現実界は、形式化の袋小路においてのみ記される。[…le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation](ラカン、セミネール20)
→《現実界とは、象徴化あるいは形式化の行き詰まり以外の何ものでもない。》(ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)
主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない)
…………
以下、備忘。
このところ柄谷行人によるマルクスの「価値形態論」をめぐる叙述を追っているのだが、上に記したようなラカン派的態度ーーもちろんラカン派だけではないーーと同様な考え方を取っていることに関しては、柄谷行人は一貫している。
いったい私たちはなぜ「書く」のか。「話す」ことによっては、もはやいい足りぬ何かをもつからだ。それこそ、ひとが「内面」とよぶものである。このような「内面」を、文字をもたぬ子供はもたない。「内面」そのものが、文字の結果なのだ。にもかかわらず、文字があたかも「内面」からもっとも疎遠なものであるかのようにひとは考える。その理由は、文字が音声的文字であり、たんに音声を表記しただけのようにみなされるところにある。それゆえに、われわれは、貨幣=音声的文字を、「内部」つまり商品に内在的な価値からではなく、マルクスのいう象形文字としての価値形態から考えねばならない。超越論的な意味や価値を表示するために文字が発明されたのではなく、文字が逆にそれをもたらしたのだ。そしてそのこと自体、貨幣=音声的文字の確立の結果である「意識」にとっておおいかくされる。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978 p.47)
この文の細部にはーーわたくしのやや偏った見方?ではーーいくらかの齟齬感をおぼえるが、つまり「書く」と「話す」の区別をしないでもこう言え、もし「書く」/「話す」とするなら、シニフィアン/記号とすべきではないかとは思うが、核心箇所には異和はない、《「内面」そのものが、文字の結果なのだ》。
シニフィアン/記号のラカンの観点は次の通り。
シニフィアン signifiant は記号 signe とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(ラカン、セミネールⅨ「同一化」ーー犬と人間(記号とシニフィアン))
そして、柄谷行人が『探求Ⅰ』1986で、次のように書いたとき、上の1978年の書の記述にかすかにあった異和は消え去る。
ここで、混乱をさけるために、「話す」と「聞く」、あるいは「書く」と「読む」といったいいまわしに注意しておこう。すでにいったように、われわれは、話すとき、それを自ら聞いている。「話す主体」は「聞く主体」なのであり、そこに一瞬の“遅延”がおおいかくされている。
ウィトゲンシュタインは、「動物は考えないから、話さないのではない、たんに話さないのだ」といった。逆にいえば、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである。ロラン・バルトは、「書く」という動詞は他動詞ではなく、自動詞だといったが、「話す」という動詞も同様である。つまり、ひとは何か考えを話すのではなく、たんに話すのだ(たとえば、幼児は“意味もなく”たんにしゃべる)。だが、それをわれわれ自身が聞くとき、その言葉が何かを意味していると思うのみならず、まるで前もってそのような「意味」が内的にあったかのように思いこむ。
デリダが、明証性を「自分が話すのを聞く」ことにあり、そこで“差延”が隠蔽されるのだというのは、いわばこのことである。結局「話す」立場に立つというとき、われわれは実際は「聞く」立場に立ってしまっている。私が「教える」立場という言葉を用いるのは、そのためであって、それは「話す=聞く」立場とまったく異なる。
ところで、このことは、「書く=読む」立場についてもそのまま妥当する。デリダの「音声中心主義」への批判は、まるで書くことや読むことの優位性を意味するかのように受けとられている。しかし、「書く」ことや「読む」ことが、純粋に存在することなどありはしない。
たとえば、われわれは一語あるいは一行書いたそのつど、それを読んでいる。書き手こそ読み手なのだ。そして、書き手の“意識”においては、この“遅延”は消されてしまっている。実際はこうだ。われわれは、一語または一行書くとき、それが思いもよらぬ方向にわれわれを運ぶのを感じ、事実運ばれながら、たえずそれをわれわれ自身の「意図」として回収するのである。書き終わったあとで、書き手は、自分はまさにこういうことを書いたのだと考える。
このような錯誤は、語られ書かれることを、われわれ自身が聞き読んでしまうということに存する。ここでは、他者とはわれわれ自身であり、したがって《他者》ではない。そして、語られ書かれることが、他者にとってはたして「意味している」かどうかは、すこしも疑われない。だが、他者が、あなたは、語り書く以前あるいは過程で、内的にべつのことを意味していたはずだと主張するとき、われわれにはそうではないと証明するすべはない。
このことは、しかし、テクストを「読む」者の、優位性あるいは創造性を意味するわけではない。読む者は、自らの読解を示したければ「書く」ほかない。そうでなければ、彼の読解は「私的言語」にすぎないからだ。そして、彼が「書く」とき、先にのべた過程をたどるほかないのである。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986,PP.27-28)
その後、たとえばこう言う。
ハイデガーが「存在者と存在の差異」というのは、たんに文法的にいえば、概念になりうるものと、概念になりえないのみならず、あらゆる概念(主語と述語の位置におかれる)をつなぎ支えるものとの差異である。(柄谷行人「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』1993,p.91ーー“A is A” と “A = A” )
そして、2001年の書で、カントに依拠しつつ、こう言い放つことになる。
物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
これらは、ヴァレリー主義者、マルクス主義者ーー主義者という言葉は語弊があるかもしれないがーーとしての一貫性であろう。
作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の〈神秘的〉性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。マルクス像についても同様のことがいいうる。”真のマルクス”などというものはありはしないのである。
読むことは作者を変形する。ここでは”真の理解”というものはありえないので、もしありえたとすれば、いわば歴史というものが完結してしまう。ヘーゲルの美学がその歴史哲学と同様に、”真の理解”によって完結してしまうのはそのためだ。それは、作品というテクストが、作者の意識にとっても読者の意識にとってものりこえられず還元もできない不透明さをもって自立するということをみないからである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』pp.79-80)
※ヴァレリー自身がどう言っているかについては、「芸術作品とフェティシズム Fetischismus」を参照のこと。
……マルクスは貨幣と商品の関係をつぎのようにいっている。
《ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。》(「資本論」)
王(貨幣)は、超越論的なものであるがゆえに王(貨幣)であるかにみえるが、逆にその超越性は諸党派(諸商品)の差異(関係)の消去によって可能なのだ。「価値形態論」における難解な論点は、ボナパルトという一党派が王位につく秘密にすでに示されている。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』p.99)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)
くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』P.17)
「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」は、虚構である。古典経済学(アダム・スミスに代表される)は、この虚構の上の理論である。それはほとんどの哲学も同様である。実際は、「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)’」なのであり、これが前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインの移行であり、ラカンの例外の論理から非全体の論理への移行である。
ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述化した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。
思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。
すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。
逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ー 「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのの捏造)
これをマルクスの図式、C–M–C(商品–貨幣–商品) → M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])に則って記されたものが、「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」におけるジジェク、2016の文である。
唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)
ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。
《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)ーー(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)
前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインの移行、あるいはラカンの例外の論理から非全体の論理への移行とは、マルクスの貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムへの遡行と等価である。
マルクスによる価値形態論は、古典経済学が「高慢に冷笑し」去った、貨幣の呪物崇拝(フェティシズム)を再び正面から見さだめようとする企てである。なぜなら、この呪物崇拝こそ、古典経済学が無視しているにもかかわらず、資本主義の原動力として存続しつづけているからだ。したがって、価値形態論が、貨幣の呪物崇拝を否定しているかのようにみえても、それはけっして啓蒙主義的な批判ではなく、むしろ啓蒙主義=古典経済学への批判なのである。すなわち交換に合理的な根拠があるという考えへの批判にほかならない。
マルクスは、古典経済学が冷笑した“幻想”をこそ重視したのである。価値形態をとりだすということは、価値尺度や流通手段にとどまらないような呪物としての貨幣をとりだすことであり、あるいは交換の非合理性(無根拠性)をとりだすことである。だが、この解明が、貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムのレベルに遡行されてなされるとき、それがもはやいかなる意味でも啓蒙主義的でありえないことに注意すべきであろう。それは、“幻想”を批判しうるような合理的立場にいたるのではなく、商品であれ言語であれ、交換という行為にともなう“悲劇的”な条件を照らし出すことになるからである。(柄谷行人『探求』pp.91-92)
実際、柄谷行人はジジェクが2012年の書で「家族的類似性」について言ったのと同じことを、1986年にマルクスの価値形態論に依拠しつつ、既に言ってしまっている。
「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。
理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランスと同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。
マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。(註2) この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』PP.69-70)
(註 2) マルクスがいう「社会的関係の隠蔽」は、一般に、物象化として、すなわち本来関係的なものが実体化されることとして理解されている。そんなことなら、マルクスでなくても他の人でもいえるだろう。さらに、たとえば、言語にかんして、それが、本来差異的な関係体系(分節化)なのに、物象化されて、世界が“実体的に”そうであるかのようにいられるというたぐいの批判も、それと同じことである(丸山圭三郎)。
ここから一つの“根源的な”批判と治療法が提起されてしまう。だが、それらの理論こそ“社会性”の隠蔽である。われわれは、遡行すべき、共同主観的世界も、分節化をこえた連続的・カオス的世界ももたない。それらは、言語ゲームの外部にあるがゆえに無意味であるか、またはそれ自体言語ゲームの一部にすぎない。それらはたんに物語として機能する。
さらに柄谷行人を続ける。
ソシュールが、言語をシニフィアンとシニフィエの結合としてみたことは、それを意味(概念)と記号(音声)の結合としてとらえるならば、すこしも新しくない。実際に彼がめざしたのは“意味”が積極的なものとしてあるかのような考えを否定することである。そのために、彼は価値という考えをもちこんでいる。
《価値という語をめぐってわれわれがのべたことは、次の原理を措定することにもいいかえることができる。すなわち、言語の中には(つまり一言語状態の中には)差異しかない。差異というと、われわれは差異がその間に樹立される積極的な(ポジティヴ)な辞項を想起しがちである。しかし、言語の中には積極的な辞項をもたない差異しかない、という逆説である。そこにこそ、逆説的真理があるのだ。》(「一般言語学講義」)
だが、誰でも自国語のなかで考えているかぎり、意味が積極的に在るという実感をぬぐい去ることはできない。事実、現象学はこの明証性から出発するのである。ところが、右のような認識は、それを拒否するところからしか生じない。ソシュールは、意味が価値から派生するものでしかないことをいいたかったのだ。マルクスの用語にいいかえると、ソシュールのいう意味は、価値に対応し、価値は価値形態に対応している。価値の概念をもちこんだとき、ソシュールは、いわば言語学に価値形態をもちこんだということができるかもしれない。(『探求Ⅰ』PP.19-20)
そして柄谷行人にとってのヴァレリーやマルクスの向うには、きっと小林秀雄がいる。
マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふるまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。
《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)
むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。くまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』p.24)
小林秀雄の「様々なる意匠」から、もういくらか抜き出しておこう。
吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。
脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)
1929年、すなわち小林秀雄27歳の論である。
柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』は 1978年出版だが、マルクス論自体は『群像』1974-1975に発表されている。33-34歳時に書かれたことになる。
彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」『小林秀雄をこえて』1979所収)
……つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではない環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりしまい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批評宣言』所収)
もっとも柄谷行人ものちにーー蓮實重彦との対談でーー次のような発言をしている。
柄谷行人) 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない。(『闘争のエチカ』1988)
…………
冒頭近くに掲げた次の文をもういくらか補足しておこう。
《主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。》(ジジェク、2012)
ラカンは、フロイトの Ich-Spaltung(自我の分割)概念ーーフロイトによって、フェティシズムと精神病の病理的領域に限られた概念--をすべての主体に拡張した。それは、まさに言表内容の主体と言表行為の主体とのあいだの言語学的区別に言及することによって、である。主体は、《彼が話す限りにおいてのみ主体となるという理由で que le sujet subit de n'être sujet qu'en tant qu'il parle》(E.634)、分裂(分割 Spaltung)をこうむる。
話すことにおいて、そして話すために、主体はけっして十全に自分自身を現しえない。それは、言表内容のなかに現れないのではなく、言表行為によって前提とされ喚起されるものによる(言語の法等々)。(ロレンツォ・キエーザ,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDF)。
父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)
幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。( 同上、ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、2007)
たとえば、乳幼児は、「寒い、温めて!」と喃語で要求したのに、母はお腹が減ったと誤解釈する。
この観点はラカン派ではほぼ一貫しているはず。たとえば臨床家でもあるヴェルハーゲの文。
乳幼児はおそらく、最初の内的欲動を周辺的な何かとして経験する。どんな場合でも、それは〈他者〉の現前を通してのみ消滅する。〈他者〉の不在は、内的緊張の継続の原因と見なされる。しかし、この〈他者〉が現前して、言葉と行動で応答してさえ、この応答は決して充分ではありえない。というのは、〈他者〉は継続的に子どもの泣き叫びを解釈せねばならず、この解釈と緊張とのあいだの完全な一致は決してありえないから。この点において、我々はアイデンティティ形成の中心的要素に遭遇する。すなわち、欠如・欲動の緊張への十全な応答の不可能…。要求ーーそれを通して子どもが欲求を表現する要求は、残滓が居残ったままだ。その意味は、〈他者〉の要求解釈は決して元来の欲求と一致しないということである。〈他者〉の不十分性は、内的にうまくいかないことの責めを負わされる、常に最初のものであるように見える。(ヴェルハーゲ、Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004)
人はこのように「言語」を使用することによって、「疎外」される。
主体の最も深刻な疎外は、主体が我々に彼自身について話し始めたときに、起こる。[Car c'est là l'aliénation la plus profonde du sujet de la civilisation scientifique ele sujet commence à nous parler de lui ](Lacan,Ecrits, 28ーー岩井克人版「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」)
「言い得ぬもの」は、象徴界(快原理)の彼岸にあるのではなく、言語固有のものである。こうして、$(分割された主体の空虚)は、《「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」》だ、と語られることになる。これは言語を使用する人間の宿命ということになる。
最後に、柄谷行人1978の《「内面」そのものが、文字の結果なのだ》という文を、次の文と「ともに」読んでおこう(L'effet du langageを「言語の効果」と訳したが、もちろんそれは「言語の結果」と等しい)。
言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそうーー厳密に言ってーー存在欠如を顕す。L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(ラカン、セミネール17、1969-1970)
ーー言語の効果は遡及的である。われわれは話せば話すほど、「内面」が現われる。