2017年1月21日土曜日

多神教的「父なるレリギオ」のために

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

中井久夫の「超自我」概念は自我理想と超自我をラカン派のようには区別していないが、ラカン派においても自我理想と超自我は、結局コインの裏表なのであって、上の中井久夫のフロイト的超自我概念をめぐる記述はなんの問題もない(参照:「自我理想と超自我の相違(基本版)」)。

父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる(……)。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、“母”である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。(同、中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003)

今、「母子の時間、父子の時間」から引用した文の議論は次のように図示できる。




これはラカン派的にはおそらく次のような図と相同的である。




上の図のように記せるだろうと推測できる根拠として以下にいくらかラカンから引用列挙する。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)
父の諸名 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(LACAN 、S22,. 3/11/75)

何が言いたいのか。

1989年以降の「市場原理主義」あるいは「新自由主義」、「資本の論理」の時代とは、おそらくオルギア(距離のない狂宴)、「母の法」ーー制御不能の勝手気ままの時代である。

後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。(マルクス)

《事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから》(柄谷行人)、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(中井久夫)。

その時代に対抗するために、父の名、超強制的倫理的超自我に戻る必要はまったくない。だが父なるレリギオ(父の諸名)が必要である。

それがたとえばラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールの《私たちは、父たちを彼らの役割へと教え直したい世紀のなかにいる》( Colette Soler,PDF)の意味であり、かつまたジジェクなどが「主人のシニフィアン」という用語を使って、くり返し強調していることである。

現実 reality はそれ自体、不安定で非一貫的なものだ。したがって、現実は、それ自体を一貫的な領域へと安定化するために、主人のシニフィアンの介入が必要である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

おそらく多くの人は、ラカン派の使う「父」やら「主人」いう用語について誤解があるのではないか。だが「父の機能」を使用しなければ、いわゆる母子の二者関係になってしまう。それが「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる現在の状況の主要な理由のひとつである。

もしわれわれが「すべての動物は平等である」の時代に生きているのが本当ならば、これが必然的に意味するのは、差異の消滅である。権威は差異を基盤としているという事実の観点からは、この意味は、権威は消滅したということである。

われわれにとって不幸なことは、望まれた帰結――「平等と自由」が実現されるのは、不成功に終わっていることだ。そしてその代わりに、われわれは直面しているのだ、少なくともヨーロッパでは、たえず増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムに。往年の権威の代わりに、われわれはいっそうの権力に遭遇する。権威と権力はなにか違ったものだ。

重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

肝腎なのは多神教=父の諸名的縫合、非強迫的な父のレリギオという「権威」の可能性を探ることだろう。日本の文脈でいえば、明治以降敗戦までに存在した「強迫的な父の名=疑似一神教」に戻ってはならないが、多神教的父の諸名は必要なのである。

強迫的な人たちは、はげしい攻撃衝動を内に秘めていることが多い。彼らは、この攻撃衝動を自覚するとき、きわめて不安になる。この、自己の攻撃衝動に対して起こす不安に対して、自己を防衛するものが強迫性格であるという説明は一応受け容れられる説明である。事実、強迫行為、たとえば整頓癖を無理に抑えるとはげしい不安がおこる。この防衛的性格は通常決して意識されない(中井久夫「サラリーマン労働」『「思春期を考える」ことについて』初出1970年)

攻撃欲動は誰にでもあるが、一般的にはこういうことだろう。すくなくともヒステリー的(エロス的)な人たちに比べてれば 強迫性というのは攻撃欲動の仮面であることが際立っている。

ラカンは、芸術=ヒステリー・宗教=強迫神経症・科学=パラノイアは人間の昇華形式の三様式だと言っているが[…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan,S.7)]、21世紀は科学の時代とも言われるわけで、こっちのほうも場合によっては反復強迫的な死の欲動に向ってしまう。

科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDF

いや、ここではこの話をするつもりはない。ただ一神教の強迫性を強調したかっただけである。

そして人は次の二つの傾向を、環境にしたがって持つというのも事実だ。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014,Paul Verhaeghe What About Me? )

さて父の諸名とは、上に引用したラカン文に「名付け」が強調されていたように、まずは「新しい言葉」を発明することでよいとされる。ときにそれが社会的縫合機能を生む、と。

主人のシニフィアン signifiant-Maître とは何か? 社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「クッションの綴じ目 point du capiton」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー La nouvelle harmonie」に変ずるのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ラカンはアンコール(セミネール20)にて、次の詩を引用して主人のシニフィアンを語っている、《君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる [Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie] 》(ランボー「A une raison」)

ラカン曰く、人が「昼と夜」と言えるようになる前には、昼と夜はない。 ただ光のヴァリエーションがあるだけだ。

世界に「昼と夜」というシニフィアンが導入されたとき、何か全く完全に新しいものがうまれる。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm、 Jacques-Alain Miller