにかなり前からなされている。
たとえば日本におけるトラウマ論者の代表的な一人である中井久夫をふたたび引用すれば次の通り。
だが問題は、「トラウマは存在しない」という「超訳」アドラーの言葉が、日本社会にあまりにも厚顔無恥に流通してしまっていることだ。
(もっともわたくしはいくらかアドラーの言葉を垣間読んだだけなので、あまりエラそうなことは言えないが、フロイト文脈からのアドラーというのはいくらか追ってみたことはある[参照])。
たとえば次のような状況にある人にどう対応するつもりなのか、トラウマ否定論の留保なしの流通は、ある意味、「犯罪行為」でさえある、とわたくしは思う。
ラカン自身、その欲動論を全面的に展開する以前は次のように言っている(とはいえ、欲動論の展開後のラカン、そのラカンの主流ラカン派の現時点の注釈は、《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ジャック=アラン・ミレール、セミネール2013-2014ではあるが)。
これも人生に対する基本的な態度を語っている。
この文の注釈は、ポール・バーハウの文がよい(彼はフロイト・ラカン派で最も頻繁にトラウマ分析をしている解釈者のひとりである。わたくしは五年ほどまえ中井久夫の外傷論を読むなかで、ラカンはどのように考えているのかをいくらか探って彼に巡り合った)。
ラカンの「前未来 futur antérieur」とともに、フロイトの概念「神経症選択 Neurosenwahl」に注目して読もう。
PTSDは社会的差別を生まない唯一の病名であるが、だからといって患者が心的外傷と関連症状をあっさり述べるわけではない。米国において「PTSDとは正常人が異常事態に起こす正常な反応である」(これはPTSD-PTSR関連をごまかしているが)というPRが大々的に行なわれるのは外傷患者の診療回避があってのことだろう。実際、初診において向こうからPTSDを名乗ってくる患者の中には果たしてそうかという場合がある。
一般に外傷関連傷害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴うことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。
心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。
しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密に土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行なわれつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。
天災においてさえ、恥の意識はありうる。「他の人たちは我慢しているのに」「生きのびただけでも感謝するべきなのに」「私の弱さをさらけだしたくない」など。「死んだ人(家をなくした人)に申し訳ない」という生存者罪悪感もある。たとえば周囲が皆倒壊している中で一軒だけ倒壊しなかった家の人の持つ罪の意識である。性的被害や児童虐待においては、なおさらのことである。 ……(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)
だが問題は、「トラウマは存在しない」という「超訳」アドラーの言葉が、日本社会にあまりにも厚顔無恥に流通してしまっていることだ。
(もっともわたくしはいくらかアドラーの言葉を垣間読んだだけなので、あまりエラそうなことは言えないが、フロイト文脈からのアドラーというのはいくらか追ってみたことはある[参照])。
たとえば次のような状況にある人にどう対応するつもりなのか、トラウマ否定論の留保なしの流通は、ある意味、「犯罪行為」でさえある、とわたくしは思う。
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)
ラカン自身、その欲動論を全面的に展開する以前は次のように言っている(とはいえ、欲動論の展開後のラカン、そのラカンの主流ラカン派の現時点の注釈は、《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ジャック=アラン・ミレール、セミネール2013-2014ではあるが)。
私の歴史において実現されるものは、もはやそうであったものとしての定過去ではなく、私があるところの現在完了でさえもない。そうではなく私が生成変化(過程)にあるところのそうなるであろうという前未来である。
Ce qui se réalise dans mon histoire, n'est pas le passé défini de ce qui fut puisqu'il n'est plus, ni même le parfait de ce qui a été dans ce que je suis, mais le futur antérieur de ce qu'aurais été pour ce que je suis en train de devenir. (ラカン、 精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野 Fonction et champ de la parole et du langage「ローマ講演、1953」)
これも人生に対する基本的な態度を語っている。
この文の注釈は、ポール・バーハウの文がよい(彼はフロイト・ラカン派で最も頻繁にトラウマ分析をしている解釈者のひとりである。わたくしは五年ほどまえ中井久夫の外傷論を読むなかで、ラカンはどのように考えているのかをいくらか探って彼に巡り合った)。
問題は患者のトラウマ的状況への立ち位置にある。人は患者を外的動因のたんなる犠牲者とするのかーーすなわち彼もしくは彼女は援助や支援を受ける権利があることを意味するーー、あるいは人は患者をただ単に犠牲者としてだけではなく彼(女)自身の影響、更に言えば限られた形での選択をもつものと見なすかである。この二つの答えのあいだの相違は、支配の言説と分析の言説の相違として理解できる。
この議論が、その多寡はあれ「ポリティカル」文脈でなされるなら、患者は犠牲者あるいは生き残り者と見なされる。逆に臨床文脈では、治療者は二番目のアプローチをとる。たとえば、Judith Herman とJames Chu はともに強調している、感情的距離の必要性を。つまり過剰に支援する役割から距離をとることを。
Herman は患者から責任を取り除くことを、治療上の主要な誤りの一つとしている。Chu は、何がどのように患者に起こったのかを理解することは患者の責任の手中にあるとする。そして彼がまた強調するのは、選択の要素である。これらの考え方は、元来のフロイトの考え方、いわゆる「Neurosenwahl」(神経症選択)と共鳴する。これは偶然の一致ではない。というのはまさにこの要因が精神療法を可能にするのだから。
もし人が最初の答に固執するのなら、完全な決定論、したがって治療上の悲観主義に終る。さらには宿命論とさえ言える。すなわち患者は、彼(女)のトラウマ経験のために、彼がそうならざるを得なかったものになる。もし人が二番目の答を選ぶなら、そこには最低限の選択要素と主体の掛かり合いの余地がある。これがまさに主体が変りうる最低限の条件である。ラカンが「過去時制」に対して「前未来 futur antérieur」を強調する事実とは、「私は私がすでにそうあったものになる」の代わりに、「私は私の選択を通して私であるものになるだろう」ということである。現在の選択が主体の未来を決定する。(ポール・バーハウ1998、Paul Verhaeghe 、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、PDF)
ほかにも向井雅明氏による「精神分析とトラウマ」(2014)は、フロイトとラカンのトラウマにかんする考え方、そして心理学的対応と精神分析的対応がいかに異なるのかを知るためには、とてもすぐれた小論だと私は思う。