話し手は他者に話しかける(矢印 1)。それは、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印 2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印 3)。
他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印 4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印 5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? 、私訳)
古典的なポール・ヴェエルハーゲの1995年の説明なら次の通り。
……フロイトが我々に示してくれたのは、人が話すとき、我々自身には知られていない真理によって駆り立てられている driven ということだ。この真理のポジションが、いずれの言説においても動因 motor として、出発点として、機能する。
真理のポジションはアリストテレス的な原動因であり、すべての言説構造に影響を与える。その最初の帰結は、エージェント(動作主)はどう見てもただのエージェント(代理人)に過ぎないということだ。自我は話さない。自我は(何かによって)話させられる。もちろんこの結論は自由連想の過程にて観察できるが、ふつうの発話行為でさえ同じ結果を生む。実に私が話すとき、私は何を言っているのか知らない。もし私が暗記してその話を覚えていないのなら。あるいは書かれた物から話を読んでいないのなら。そうでないなら、私は話すのではなく、話させられている。そしてこの話は欲望によって駆り立てられている。意識的な同意があろうとなかろうとそうである。これはシンプルな観察による事実だ。だが人のナルシシズムを根本的に傷つける。だからフロイトは人間における第三番目のナルシシズムの屈辱と呼んだ(コペルニクスが人間を宇宙の中心から追い出し、ダーヴィンが人間を生物界の特権的位置から追い出したのに引き続く第三の屈辱である)。
フロイトはそれをとてもはっきりとした表現で刻印している、“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”、「私は自分の家の主人ではない」と。フロイトの公式のラカン版は次の通り。“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”(シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する)。(Paul Verhaeghe,From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses ,1995,PDF)
真理のポジションは原動因とある。この原動因とは何か。
すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。(ジャック=アラン・ミレール『無意識と話す身体』2014ーー欲動と享楽の相違)
四つの言説の上部構造である agent → otherにおいては、上のヴェルハーゲの説明にあるように、我々は話しているのではない。話させられている。《自我は話さない。自我は(何かによって)話させられる》。我々が話す真の動因は、「性関係の不在」と「話す身体」だという観点である(これは一般には、《書かれぬことをやめぬもの [ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]》(Lacan, S.20)としての原トラウマともされることが多い)。
「話す身体」については、たまたま拾うことができたアルゼンチンの分析家の簡潔な言い方なら次のようになる。
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体・享楽される身体である。反対に、話す身体とは、自ら享楽する身体である。(Florencia Farías,The mystery of the speaking body Argentina, 28th April 2010、PDF)
ーー《それ ça が話す場で、それ ça は享楽する [Là où ça parle, ça jouit]》(S.20)
ところで、「性関係はない」と「話す身体」はどちらがいっそう原動因なのだろうか。
ジジェクはラカンの「性関係はない」il n'y a pas de rapport sexuelから「性的非関係はある」 il y a du 《non‐rapport sexuel 》(S.22)への移行を問うなかで、次のように記している。
ーーこの移行については、ここでは触れない。というのは、ラカンは再び1979年に、性関係はないに再帰したという議論があるため(ロレンツォ・キエーザ、2016)、それを触れだすと、ながながと記述しなくてはならない・・・
さて、ジジェクの文にはこうある。
……部分対象と身体/有機体ーー部分対象が属する身体/有機体ーーとのあいだにも非関係がある。部分対象は身体の「全体」のなかに調和的には挿入されない。部分対象は「その」身体に対して謀反を起こし、自ら勝手に振舞う。しかしながら、この非関係は、二つの性のあいだの非関係とは、単純には相同的ではない。人は言うことさえできる、身体にかんする部分対象の過剰は最初に来る、と。すなわち、それが(後に)二つの(性化された)身体のあいだの非関係を引き起こす、と。(Zizek,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
わたくしは今のところ、この見解、すなわち身体のなかの異物ーー《我々にとって異者である身体[un corps qui nous est étranger](Lacan,S.23)ーーとしての「話す身体le corps parlant」 が性的非関係に先行するという理解をしている(参照:話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)
異物とは次の意味である。
我々はむしろ想定しなければならない。心的トラウマーーより正確に言えば、記憶痕跡ーーは、異物 Fremdkörper として振舞うことを。それは、侵入後も長く作用を及ぼし続ける代理人と見なされなければならない。(フロイト、ヒステリー研究,1895)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「 extime (外密).」である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー防衛と異物 Fremdkörper)
ラカン自身の「話す身体le corps parlant」をめぐる叙述は、たとえば次のように現れる。
«Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient » (15 mai 1973 du séminaire Encore)
…………
ところで、ラカンのセミネール19 には「四つの言説」の形式的構造の変奏として次の図が掲げられている(この図を説明しているラカン注釈者にわたくしはまだ廻りあっていない)。
他方、セミネール17に最初に現れて、一般に流通している「四つの言説」の標準的な形式的構造はくり返せば次の通り。
セミネール19に現れた四つの言説の形式的構造のヴァリエーションにおいて、エージェント(代理人 agent )がサンブラン(見せかけsemblant)なのはよくわかる。生産物 production も剰余享楽 plus-de-jouir であるのは当然だ。
だが、「autre 他者」のところに[jouissance 享楽」が置かれている。これはなぜだろうか?(わたくしにはラカン自身ははっきりそれを叙述していないように見えるし、ラカン注釈者のなかにもその解説が見当たらないままだ)。
だが、semblant →jouissanceという上部構造は、不可能な享楽(エロス)に向かう動きだとしてよいのではないだろうか。その享楽が不可能であるため、不死の循環欲動(剰余享楽)をもたらす、とーー、《リビドーlibidoは…不死の生 vie immortelle…破壊されないindestructible(S.11)》(参照:欲動と享楽の相違)。
(四つの言説の形式的構造の上図には、上部にimpossibles、下部にimpuissanceと示されていることに注目しておこう。)
さらに、ドゥルーズは1960年代にすでにこのように言っていることに「瞠目」しておこう。
…………
ひょっとしたら矛盾と感じられる内容は、《光は伝播する場合には「波動」として振る舞い、 物質粒子(電子など)と相互作用する場合には「粒子」として振舞う》(量子力学の世界)と言われる「量子力学」の世界ーー事実、ジジェクには量子力学への言及が多いーーのようなものなのかもしれないが、わたくしにはいまのところ「本当には」判然としていない。
ただし、「遡及的 nachträglich」とは、フロイトがトラウマを語ったときの用語であることは思い出しておこう(参照1,参照2)。
そしてこの問いは、たとえば「女はまだ浅くさえない(ニーチェ)」にて曖昧に記した、我々にとって「語りえぬもの」が原動因なのか、逆に「語りえぬもの」は言語を使うことが宿命づけられた遡及的な効果なのか、という問いでもある。
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。
この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。
しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(Paul Verhaeghe, (2001). Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. ,PDF、私訳)
…………
ところで、ラカンのセミネール19 には「四つの言説」の形式的構造の変奏として次の図が掲げられている(この図を説明しているラカン注釈者にわたくしはまだ廻りあっていない)。
他方、セミネール17に最初に現れて、一般に流通している「四つの言説」の標準的な形式的構造はくり返せば次の通り。
セミネール19に現れた四つの言説の形式的構造のヴァリエーションにおいて、エージェント(代理人 agent )がサンブラン(見せかけsemblant)なのはよくわかる。生産物 production も剰余享楽 plus-de-jouir であるのは当然だ。
だが、「autre 他者」のところに[jouissance 享楽」が置かれている。これはなぜだろうか?(わたくしにはラカン自身ははっきりそれを叙述していないように見えるし、ラカン注釈者のなかにもその解説が見当たらないままだ)。
だが、semblant →jouissanceという上部構造は、不可能な享楽(エロス)に向かう動きだとしてよいのではないだろうか。その享楽が不可能であるため、不死の循環欲動(剰余享楽)をもたらす、とーー、《リビドーlibidoは…不死の生 vie immortelle…破壊されないindestructible(S.11)》(参照:欲動と享楽の相違)。
(四つの言説の形式的構造の上図には、上部にimpossibles、下部にimpuissanceと示されていることに注目しておこう。)
結局、ジジェクの次の文が多くのことを示唆している。
まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
さらに、ドゥルーズは1960年代にすでにこのように言っていることに「瞠目」しておこう。
まさしくエロスこそが、おのれ自身を循環として、あるいは循環のエレメントとして生きるのであって、それに対立する他のエレメントは記憶の底にある〈タナトス〉でしかありえず、それらの両者は、愛と憎しみ、構築と破壊として、引力と斥力として組み合わされるているのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)
…………
ところで、上に記された内容と、ジジェクの「四つの言説」を別の仕方で叙述する次の文とをどうやって折り合いをつけたらよいのだろう。
この叙述はすこぶる形式的解釈であり、「原動因」は、場と要素とのあいだのギャップによって遡及的に生み出されると言っているようにさえ読める。
ここでラカン自身の言葉をも引用することができる。すなわち、原初とは最初ではない(S.20)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩーーラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla)と。
原動因とは最初にあるものではない、とすることができるのだろうか?
われわれは「遠近法的倒錯」(ニーチェ)に囚われ、結果を原因として誤認しているのだろうか?
この観点は、ジジェク組が次のように言い放つ文脈のなかにあるはずだ(参照:〈モノ das Ding〉というアトラクター)。
四つの言説のラカンの図式(……)その全ての構築は、象徴的レディプリカティオ reduplicatio の事態を基礎にしている。reduplicatio、すなわちそれ自身のなかに向かう実体 entity into itself と構造のなかに占める場との二重化 redoubling である。それは、マラルメの rien n'aura eu lieu que le lieu(場以外には何も起こらない)、あるいはマレーヴィチの白い表面の上の黒い四角形のようなものだ。どちらも場自体を形式化しようとする奮闘を示している。むしろこう言ってもいい、要素としての場のあいだの最小限の差異と。その要素としての場は、要素のあいだの差異に先行しているものだ。
Reduplicatio (二重化)が意味するのは、要素は決してその場に「フィット」しないということだ。この私とは、私の象徴的付託が「私とはこういう者だ」と告げるものでは決してない。この理由で、主人の言説は必須の出発点となる。その言説のなかにいる限り、実体と場は「一致する」からだ。主人のシニフィアンは、事実、「エージェント」ーーエージェントとは主人のエージェントであるーーの場を占める。対象a は「産出物」ーー産出物とは消化されえない過剰であるーーの場を占める、等々。
そして二重化、要素と場のあいだのギャップ、それが一連の変化を生み始める。たとえば、主人は己れをヒステリー化する(主人の言説からヒステリーの言説への移行)、実際に何がいったい私を主人にしているのだろう、と問い始めることによって。
このように、主人の言説を基盤にして、人は他の三つの言説の発生へと移行してゆく。それは、順々に、他の三つの要素を主人(エージェント)の場に置くことによってである。。(SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.、2004、私訳ーーラカンの「四つの言説」における「機能する形式」)
この叙述はすこぶる形式的解釈であり、「原動因」は、場と要素とのあいだのギャップによって遡及的に生み出されると言っているようにさえ読める。
ここでラカン自身の言葉をも引用することができる。すなわち、原初とは最初ではない(S.20)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩーーラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla)と。
原動因とは最初にあるものではない、とすることができるのだろうか?
われわれは「遠近法的倒錯」(ニーチェ)に囚われ、結果を原因として誤認しているのだろうか?
この観点は、ジジェク組が次のように言い放つ文脈のなかにあるはずだ(参照:〈モノ das Ding〉というアトラクター)。
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張 「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。 (ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)
人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身 に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、 「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。( Alenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value" 2006)
ひょっとしたら矛盾と感じられる内容は、《光は伝播する場合には「波動」として振る舞い、 物質粒子(電子など)と相互作用する場合には「粒子」として振舞う》(量子力学の世界)と言われる「量子力学」の世界ーー事実、ジジェクには量子力学への言及が多いーーのようなものなのかもしれないが、わたくしにはいまのところ「本当には」判然としていない。
ただし、「遡及的 nachträglich」とは、フロイトがトラウマを語ったときの用語であることは思い出しておこう(参照1,参照2)。
そしてこの問いは、たとえば「女はまだ浅くさえない(ニーチェ)」にて曖昧に記した、我々にとって「語りえぬもの」が原動因なのか、逆に「語りえぬもの」は言語を使うことが宿命づけられた遡及的な効果なのか、という問いでもある。
主体性の空虚 $ は、語りえるものの彼方にある「語りえぬもの」ではない。そうではなく、語りえるものに固有の「語りえぬもの」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)