2017年1月23日月曜日

「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」

カフカとプルーストという二人の偉大なオイディプス的人間は、ただ笑うためにオイディプス的なのである。そしてオイディプスを真にうけている人びとは、死ぬほど悲しい彼らの小説あるいはそれについての注釈を自分自身に接木することが、いつでもできる。それにしても、こういう人びとが何を見失っているか推測してほしい。超人的次元の喜劇、オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

les deux grands œdipiens, Proust et Kafka, sont des œdipiens pour rire, et ceux qui prennent Œdipe au sérieux peuvent toujours greffer sur eux leurs romans ou leurs commentaires tristes à mourir. Car devinez ce qu'ils perdent : le comique du surhumain, le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère.

ラカン派でしばしば言及される「現実界の顰め面」というのは、ラカンによるDGのパクリかもしれないな。

じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、1973年)

この文は、「現実界」は「現実のしかめ面」と捉えるべきではないか。それは「分裂的笑い」が「エディプスのしかめ面」であるのと同様に。

つまりは、「現実界のしかめ面」とは、「現実界という(現実の)しかめ面」とすべきではないか。実際、ジジェクは初期からそう捉えているようにわたくしには読める。

一般に、これら純粋な欲動の具現化は仮面をかぶっている。なぜか。おそらく、現実界についてのラカンのいささか謎めいた定義を通して、その答えが得られるだろう。『テレヴィジョン』の中で、ラカンは「現実界のしかめ面 grimace of the real」という表現を用いている。つまり現実界は幾層もの象徴化の下に隠された到達不可能の核ではなく、表面上にある。すなわち、いわば現実の過度の変装のようなもの、要するに、映画『バットマン』におけるジョーカーの顔に貼りついた歪んだ微笑みたいなものである。ジョーカーはいわば自分自身の仮面の奴隷になっていて、その盲目的衝動に翻弄されている。死の欲動はこの表面上の歪形の中にあるのであって、その下にあるのではない。本当に怖いのは笑っている間抜けな顔であって、それが隠している歪んだ顔ではない。

このことは日常的に子どもを観察しているとよくわかる。子どもの眼の前でわれわれが仮面をつけたとする。子どもは、その下にはよく知っているわれわれの顔があることを知っているわけだが、それでも怖がる。まるで、言葉ではあらわせない何か邪悪なものが仮面にとりついているかのように。このように仮面が位置しているのは、想像界でも象徴界でもなく(つまり、われわれが演じている象徴的な役割を示しているのではなく)、現実界である。ただし、それはもちろん、現実界を現実の「しかめ面」と捉えた we conceive the real as a "grimace" of reality 上での話しである。(ジジェク『斜めから見る』原著1991年、鈴木晶訳)

もっともこの読み方は、ラカンの発言、《現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実 réalité 》を反転させていることになる。

Adrian Johnston は「Zizek's Ontology: A Transcendental Materialist Theory of Subjectivity」2008年にて、《Žižek reverses this description: the Real is a grimace of reality》と指摘しつつ、次のように叙述している。




このあたりは、わたくしはラカン自身の叙述よりもジジェクの解釈を取りたいのだが、というのは、もしそうすれば、ドゥルーズ&ガタリの《オイディプス的なしかめ面の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いle rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne》とともに素直に読めるから。エディプスとはまずはわれわれの現実であるあろうし、分裂的笑いは現実界だろう。

「オイディプス的しかめ面の背後にある分裂的笑い」をラカン語で言い直せば、「ファルス享楽の彼方(非全体)に外立する他の享楽」ということになる。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence] 、象徴界[ le symbolique ] は穴 [ trou ] 、想像界 [ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ](LACAN,S22,18 Février 1975)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (LacansS20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique の彼方(非全体pas-tout)にある他の享楽 autre jouissance とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)である。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

外立は外密に言い換えてもよい。 すなわち「ファルス享楽の非全体に外密する他の享楽」と。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDF)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)

…………

たとえば中井久夫の叙述から例を出そう。

オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者でもすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。この持続時間の差がなにを意味するのか、と彼は自問する。

私は回復期において一週に一、二回、数十分から二、三時間、“軽症再燃”する患者を一人ならず診ている(慢性入院患者がごく短時間「急性再燃」を示すという報告も別にある)。なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな“異常体験”への裂け目がはじまる。しかし、じっとして“ふりまわされぬ”ようにしていれば、この兆候的なもののひしめく裂け目は閉じ、すべてが過ぎ去ることが判ってきて、そのようにしているとーーー決して愉快な時間ではないがーーーいつのまにか消えてゆく。この場合、ガラスにひびの走るように拡がって急速なパニックには陥らないわけで、どうやら多くの“分裂病性異常体験”は、その基底にある不安あるいは(対人的)安全保障喪失感の“量”というか根の深さいかんで、恐慌状態になる場合からほとんど看過ごされる場合まで実に大きな幅があるようだ。幻聴でも、すこし聴こえただけで参ってしまう人もあるが、「大学教授なら停年までつとめられる例がある」とも聞いた。もっとも、持続時間を決定している因子はまた別かも知れない。(中井久夫『分裂病と人類』)

 《自転車で人ごみのなかを突っ走る》、そうすると現実の《裂目》が生じる。これが現実というしかめ面である。そして場合によって兆候的なもの=分裂的なものが犇めく。

すなわちドゥルーズの言い方なら《蜘蛛になる》のだ。

しかし、器官のない身体 un corps sans organs とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュ moindre signe がその内部に到達する。

『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手の極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用 tout usage volontaire et organisé もできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされる contrainte et forcée ときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用 l'usage involontaire を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描 une ébauche intensive としてである。

そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性 Sensibilité involontaire、無意志的な記憶作用 mémoire involontaire、無意志的な思考 pensée involontaire。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモcorps-toile-araignéeである。

語り手の奇妙な可塑性 Étrange plasticité。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人 le fou ーー普遍的な分裂病患者 I'universel schizophrèneである語り手のこの身体=クモが、そこから自分自身の錯乱délireの操り人間、器官のないおのれの身体の強度な力 puissances intensives de son corps sans organes、おのれの狂気のプロファイル profils de sa folie を作るために、偏執病患者 paranoïaque であるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂 érotomane であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章ーー「思考のイマージュ」の遷移

ドゥルーズを長々と引用してしまったが、中井久夫に戻ろう。彼は次のように記している。

ほとんど常に分裂病的でありうる狩猟採集民たちは、 《三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風のはこぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知する(……)。(砂漠において)彼らに必要な一日五リットルの水を乾季にほとんど草の地下茎から得ているが、水の多い地下茎と持つ草の地表の枯蔓をそうでない草のそれから識別する》(『分裂病と人類』)

これはわれわれ通常人にもときに起こる。

徴候化は、対象世界にも、私の側にも起こる。対象の側に起こる簡単な場合には、山で道に迷った場合があろう。「道に迷った!」と直観した刹那に、人はもはや眼前の美しい森やこごしい断崖に眼を注がない。ささやかな踏みわけ跡らしきものを、けものみちであるか、先人のとおった跡であるかを見分けるために、ごく些細な徴候を捜して、明確な対象は二の次三の次になるだろう。これが、世界が徴候化する場合のごくわかりやすい一例である。。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

中井久夫には、分裂的兆候感覚の定義として、《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》や、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》という美しい表現があるが、上に引用した文はそのことを別の仕方で語っている。

少し前、ドゥルーズの蜘蛛と器官なき身体をめぐる文章を引用したが、ミレール派の主要論客 Pierre-Gilles Guéguen 2016、PDF は、ラカンのAutres Ecrits(p.409)から引用しつつ、「器官なき身体 les corps sans organes」、「語の物質性 la matérialité des mots」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」 を関連づけている。

中井久夫もかねてより、「語の物質的側面」、分裂的症状の発生期の「言語の例外状態」を語っている。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

最近、中井久夫の分裂病論は、自閉症との区別において疑義が呈されることがあるらしいが、少なくとも上の見解は、そのあたりの図式的な「凡庸な精神科医たち」には、いつまでたってもなかなか及びがつかないすぐれた洞察である、とわたくしは思う。

あまり詩的感性などということを言うつもりはないが、ただし最晩年のラカンの言葉は引用しておこう。

ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).

ーーこのポエジーをめぐるミレールの注釈は 「柿の木と梨の木」にある。


※分裂病的享楽とパラノイア的享楽については、次のような見解があるのを示しておこう。

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2008)

…………

ところで、「消えたチェシャー猫の笑い」は分裂病的な笑いだろうか。中井久夫はそう語っていない。

予感が微分的、すなわち微細な差異にすべてをかけるのに対して、余韻とは、経験が分節性を失いつつ、ある全体性を以て留まっていることである。『ふしぎの国のアリス』における「消えたチェシャー猫の笑いが木のうえにとどまっている」のは余韻であろう。それは積分的である。しかし、余韻と予感には相通じる性格がある。ほのかな示唆的な性向である。余韻の感受は、予感の感受と似ている。(「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収P18)

中井久夫の予感/余韻の最も簡潔な定義は次の通り。

予感というものは、……まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。むつかしいことではない。夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

    穢れを知らない私、その膝は
むき出しの膝の怖れの予感に打ち震える……
吹き来る風は私を砕き、鳥は刺し貫く、鎧戸を閉ざした心の闇を、
聞いたことのない奇怪な嬰児(あかご)の声で……
胸の二つの薔薇を私の息は持ち上げ下ろす。(ヴァレリー「若きパルク」中井久夫訳)

余韻とはたしかに存在したものあるいは状態の残響、残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。(同中井久夫)

「消えたチェシャー猫の笑い」は予感か余韻のどちらかかは、おそらく議論があるだろう。中井久夫自身、《余韻と予感には相通じる性格がある。ほのかな示唆的な性向である。余韻の感受は、予感の感受と似ている》としているのをみた。

…………

François Balmès は、「現実界」を次のように簡潔明瞭に語っている。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,2000)

ラカンの数ある「現実界の定義めいたもの」から、ここでの文脈に適うものを拾い出すなら、次の文がよい。

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(S.18)

・現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization(S.20)

ラカンにとって現実とは「見せかけの世界 le monde du semblant 」である。

無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)
 精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール,1996

おそらく、「しかめ面」は、「揺らめかす」という表現と「ともに」理解できる。

悟り(「禅」における出来事)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺らめかせるもの qui fait vaciller la connaissance, le sujet である。つまり、悟りはパロールの空虚 un vide de parole を生じさせてゆく。そして、パロールの空虚こそがエクリチュール écriture をかたちづくる c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture。(ロラン・バルト『記号の国』)
プルーストの作品は、過去と記憶の発見とに向けられているのではなく、未来と習得の進展とに向けられている。重要なことは、主人公は最初は或ることを知らなかったが、徐々にそれを習得して、ついには最終的な啓示 révélation を受け取るということである。したがって、彼は必然的に失望を味わう。つまり、彼は《信じ》、幻想 illusions を持っていたが、世界は習得の過程の中で揺らめくのである。il« croyait », le monde vacille dans le courant de l'apprentissage. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

結局、「すぐれた」詩人や芸術家たちは殆ど常にこのことばかりを目指していると言ってよいのではないか(参照:柿の木と梨の木)。すなわち現実を揺らめかす、あるいは現実をしかめ面にしてみせる、ということを。

人生の通常の経験の関係の世界は
あまりいろいろのものが繁茂してゐて
永遠をみることが出来ない。
それで幾分その樹を切りとるか、
また生垣に穴をあけなければ
永遠の世界を眺めることが出来ない。
要するに通常の人生の関係を
少しでも動かし移転しなければ、
そのままの関係の状態では
永遠をみることが出来ない。

ーー西脇順三郎「詩情」(生垣の「結び目をほどく」詩人

・エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)

・詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文) 

もっとも例外はありうる。それは「冥府下りと冥府からの途切れがちの声」などに記した。

…………

最後に最近のジジェクによる現実界の「とてもすぐれた」定義を掲げておこう。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的ものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー基本版:現実界と享楽の定義

柄谷行人の《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(『トランスクリティーク』)の表現を援用して言えば、《「現実界」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない》となる(参照)。