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2017年1月22日日曜日

一瞬よりはいくらか長く続く朝の歌

この亜熱帯の土地では、今が最も涼しい季節である。

今年はエルニーニョのせいで涼しさの訪れるのが遅れたための「今」であり、例年は11月初めに雨季の終りがあってそのあとしばらくしてからの一か月ほどが最もすごしやすい。今年は12月になっても雨が降り湿度が高かった。この1月に入ってようやく乾季らしくなったが、この時期は本来の涼しさの絶頂期はすでに終わっている。だから現在涼しいといっても、Tシャツを脱いで上半身裸で過ごすことさえある。

朝、乾いた空気のなかで、裏庭の白木蓮の葉が陽に輝いて揺れているのを眺める。鳥語がきこえ虫語がきこえる。遠くから鶏語もきこえてくる。音楽などいらない。なんという刻限だろう、とふと思う。暑い国なのでふだんは天井扇が回っている。だが今はその雑音がない。静けさのなかで鳥語をきくのはほとんどこの時期だけだ。そのせいでの至福の時でもある。木蓮の花の匂もまるで耳できくかのようだ。

薄田泣菫に「木犀の香」というとても美しい小品がある。

……晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。 

晦堂は静かに口を開いた。「木犀の匂をお聴きかの。」 山谷は答へた。山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感歎したといふことだ。 

ふと目に触れるか、鼻に感じるかした当座の事物を捉へて、難句の解釈に暗示を与へ、行詰つてゐる詩人の心境を打開して見せた老師の搏力には、さすがに感心させられるが、しかし、この場合一層つよく私の心を惹くのは、寺院の奥まつた一室に対座してゐる老僧と詩人との間を、煙のやうに脈々と流れて行つた木犀のかぐはしい呼吸で、その呼吸こそは、単に花樹の匂といふばかりでなく、また実に秋の高逸閑寂な心そのものより発散する香気として、この主客二人の思を浄め、興を深めたに相違ないといふことを忘れてはならぬ。……(薄田泣菫「木犀の香」)

年寄り地味たことをいえば、こういった時間の流れに身をまかせているわずかな時間が、わたくしの最も幸せの刻限である。最近そのように思うことが多くなってきた。

それはプルーストのいう「すきま風」の感覚でもある。

……彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのない無意識的な回想 réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」 井上究一郎訳)

もちろんこれは真の静けさの時間がふだんは欠けているから、こう思うのであって、たとえば穀物のエキスを一杯キュッとやるときとか、パイプに香り高い葉を詰めて吸い込むときとか等々、じつはどっちのほうが幸せかは実際のところは言い得ない。後者はふだんそれほど欠けていないから貴重だとは思わないだけだろう。

ーーと記していたら、雨が降って来た。例年は絶対といっていいほど降らないこの時期なのに。

音楽などいらないと上に記したが、この静けさに対抗できる音楽は何か。わたくしにとっては、シューマンの「暁の歌」である。わたくしはバッハを愛するが、どうもバッハにはこの静謐に対抗できそうな曲が思い浮かばない。なによりもシューマンが狂気に陥る直前に書いたあの「朝の歌」が、この今の静けさと「測りあえるほどの」作品として自ずと浮かんでくる。いつの間にかそれほどの掛け替えのない曲になっている(5年ほど前に初めて聴いたばかりなのだが)。

Piotr Anderszewski / ピョートル・アンデルシェフスキの演奏がわたくしのお気に入りだ。

◆Schumann - Gesäng der Frühe - I. In ruhigen tempo




ーー後半がフォルテになりすぎなかったらもっといいのだが。

ほかの演奏家のものも聴いてみる。だがシフも内田もポリーニ、シューマン専門家のデームスもわたくしには何かが不満だ。アンデルシェフスキがいい。

と、ききくらべしているなか、合唱曲に編曲したものを見出した。ここに貼り付けておこう。


◆Holliger conducts Holliger: Gesänge der Frühe, nach Schumann & Hölderlin (1987)



ーーいやあわるくない。ざわめきのなかから立ち昇る朝の歌。わたくしは朝の歌の旋律そのものがひどく好きなのだ。Holligerはオーボエ奏者でもあるようだが、ここにはバッハがあるといってよい。そしてなんとヘルダーリンとの組み合わせ!

ひっそりと街は静まる。灯のともされた小路にひと気は絶え
松明の飾り馬車のひびきは遠ざかる
昼の楽しみにもひとは倦み 憩いをもとめて家路をたどり
得失をかぞえ賢しい頭〔こうべ〕は
家にくつろぐ、ぶどうも花もとりかたされ
手仕事のいとなみの跡とてなく 広場のざわめきもいまはとだえる
ふと弦の音が遠くあたりの庭からひびきだす。おそらくは
愛するものがつまびくのか あるいは孤独な男が
遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか。泉は
絶え間なくあふれ ひたひたとかぐわしい花壇にここちよい
夕暮れの大気の中 ひっそりと鐘が鳴り
数を呼ばわり夜警が時をふれまわる。
いま風がたち 杜の梢をひそかにゆする。
見よ! われらの大地の影の姿 月も
しのびやかにたちのぼる。陶然たつもの 夜がきたのだ。
星々に満ち われらのことなど気にとめぬ顔に
目を見張らせ ひとの世にあり見知らぬものが
山のかなたに悲しげにまた壮麗にたちのぼり輝きわたる。

「パンと葡萄酒」からだが、こういった大地のふかぶかとした感覚は日本やフランスの詩にはめったにないのではないか(インドにはある)。黄昏時、この二品だけの食事をとるときだってーーたとえば愛する人と一緒にーー、最も至福の時のひとつかもしれない。

(ほかにチーズぐらいはほしいかな……いやオリーブ入りの全粒粉のパンやライ麦の黒パンだったらそれでいい)

愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テキストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持ちになればいいのだ。私は必ずしも快楽のテキストに捉えられているわけではない。それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落ち着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

と『朝の歌』--わたくしはロラン・バルトにこの曲を教えられたーーを聴いているうちにバッハ演奏家のエディット・ピヒト=アクセンフェルトEdith Picht-Axenfeld の演奏に出会った。この「朝の歌」はかなりいいな・・・和音を崩さなければもっといいのに・・・

◆Schumann - Gesänge der Frühe, Op. 133 - Edith Picht-Axenfeld




冒頭、啜り泣き、嗚咽感、その後の展開で、遠くの手の届かない高みに手を伸ばそうとするかのようなシューマン特有の憧憬感覚を強く与えてくれるが、いかんせん大時代的な演奏ではある(同じ大時代的なら、「総統のピアニスト」Elly Ney エリー・ナイの演奏で聴いてみたかった)。でも第4曲はひどくいい。

エディット・ピヒト=アクセンフェルトのことはまったく知らなかったが、今いくらか見てみたらカラヤンやディスカウとも共演している。

ニーチェ研究家で知られる哲学者ゲオルク・ピヒトの奥さんともある。

幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番)

エリー・ナイの名を思い浮かべたので、彼女のシューマン、Etudes Symphoniques, Variations Posthumes, No. 5をも聴く。実に奇跡のような演奏だ。




…………

大江健三郎にも「一瞬よりはいくらか長く続く間」というとても美しい表現がある。冒頭に記したような刻限に巡り合うと、この文章を想い出す。

……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。……

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? 

……私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? (大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』)