2016年7月11日月曜日

「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのの捏造

あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいま、この瞬間にここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いま、この瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(蓮實重彦『表層批判宣言』「言葉の夢と「批評」」)
「制度」とはあまたの擬似冒険者たちを「発見」の旅へと駆りたてながら、微笑とともにその出発を見送るが早いか、何喰わぬ顔でその帰途を絶ち、捏造された距離をさ迷わしたまま、新たな犠牲を物色してまわる邪悪な空間であることを、人はよもや忘れてはなるまい。「文学」が、いま、この瞬間、ここにあるということ、いま、ここにあるが故に人目に触れぬということ、その偏在的不可視性が人を「距離」の捏造へと駆りたててやまぬこと、そしてその「距離」が必然的に人を裏切ること、裏切られた者の言葉が無償の饒舌と化して言葉の環境汚染に役立つこと、その汚染された環境が「制度」のありかをさりげなく隠蔽すること。かりにそんな事態が「文学」以外の場に観察された場合、その現象が「公害」と呼ばれることを人は誰でも知っている。そして、そんな環境汚染を糾弾する「公害」学者が一人としていないことに、誰も驚きはしない。 (同、蓮實重彦)

いやあ、ひどくうまいんじゃないか、この1970年代に書かれた蓮實重彦の文。
ふと改めて読み返してみたのだが、いまさらながら感心する。

この語り口で、(当時の)大江健三郎と江藤淳をも罵倒するのだが。

前者にあっては歴史における「公」と「私」、後者にあっては「個人」と「全体」という関係でそれぞれの主要なモチーフが展開されはじめるとき、江藤氏の想像力が「海」、大江氏のそれが「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求し、いわば、いまここにはない失われた風景としての「海」と「森林」とを背景として、「航海者」と「狩猟者」の相貌を浮きあがらせずにはいないのだから、二人の言葉の類似ぶりはただごととも思えないのだが、実はそうした類似するさして重要なものではない。真に驚くべき類似は、にもかかわらず江藤氏と大江氏とがたがいに違ったことを語っていると信じ込み、しかもその確信において、才能の点で自分たちより遥かに劣っているはずのあまたの「批評家」や「小説家」たちといともたやすく馴れあって、薄められた「貧しさ」としての「戦後文学」のうちに埋没してしまう自分に無自覚だという類似であろう。(同上ーー蓮實重彦の「大江健三郎殺し」

蓮實重彦は、ジジェクも罵倒している(主にその映画論)。

ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(『新潮』2005年5月号

だが蓮實によって、《「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落す》と書かれる内容は、次のジジェクの文と共鳴するといってよいだろう。

主体性の空虚 $ は、語りえるものの彼方にある「語りえぬもの」ではない。そうではなく、語りえるものに固有の「語りえぬもの」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー原動因と遡及性

蓮實重彦もジジェクも、何を標的としているのかと言えば、結局、例外の論理であり、上の文のなかでなら蓮實の《「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造して》、ジジェクならもちろん《語りえぬもの》の捏造ということになる。

次の文は、前期ヴィトゲンシュタイン/後期ヴィトゲンシュタインを、例外の論理/非全体の論理としている。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述化した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー女はまだ浅くさえない(ニーチェ))

例外の論理/非全体の論理とは、ラカン派的には、男性の論理/女性の論理ともされる(カントの否定判断/無限判断でもある[参照:神の復活(神の死の死)])。

もっとも女性の論理は、かならずしも解剖学的な女の論理ではない。女たちの場合も、男性の論理に汚染されていることがあるし、男たちのなかにも、もちろん女性の論理をもつ存在がいる。

以下の文にある(一部の)フェミニストの論理、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」ーーというのは、まさに例外の論理(男性の論理)だということになる。

ふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――「〈女〉は存在しない」は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだ。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。(……)

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられ次のように言う、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。

私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思う、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼方」こそが存在しない、と。おわかりだろうか、私の言っていることが?(ジジェク、 Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture、1995)


オレもどちらかというと、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造しがちなタイプでね。

男は愚かにも信じている、象徴的肩書きの「彼方」、彼自身のなかの「深い」ところに己れの実体、ある隠された秘宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

こういうたぐいの文を引用していても、ふとしたはずみに例外の論理の愚かさを曝してしまっているのではないか、とオソレテイルわけさ。

たとえば、柄谷行人の次の文。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これも「アンチノミー」という言葉があるように、女性の論理(非一貫性の論理)を言っている。だが、柄谷が女性の論理の作家であるかどうかは、--これは疑わなければならない。

とはいえーー。

ほんとうに女性の論理のほうがいいのだろうか→「女性の論理が必ずしもいいわけじゃないよ」。

ようするに、資本の論理は、差異の論理であり、女性の論理である。

次の文は言葉遣いはいささか異なるとはいえ、その裏にはカーニバル的非全体の論理へどうやって対抗したらいいのか、という問いかけがある。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、2012)

現在の「資本家の言説」の時代において、政治的には、女性の論理であることばかりに気をつけている蓮實重彦よりも、いささか男性の論理の気味がないでもない柄谷行人のほうが役に立つにきまっている(そもそも資質の相違、批評の対象の相違という点があるので、この言い方はまずいかもしれないが)。

(※もっとも、柄谷を男性の論理っぽいといえば、柄谷行人ファンから、きみは柄谷の構成的理念/統整的理念の対比を理解していない。これは例外の論理/非全体の論理であり、その上での統整的シニフィアンとしての、たとえば「世界共和国」なのだ、というたぐいの反論があるだろう。ーーというわけで先に書いておくよ、それぐらいのことはオレも知ってるさ、いまは相対的な話さ、蓮實に比べての。)

ラカンは「主人の言説」から「資本家の言説」へ、と1970年前後に言っている。主人の言説の時代とは、分母が男性(主人)の論理の時代だった。そのときまでは、分母の上で、つまり分子の二項対立において、女性の論理(非全体の論理)の態度をとることは、「批評」としてひどく効果的だった(たとえば、否定神学批判)。

だがーー1968年以降の端境期の20年ではなくーーことさら1989年以降の如実な「資本家の言説」(市場原理主義)の時代に、つまり分母が女性の論理になってしまった時代、さて、釈迦の掌の上で、女性の論理をあまり言い募るのも、逆効果という側面があるはずだ。

浅田彰はこのあたりのことに敏感であり、彼の転回、「王様を笑い続ける少年」(ファルス批判)から、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」の役割を敢えて演じること(見せかけのファルスとしてのポジションを敢えて取る)とは、この文脈で捉えうる。

…………

※付記

女が、自然、欲動、身体、ソマティック(流動する身体)等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに引きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑される。反対に、なににも介入されない、欲動に衝き動かされたセクシャリティは、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(Paul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender,2004)