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2016年7月12日火曜日

現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」

「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのの捏造」にて、こう引用した。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

このジジェクの言っていることの内実をもう少し詳しくみてみることにする。

たとえば、柄谷行人は、『隠喩としての建築』で既に次のように記している。

「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収ーー実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって

この考え方は、1989年以降の世界の構造ーー少なくとも先進諸国の構造--についても当てはめることができる。それは、ラカンが1968年を契機に、主人の言説から資本家の言説の時代への移行を指摘したことにもかかわる。

主人の言説とは「例外の論理」(男性の論理)、資本家の言説とは「非全体の論理」(女性の論理)である。

わたくしが資本家の言説を女性の論理と捉えるのは、主に、Levi R. Bryanの叙述に基づく。

女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。
男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。
反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy

とくに女性の論理は「差異性」の論理であるという表現に注目する。ただし資本家の言説=女性の論理とは、多くのラカン派がその見解を示しているわけではない。とはいえ、ここでは当面こう捉えるという前提で話をすすめる(ジジェクは不思議にもーーわたくしの知る限りーーラカンの「資本家の言説」という語を今まで一度も口にしていない)。

そして、1968年を契機に(約20年の端境期をはさみ)、1989年以降、如実に主人の言説から資本家の言説への移行があったという観点をとる。

これを柄谷流の記述:{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}を援用して記せば、

主人の言説:{(非全体/例外 )例外}から
資本家の言説:{(例外/非全体)非全体}への移行

ということになる。

浅田彰=デリダ的に言えば、次の通り。

{(女/男)男}→{(男/女)女}

「(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、 man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。  しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだ から、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が  男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです」(浅田彰)
「もっと一般的な例では、同一性に対し差異を復権するのはいいけれど、それらはいずれも実は同一性という土俵の上に乗っているので、その同一性とい う土俵自体を「差延」へと脱構築していかなければならないというわけですね。一方では転倒が、しかし同時に他方では脱構築が必要だ ー これがデリダの二重の戦略です」(浅田彰ーー理屈 「デリダ追悼」ーーきみたちの「燻製ニシンの虚偽」


男性的社会構造(例外の論理)は、超越性・必然性の論理のもとにあり、女性的社会構造(非全体の論理)は、差異性・偶然性の論理のもとにある、というLevi R. Bryanの見解を上に引用した。

資本の論理が、後者の差異の論理であることは、かねてよりの指摘がある。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)
資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

我々の世界を支える母胎は、いつの間にか、差異の論理(非全体の論理、女性の論理)になってしまっている、としてよいのではないか。そのとき旧世代的思考のまま、つまり母胎が主人の論理(支配の論理、男性の論理)のままのつもりで、差異の論理、自己革命化の論理による対抗言説を発しても機能しない。それ冒頭のジジェク文の言っていることだ、とわたくしは捉える。

これは、柄谷行人が『トランスクリティーク』冒頭近くで言っていることとほとんど同じ内容である。

マルクス主義は、合理論的、目的論的な思考(大きな物語)として批判されてきた。実際、スターリニズムはそのような思考の帰結であった。歴史の法則を把握した理性によって人々を指導する知識人の党。それに対して、理性の権力を批判し、知識人の優位を否定し、歴史の目的論を否定することがなされてきた。それは、中心的な理性の管理に対して多数の言語ゲームの間の「調停」や「公共的合意」を立て、また、合理論(形而上学)的な歴史に対して経験の多様性と複雑な因果性を立て、他方で、目的のためにいつも犠牲にされてきた「現在」をその質的多様性(持続)において肯定することである。

しかし、私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考 ――私自身それに加わっていたといってよい ――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位 ――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

マルクス主義という言葉が出てくるが、もちろんこれはマルクスの思想ではない。むしろ、ここでは「目的論的な思考(大きな物語)/ 資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動」という対比に注目しなければならない。これは、ラカンの主人の言説/資本家の言説の対比とほぼ等価と捉えられる。

上の柄谷の文には、ディコンストラクションや知の考古学自体、あるいは文学や芸術自体、その本来的性質上、差異の論理(女性の論理)のもとにあり、ある時期以降、これらの言説が、反体制の言説どころか、「支配的思想=支配階級の思想」になってしまっているという柄谷行人の観点が示されている、--そう読めないだろうか。

最後に蛇足ながら、柄谷行人のとらえる「真のマルクス」ーーマルクス主義ではなくーーとは次のようなことだ。

私は『資本論』にマルクスの仕事の最高の達成を見出すにもかかわらず、それをマルクスの最終的な立場として見做すべきでない、と考えている。それはこの本が未完成であるというだけではない。重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』PP.249-250)

ジジェクのコメントを付せば、次の通り。

ヘーゲルがおこなったカントについての基本的な修正は、したがって、次のようなものである。理性の三つの領域(理論的・実践的・美的)は、主体の態度の移行、すなわち「カッコに入れること」で出現する。つまり、学の対象は、道徳的判断と美的判断をカッコに入れることで出現する。道徳的領域は、認識的–理論的関心と美的関心をカッコに入れることで出現する。美的領域は、理論的関心と道徳的関心をカッコに入れることで出現する。たとえば、道徳的関心と美的関心をカッコに入れるなら、人間は、自由ではない、因果的関連に全面的に条件づけられたものとしてあらわれる。逆に、理論的関心をカッコに入れるとすれば、人間は、自由で自律的な存在としてあらわれる。したがって、もろもろのアンチノミーは物象化されるべきではない — アンチノミーをなす複数の立場は、主体の能度の移行によって生みだされる。柄谷の画期的成功は、しかしながら、そのようなパララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。 (ジジェク『パララックス・ヴュー』)

もし現在の支配的論理が、主人の言説(男性の論理)に対する資本家の言説としての差異の論理(女性の論理)であるならばーー《合理論に対する経験論的思考の優位》(柄谷行人)であるならばーー、それを批判しないままでは、マルクス的フットワーク、あるいはカント的視差(パララックス)はない、ということになる。

では今、何が必要なのか、といえば、ジジェクの言葉遣いなら「主人のシニフィアン」であり、柄谷行人なら「統整的理念」(構成的理念ではなく)である(参照:主人のシニフィアンと統整的理念)。