2016年6月27日月曜日

防衛と異物 Fremdkörper

引き続き在庫整理。

心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物ーーそれは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、1893年)


◆フロイト『制止、症状、不安』1926より

…………

不安の問題についての議論に関連して、私は一つの概念――もっと遠慮していうと一つの術語――をふたたび採用した。この概念は、三十年前に私の研究の初めにもっぱら使用したが(『防衛―神経精神病』1894)、その後はすてておいたものである。私は防衛過程のことをいっているのである。そのうちに私はこの防衛過程という概念のかわりに、抑圧という概念をおきかえたのだが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの防衛という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。P.370

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper と比較して、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状が形成されると、好ましからぬ欲動衝拍Triebregung にたいする防衛の闘いは終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動衝拍Triebregungにたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926、旧訳フロイト著作集6 p327-328 からだが、一部訳語などを変更)

症状とは中断された衝動満足の徴候と代償であり、抑圧過程の結果である。抑圧は自我から発する。自我は場合によっては超自我の命令によって、エスから生じた衝動の充当に協力するわけにはいかなくなる。自我は抑圧によって、好ましからぬ衝動の担い手である表象を、意識からとりのぞくことになる。P323


内部にある好ましくなり過程にたいする防衛は、外部の刺激にたいする防衛を手本にして行なわれ、自我は外の危険にたいすると同様の方法で、内の危険を防衛するのだろう……p324


より一般的な「防衛」の傾向を「抑圧」から区別するのが適切である。抑圧は防衛に役立つ一つのメカニズムにすぎないのである。P339


…………

Extimité is not the contrary of intimité. Extimité says that the intime is Other—like a foreign body , a parasite.(Jacques-Alain Miller,Extimity )

※仏原文を見出したので、この前文も含め追記(Extimité)。
Ce terme d’extimité est construit sur celui d’intimité. Ce n’est pas le contraire car l’extime c’est bien l’intime. C’est même le plus intime. Intimus, c’est déjà, en latin, un superlatif . C’est le plus intime, mais ce que dit ce mot, c’est que le plus intime est à l’extérieur. Il est du type, du modèle corps étranger.

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a
対象aの究極の外密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")


以下の文で、「我々のリアルな有機体は、最も親密な異者 our real organism as the most intimate stranger」とあるのが、フロイトのFremdkörper〔異物)であり、ラカンの Extimité (外密)であるだろう。そして、セミネール23の“un corps qui nous est étranger”という表現の言い換えでもあるはずだ。


享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

…………

※追記

フロイトの「ヒステリー研究」は手元に邦訳がないのだが、そこでの「異物」の記述箇所のひとつを粗訳しておく。


我々はむしろ想定しなければならない。心的トラウマーーより正確に言えば、記憶痕跡ーーは、異物として振舞うことを。それは、侵入後も長く作用を及ぼし続ける代理人と見なされなければならない。(フロイト、ヒステリー研究)

Wir müssen vielmehr behaupten, daß das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß

…………

ラカンの「外密」は、セミネールⅦとセミネールⅩⅥにあらわれるが、たとえば後者の《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。》で始まる箇所はそれに引き続いて次のようにある。

……en somme, ce qui nous est le plus prochain, tout en nous étant extérieur. Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit. À cette époque, je tirais de textes de FREUD… je n'ai pas le temps de m'étendre sur lesquels …la mise en fonction - sous sa plume - de ce terme que j'ai relevé, d'autant plus saisissant qu'il se distingue de tout ce qu'il a pu énoncer concernant « les choses »… « les choses » sont toujours « Sachen » pour lui …là, il dit « das Ding ».

Je ne vais pas ici reprendre, car là encore je n'ai pas le temps, quel accent j'ai mis sur ce « das Ding ». Tout ce que je peux dire ou rappeler, c'est que FREUD l'introduit par la fonction du Nebenmensch. Cet homme le plus proche, cet homme ambigu de ce qu'on ne sache pas le situer, qu'est-il donc ce « prochain » qui résonne dans les textes évangéliques au nom de la formule : « Aime ton prochain comme toi-même ». Où le saisir ? Où y a-t-il, hors de ce centre de moi-même que je ne puis pas aimer, quelque chose qui me soit plus prochain ?
C'est en tant qu'il est ici une place que nous pouvons désigner du terme conjoignant l'intime à la radicale extériorité, c'est en tant que l'objet(a) est extime et purement dans le rapport instauré de l'institution du sujet comme effet de signifiant, comme par lui-même déterminant dans le champ de l'Autre cette structure dont il nous est facile de voir la parenté, les variations dans ce qui s'organise de toute structure de bord en tant qu'elle a le choix, si l'on peut dire, de se réunir S.16


外密が、フロイトの「物das Ding」、あるいは「隣人Nebenmensch」と関連づけられている、かつ《l'objet(a) est extime》という表現があるのに注目しておこう。