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2016年11月4日金曜日

「思考のイマージュ」の遷移


フロイト新訳の岩波版全集では、「Verschiebung」を「遷移」と訳すことに統一したそうだ(フロイトの不思議のメモ帳)。わたくしは新訳を一度も眺めたことがないが。

ところで、この「遷移 Verschiebung」ーーかつては移動とか置き換えとか訳されているーーは、フロイト初期概念「誤った結びつき falsche Verknüpfungen」とほぼ同じ意味であると思う(参照)。ドゥルーズの「偽装 déguisemen」概念や「仮面 masque 」概念は、この falsche Verknüpfungen 概念の光の下で読むことができるのではないだろうか(まったく同じ意味と言うつもりはないが)。

ラカンはエクリにて fausse liaison という訳語を使っているが、Pierre-Gilles Guéguen によれば次の通り。

Lacan emphasizes in “The Agency of the Letter in the Unconscious” (Écrits) that this false connection contains a displacement involving the combination and substitution of signifiers in language. In short, transference, according to both Lacan and Freud, is transference from one signifier to another signifier, from one signification to another signification.(Pierre-Gilles Guéguen. “Transference as Deception.” In Reading Seminar XI.、1995)

…………

潜在的対象の遷移 déplacement は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性 réalitéの〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立する。

ひとは、抑圧するから反復するのではなく、反復するから抑圧するOn ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète。 また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧する on ne déguise pas parce qu'on refoule, on refoule parce qu'on déguise。。

しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装する。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。(ドゥルーズ『差異と反復』)
先ず、仮面 masque は偽装 déguisement を意味(徴示)する。それは、厳密に共存する二つの現実的諸系列(deux séries réelles)の項と関係に想像的効果を与える。しかしながら、さらに深い意味では、仮面は遷移(置換) déplacement を意味する。それは本質的に、潜在的な象徴的対象に影響を与える。その諸系列のなか、且つ潜在的対象が絶え間なく循環する現実的諸系列の両方において。(同上)

『差異と反復』には他に、《夢の仕事や症状のなかに見出される偽装ーー圧縮、遷移(置換)、上演 Les déguisements dans le travail du rève ou du symptôme - la condensation, le déplacement, la dramatisation》という叙述もある。この叙述からすれば、ドゥルーズの「偽装」とは、圧縮、遷移(置換)・上演を含めた概念ということになるが、上の叙述ーー第一に仮面=偽装、より深い意味では仮面=遷移ーーとはいささか齟齬がある。

偽装や遷移はフロイトの『夢判断』(旧訳だが)には次のような形で出てくる(ドゥルーズの使用法といささか異なるが、それを問題視するつもりはない、そもそもこの時期のフロイトは「転移 Übertragung 」概念さえ置換とほぼ同様の意味を持っていた。)

二、三の場合にあっては、表現交換はさらに近道を採って夢圧縮に奉仕する。すなわち表現交換は、曖昧な、いくつかの夢思想を同時に表現しうるような言葉の並べ方を見つけだすのである。こうして言葉の洒落の全領域が夢の作業のために動員される。夢形成のさいに言葉に負わされる大きな役割を訝ってはならない。幾多の観念の交叉点としての言葉は、いわばあらかじめ運命づけられた多義性なのであって、神経症(強迫観念、恐怖症)は、言葉がそんなふうに圧縮や偽装 Verdichtung und Verkleidungに役だつ利点を夢同様に遠慮なしに利用する。

表現が移動(置換、遷移 Verschiebung)すれば夢歪曲もいっしょに得をするということをしめすのは容易である。意味明瞭な二語のかわりに、意味のどちらともとれる一語が置かれれば、ひとは迷う。日常使われている抽象的な表現方法を、具体的な表現方法に置きかえることはわれわれの理解を妨げる。ことに夢というものは、それがわれわれに示してくれる諸要素が文字どおりに解せられるべきか、あるいは比喩的に解せられるべきか、また、夢材料に直接関係づけられるべきか、あるいは挿入された文句を媒介として関係づけられるべきか、その辺のことを絶対にいってはくれないからである。(フロイト『夢解釈』高橋義孝訳 下 pp.45-46)

ラカンも少なくとも1958年の段階では、圧縮(Verdichtung、condensation )/置換(遷移 Verschiebung、déplacement)を隠喩/換喩として截然と区別している。

「夢の解釈(Deutung)、日常生活の病理学、そして機知の(フロイトの天才における)出現に立ち戻ると、つまり無意識の名のもとで以後認識と実践の光を当てられるものの領域に立ち戻ると、無意識の因果関係を構成しているのは言語に固有な諸々の法と効果であることが認められる。論理的ということが矛盾律を受け入れるだけではなく、ロゴスの効果の受容であるとするなら、この因果関係は心的なものというより、むしろ論理的なものだと言うべきである。圧縮(Verdichtung)と置換(Verschiebung)といわれる機制は、言語において隠喩と換喩の効果が作用するための諸構造と厳密に重なる。つまり、言語理論の最も新しい構築(ローマン・ヤコブソンとその一派)が、(生物の中の、言語のためにある器官の生理学的働きそのものから切り離すことさえ不可能な)独特な構造のなかにシニフィアン固有の作用を包摂するための二つの様式であるが、この作用は、この作用がシニフィエとして印づけ、とらえる主体において意味作用を生みだすものとして考慮されなければならないかぎりにおいてあるのだ。(ラカン「真の精神分析と偽の精神分析」1958年)

この隠喩/換喩の区別はおそらく最後まで変更はないにしろ、後年、われわれの世界は見せかけ semblant の世界だと言うことになる。《ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。》(ヴェルハーゲ、2001)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18)

・無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

《精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants》(ジャック=アラン・ミレール,1996

ーーというわけだが、偽装 déguisement や仮面 masques と見せかけ semblant とは似たようなものではないか(よくわからないが、違うとしたらどう違うんだろ?)。

《真理は見せかけと反対のものではない。La vérité n'est pas le contraire du semblant.》(Lacan,S.18)

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)

《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立止まらないからにすぎない。》(Lacan,S.9)

《女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!(笑)la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! [ Rires ]》(Lacan S.18)

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー男は私のなかになにを見ているのかしら?

ようするに、《男はマヌケにも信じている、象徴的仮面に下に、己の実体、隠された宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを》(同ジジェク、2012)である。

もちろんここでの男女の差異は解剖学的性差ではない(参照:S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)。とはいえおおむねそうだろう。

…………

いやあ、前置きのつもりだったんだが、長くなっちまった。以下が本題である(要するに上の記述はテキトウであるからそのつもりで)。


このところドゥルーズの『プルーストとシーニュ』を読んでいるのだがーーおそろしくゆっくり、すでに一か月半ほどまえからだがまだ読み終わらない。いままでまともに読んだことがなかった『差異と反復』まで掠め読みをすることになるーー、ようするにドゥルーズが引用しているプルーストの文をおおかたすべてあたりながら読んでいると、当然引用された箇所の前後を読むわけで、するとドゥルーズなどどうでもよくなる、というところがあるのだが、いや、ドゥルーズはひどく熱心なプルースト読みだったことがあらためてよく分かるわけで、それはどうでもよいことではない。

たとえば、ドゥルーズは《質的差異 la différence qualitative》とのみプルーストから引用している。とすれば「差異と反復」のドゥルーズはプルーストのどんな箇所からこの「差異」という語を抜き出しているのかと探ってみることになる。

文体とは、この世界がわれわれ各人にいかに見えるかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければ各人の永遠の秘密におわってしまうであろうその相違を啓示することなのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

Il est la révélation, qui serait impossible par des moyens directs et conscients, de la différence qualitative qu'il y a dans la façon dont nous apparaît le monde, différence qui, s'il n'y avait pas l'art, resterait le secret éternel de chacun.

いやあ、まるでドゥルーズ自身が書いたような文がプルーストのなかにある! --と感嘆しつつ、本を読むこととは何なのだろう、と自問することになる。

プルーストやドゥルーズの再読?

……カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女(ゲルマント公爵夫人)ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」)

ところで『プルーストとシーニュ』は次のような成り立ちの書であるらしい。

◆ブルースト『失われた時を求めて』の解釈をめぐって(前) 増田靖彦、PDF

まずドゥルーズの『ブルーストとシーニュ』を取り上げよう。同書は一九六四年に上梓された。当時のドゥルーズはヒューム諭を嚆矢としてモノグラフを次々に発表していた時期で、その成果はやがて『差異と反復 (一九六八年)および『意味の論理学』(一九六九年)という主著となって結晶することになる。こうした経緯を踏まえると、マイケル・ハートがその研究書の副題に掲げている表現にもみられるように、『ブルーストとシーニュ』にドゥルーズの「哲学の徒弟時代 (apprenticeship philosophy ) 』に書かれた一冊と位置づけてよいだろう。ただし留意しておくべき点が一つある。それは同書が二度に渡って増補された事実である。もはや周知の事実だが、その内容を簡単に整理することから始めたい。

最初に公刊されたとき、同書は結論も含めて八章構成となっており、全体のヴォリュームも百頁に満たない小著だった(タイトルも『マルセル・プルーストとシーニュ』となっていた)。それが増補されたのは1970年。本論に「アンチロゴスあるいは文学機械」と題された一つの章(第八章)が書き加えられ、結論の直前に置かれたのである。ただし、そのヴォリュームは七十頁を超えており、テクスト全体も二百頁近くに倍増することとなった(タイトルが現行の『プルーストとシーニュ』に改められたのはこのときである)。既発部分に初版との異同はみられないものの、ドゥルーズが自らの手を離れた著書に後から手を入れた他のケースをわたしたちは知らないだけに、この事実はたいへん興味深い。しかも、その直前に上述した主著が相次いで上梓されたこと、そして何よりガタリとの出会いがあったことに鑑みれば、この増補にドゥルーズの思想の無視しえない進展を推測することは十分に可能である。さらに二度目の増補は一九七六年に行われた。差し換えられた第三版の序をみると、その直接のきっかけは、一九七三年にイタリアで刊行されたフランス文学に関する評論集に、 ドゥルーズがプルーストについての小論を寄稿したことにあったらしい。ところが、その小論を手直しした上で補綴として組み入れる際、 ドゥルーズは第二版までの体裁を大幅に変更するのである。

それを列挙すると、①第八章を従前の七つの章および結論から切り離して第二部とし、第一章から第七章までを第一部とする、②結論を第一部の結論として第七章の直後に配置する、③第二部となった第八章を五つの独立した章に細分する、④新たに追加される小論の改訂稿を第二部の結論とする、⑤第一部を「シーニュ」、第二部を「文学機械」と命名するとともに、第一章の章題を「シーニュ」から「シーニュのタイプ」に改める、といった按配である。こうした手続きを経ることで、第三版は第二版で生じた書物としてのアンバランスを解消し、より均整のとれた相貌を備えることに成功した。しかし論点はそれだけにとどまらない。全体の再構成がどのような意図の下になされたのかを探るのはもちろん、補綴された第二部の結論の射程および既発部分との異同を検討する必要がある。その際、ガタリとの三つの共著『アンチ・オイディプス』, 『カフカ』、『 千のプラトー』との関連を無視することができないのは、いうまでもないだろう。

これは手元の宇波彰訳の訳者前書きにもやや簡略した形だが書かれている(1977年増補版)。ただしドゥルーズ第三版(1976)の翻訳は、《本来からすれば新しい構成にしたがって章を立て直すべきものではあるが、さまざまな事情から、当分のあいだは旧版の……》云々と記されている。

要するに第二部、文学機械の構成が章分けされていないままの邦訳ということになる。

邦訳は第二版に基づく構成であり、それに第三版でドゥルーズがつけ加えた「狂気の現存と機能ークモー」が末尾に付されている形になっている。

第一章 シーニュ
第二章 シーニュと真実
第三章 習得
第四章 芸術のシーニュと本質
第五章 記憶の二次的役割
第六章 セリーとグループ
第七章 シーニュの体系の多元性
第八章 アンチロゴスまたは文学機械
結論   思考のイマージュ

「狂気の現存と機能ークモー」

そして1964年の初版は「第八章 アンチロゴスまたは文学機械」が欠けた小さな本だった、ということになる。

実際の第三版の構成は次の通り。





第三版では、第二版の「アンチロゴスと文学機械」の章が、「文学機械」という第二部となり、五つに章分けされていることになる(1、「アンチロゴス」、2、「箱と壺」、3、「探求のレベル」、4、「三つの機械」、5、「スタイル」)。

面白いのは、この章分けよりも「思考のイマージュL'image de la pensée」の位置の二度にわたる変動だろう。第一版では、末尾の結論(第八章)、第二版ではーー「アンチロゴスと文学機械」の第八章章を差しはさんでの末尾の結論、だが第三版では、第一版の位置に戻っている。書物全体としての最後の章は、「狂気の現存と機能ークモー」となっている。

以下の水色の枠が「思考のイマージュ」の章である。




「思考のイマージュ」の章には次のような叙述がある。この箇所は第二版で書物の末尾に置かれたことが頷けるように、「アンチロゴスと文学機械」と重なる叙述がふんだんにある。

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

このあと、二頁にわたる「見出された時」からの引用がある。『プルーストとシーニュ』における最も長い引用である。後にドゥルーズとプルーストに敬意を払いつつ、いくらか中略されている箇所も含めて引用することにして、当面、さらに「思考のイマージュ」の章からの引用を続ける。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

さてドゥルーズが引用している「見出された時」の箇所である(手元の井上究一郎訳では四頁にわたる)。いくらか段落分けして引用する。

…というのも、理知が白日の世界で、直接に、透きうつしにとらえられる真実は、人生がある印象、肉体的印象のなかで、われわれに意志にかかわりなくつたえてくれた真実よりも、はるかに深みのない、はるかに必然性に乏しいものをもっているからだ、ここで肉体的印象といったのは、それがわれわれの感覚器官を通してはいってきたからだが、しかしわれわれはそこから精神をひきだすことができるのである。要するに、いずれの場合でも、それがマルタンヴィルの鐘塔のながめが私にあたえた印象であれ、両足のステップの不揃いやマドレーヌの味のような無意識的記憶 réminiscences であれ、問題は、考えることを試みながら、言いかえれば私が感じたものを薄くらがりから出現させてそのをある精神的等価物に転換することを試みながら、それらの感覚を通訳して、それとおなじだけの法則をもちおなじだけの思想をもった表徴 signes にする努力をしなくてはならない、ということであった。

ところで、私にただ一つしかないと思われたその方法は、一つの芸術作品〔ウーヴル・ダール une œuvre d'art〕をつくることよりほかの何であっただろう? それに、諸般の結果は、すでに私の精神のなかにひしめいていた、それというのも、フォークの音とかマドレーヌの味とかのような種類の無意識的記憶 réminiscences であれ、私が頭のなかでその意味を求めようと試みていた形象――鐘塔、雑草といった形象が、私の頭のなかで、複雑な、花咲き乱れた、ある魔法の書〔グリモワール grimoire〕を編んでいたーーそんな形象のたすけを借りて書かれるあの真実であれ、それらのものの第一の特徴は、私が勝手にそれらを選びだしたのではないということであり、それらがありのままの姿で私にあたえられたということであったからだ。

また、それこそが、それらのものの真性証明〔オータンテイシテ authenticité〕の極印になるのだと私に感じられた。私は中庭の不揃いな二つの敷石をさがしに行ってそこで足をぶつけたわけではなかった。そうではなくて、不可避的に、偶然に、感覚の出会がおこなわれたという、まさにそのことこそ、その感覚がよみがえらせた過去とその感覚がさそいだした映像との真実に、検印をおすものであった、その証拠に、われわれはあかるい光に向かってあがってこようとするその感覚の努力を感じるのであり、ふたたび見出された現実というもののよろこびを感じるわけなのだ。その感覚はまた、つづいてそのあとにひきだされる当時のさまざまな印象の、画面全体の真実を証明する検印ともなるのであって、それらの印象は、光と影 lumière et d'ombre、浮彫と省略 relief et d'omission、回想と忘却 souvenir et d'oubliの、あのぴったりのプロポーションを伴ってひきだされるが、意識的な記憶や意識的な観察では、それらの点は、いつまでもなおざりにされるだろう。

未知の表徴 signes inconnus (私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴 signes en relief)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール règle〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為 un acte de création であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。

だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー génie〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ Car l'instinct dicte le devoir et l'intelligence fournit les prétextes pour l'éluder。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。

そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象アンプレッション l'impression」された唯一の書物である。人生がわれわれのなかに残した思想が何に関するものであろうとも、その思想の具体的形象、すなわちその思想がわれわれのなかに生んだ印象の痕跡 trace de l'impression は、なんといってもその思想がふくむ真理の必然性 vérité nécessaire を保証するしるしである。

単なる理知のみのよって形づくられる思想は、論理的な真実、可能な真実しかもたない、そのような思想の選択は任意にやれる。われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物 Le livre aux caractères figurés、それこそがわれわれの唯一の書物である。といっても、われわれが形成する諸般の思想が、論理的に正しくない、というのではなくて、それらが真実であるかどうかをわれわれは知らない、というのだ。印象だけが、たとえその印象の材料がどんなにみすぼらしくても、またその印象の痕跡がどんなにとらえにくくても、真実の基準となるのであって、そのために、印象こそは、精神によって把握される価値をもつ唯一のものなのだ、ということはまた、印象からそうした真実をひきだす力が精神にあるとすれば、印象こそ、そうした精神を一段と大きな完成にみちびき、それに純粋のよろこび pure joie をあたえうる唯一のものなのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳、pp.335-338)

ーードゥルーズはこの「純粋のよろこび pure joie」という言葉で引用を終えている。

他方、第三版の末尾に置かれている「狂気の現存と機能ークモー」は次の文で締めくくられている。

しかし、器官のない身体 un corps sans organs とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュ moindre signe がその内部に到達する。

『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手の極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用 tout usage volontaire et organisé もできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされる contrainte et forcée ときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用 l'usage involontaire を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描 une ébauche intensive としてである。

そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性 Sensibilité involontaire、無意志的な記憶作用 mémoire involontaire、無意志的な思考 pensée involontaire。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモcorps-toile-araignéeである。

語り手の奇妙な可塑性 Étrange plasticité。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人 le fou ーー普遍的な分裂病患者 I'universel schizophrèneである語り手のこの身体=クモが、そこから自分自身の錯乱délireの操り人間、器官のないおのれの身体の強度な力 puissances intensives de son corps sans organes、おのれの狂気のプロファイル profils de sa folie を作るために、偏執病患者 paranoïaque であるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂 érotomane であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章)

…………

ところで次のような指摘をかつて読んだことがある(わたくしはいまだ『差異と反復』のその箇所を読むことはしていないが)。

『プルーストとシーニュ』における、伝統的なロゴス的哲学とシーニュから出発する感受性の思考という対立は、『差異と反復』においても継承されている。しかし、ここで使用されている「思考のイマージュl’image de la pensée」という言葉は、もはや『プルーストとシーニュ』におけるような使い方ではない。逆に、かつて「哲学のイマージュ」と呼ばれていたものに相当している。『差異と反復』において「思考のイマージュ」と呼ばれるものはドグマティックなものであり、「差異と反復という、すなわち哲学的な開始と再開という、二つの力を疎外する」ものなのである。ドゥルーズは、ここでは求めるべきシーニュの思考を、新たに「イマージュなき思考pensée sans image」と呼び直している。(上利博規『記号と論理、一九六十年代のドゥルーズ』2003年,PDF

と記したところで、ついでにそのあたりの箇所をネット上であたってみれば、次の文に遭遇しえた。

En ce sens, la pensée conceptuelle philosophique a pour présupposé implicite une Image de la pensée, pré-philosophique et naturelle, empruntée à l’élément pur du sens commun. D’après cette image, la pensée est en affinité avec le vrai, possède formellement le vrai. Et c’est sur cette image que chacun sait, est censé savoir ce que signifie penser .(Gilles Deleuze, Différence et répétition, p.172)

まあ、ドゥルーズ専門家におまかせするよ、と口走りそうになったところで、ふとこれも以前読んだ、ドゥルーズの『シネマ』論である箭内匡氏の『映像について何を語るか-ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察-』PDFにおける記述を思いだすことになる・・・

真のシミュラークルとしての映像、真に蝶番から外れた映像、特定のイメージないしイデアの表象(représentation)ではなく、 それ自体でそれ自体の時間性を提示するもの(présentation)としての映像が存在しうるのではないだろうか。 映画の領域において、 ドゥルーズが 「時間イメージ 」と呼ぶものはまさにそうした映像であり、1930 年代以降、地味ながらも少しずつ世界の各地に広がって、 いわば 「もう一つの映画」 として展開してきたものである。 そうした映像を見るとき、我々はもはや、映像の「ストーリー」 (行動の連鎖)を論理的に説明することができないか、 あるいは説明しても最も大事な部分が抜け落ちてしまう。 つまり、 核心となる映像が行動イメージへとスムーズに移行しないため、 それを言葉にするのが困難であるだけでなく、そうした映像は、時系列の外に脱け出てしまうため、一定の「時間のイメージ」の中で語ることができないのである。
註)…これをドゥルーズは「時間の間接的イメージ」あるいは「時間のイメージ 」(image du temps) と呼び、 後で出てくる、 「時間」 を直接的に提示する 「時間イメージ 」 (image-temps)と区別する。(箭内匡,2003)

勝手な思いつきを言わせてもらえば、『プルーストとシーニュ』の「思考のイマージュ image de la pensée」 とは、実は「思考イマージュ image-pensée」ではないだろうか。