2016年11月3日木曜日

潜在的リアルについて初歩的なこともわかっておらん

《証明の背後にある何かが証明するのではなく、証明が証明するのである。》(ウィトゲンシュタイン『数学の基礎』)

《物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない。 c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire 》(ラカン、S.16,1968)

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《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

ーー内面は潜在的に言語に先立つ。しかしそれは言語の使用によってのみ内面化される(参照:「内面」とは言語の結果である)。

ーー死の欲動(エネルギー)は、人間の出産直後から「本源的欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires(河川の流れ)」のなかに潜在的なものとして既にある、だが言語の世界に入場した瞬間に初めて「死の欲動(エネルギー)」となる。

すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan Ecrit.848)

ーー死の欲動があるのは、人間が言語を使用する結果である。

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潜在的なもの Le virtuel は、リアルなもの réel には対立せず、ただアクチュアルなもの actuel に対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性 pleine réalité を保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴 résonanceの諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、《アクチュアルではないリアル、抽象的ではない観念的なものréels sans être actuels, idéaux sans être abstraits》(「見出された時」)ということ、そして、虚構でない象徴的なもの symboliques sans être fictifsということ。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

《或る十全な実在性 pleine réalité》、--それは(精神分析にとって)何も意味していない、と言いうるだろうか。

原初 primaireとは最初 premier のことではないーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》(ラカン、 S.20、1973-1974)

ーートラウマ経験はその経験の反復衝迫に先立つ。しかし反復衝迫によってのみ外傷化される。

精神分析における決定的瞬間が起こったのは、フロイトが、ある点で、現実的な réels 幼児期の出来事の仮定を放棄した時である。Un moment décisif de la psychanalyse fut celui où Freud renonça sur certains points à l'hypothèse d'événements réels de l'enfance(ドゥルーズ『差異と反復』)

これはまずは「正当な」指摘だろう。《ある点で sur certains points》とあるのをどう読むかにもかかわるが。フロイトは、ある時期、幼児の「現実的な」トラウマの考え方を放棄した。

無意識のなかの現実にはどんな目安もない es im Unbewußten ein Realitätszeichem nicht gibt。したがって人は、真実、そして情動に備給された虚構とのあいだの区別をし得ない daß man die Wahrheit und die mit Affekt besetze Fiktion nicht unterscheiden kann。(フロイト、Draft M,1887-1904)

だが、フロイトは、「リアルなもの」としての幼児の出来事(構造的トラウマー身体の出来事 un événement de corps (Lacan,JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)を一度も放棄したことはない。それはラカンも同じく(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)

リアルな原トラウマとは、フロイトの遡及性 Nachträglichkeit 概念にかかわる。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって〈現実界〉 ―〈物〉― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。

後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な〈現実界〉にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ーーより詳しくは、 「静止的視覚映像による遡及的なトラウマの構成」を見よ。


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以下、潜在的/現勢的の語彙の使用サンプルを蓮實重彦から掲げよう。現行化、顕在化とされているのは、最後の文例から分かるように現勢化のことである。

批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬける(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2
「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」)




よく見てみるがよい。そこには、その後に「映画」の名で呼ばれることになる貴重な何かがまぎれもない潜在態として生々しく息づいている。そして、ひとまず『あなたが何を考えているかわかっているわ』と呼んでおくこの「無声映画」は、潜在態として息づいているその貴重な何かを現勢化させるという目的のためなら、誰がやってもおかしくなかった試みにほかならない。それは、マネの絵画を題材としたゴダールの作品ですらなく、ことによったらこのようなものとして映画は生まれたのかもしれないという映画自身の発生期の自画像のようなものだ。また、そのようなものとして撮られているかぎり、シネマトグラフが「思考する形式」として人類の資産となったことを忘れさせない何かが、この「無声映画」にこめられているはずでもあろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)


浅田彰による「標準的な」説明も掲げておこう。

……ベルクソン哲学との関連では、そのような領野は「潜在的<潜勢的>なもの(ヴィルチユエル)」の場として規定されます。そこでは、差異的=微分的 differentiel な諸関係とそれに対応する諸特異点から成る潜在的な多様体があって、それが分化 differenciarion の過程を通じて顕在化<現働化>(アクチュアリゼ)されることで、現象が構成されることになるんですね。(浅田彰(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人

とすれば吉本隆明曰くの「知の三馬鹿トリオ」 のもうひとり、柄谷行人にも登場願うことにする。

柄谷行人)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(……)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」財津/蓮實/前田/浅田/柄谷)

「事後的」とは、もちろんフロイトの「遡及的 nachträglich」の意味でもある。

我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の次元を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の蜃気楼)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(S.23 Le sinthome,)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしのfake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。モノ自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。(S.17)(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)