2016年6月27日月曜日

ヒステリー/強迫神経症の特徴

以下、在庫整理。

一人の著作家だけを掲げることは極力しないようにしているのだが、ここではその規則を破る。

以下の抜粋は、必ずしも他のフロイト・ラカン派と同一ではないことを先に断っておく。

◆ヴェルハーゲ、「OBSESSIONAL NEUROSIS」(Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER. From subject to drive 、2001、PDFより)ーー、一部、「Paul Verhaegheによるヒステリーと強迫神経症の定義」にもある。

そこにも抜き出されているように、この小論は、次の文で始まっている。

神経症とは何だろう? このシンプルな問いは答えるに難しい。というのは主に、フロイト理論が絶え間なく進化していくからだ。この変貌の主要な理由は、まさに強迫神経症の発見である、そしてそれはフロイトにとって生涯消え去ることのなった欲動をめぐる議論と組み合わさっている。私は、最初から結論を提示しよう。神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスとエロス欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと死の欲動に執拗に専念することである。

…………

フロイトの最初の理論では、圧迫とそれに引き続く不快は、〈他者〉によって引き起こされる。外部の要因が患者を攻撃する。これがいわゆる誘惑とトラウマ理論であり、その理論では、すべての強調はヒステリーに置かれた。欲動は〈他者〉から来る。フロイトは、90年代の最後までこの考え方から離れていない。しかし、事態はすばやく変わる。幼児性愛の発見は、フロイトに提示することになる、欲動は内部に、自己の有機体のなかにあることを。この発見は、以前の理論を完全にひっくり返した。欲動は内部にある。そしてーーその上に--、欲動衝拍 Triebregung は快として経験される。その不快特性は、後の発達段階にて獲得した何ものかである。

快と不快とのあいだの対立とは、別の対立を隠しているようにみえる。それは、はるかに重要な対立であることがフロイトには分かった。すなわち、〈他者〉に対して能動的であるか、受動的であるかの対立である。

(……)前期フロイト理論において、防衛メカニズムは外部に向けられた。フロイトの新しい理論では、この防衛メカニズムは、主体自身の欲動に差し向けられる。

注)注意しておかなければならない。『ヒステリー研究』1895 の時点で、既にフロイトは、「異物としての身体(Fremdkörper)」概念を使用している。後に、『否定』1925 論文の時点になって始めて、フロイトはこのパラドックスを解決した。その論文にて、彼は、「内部」と「外部」とのあいだの関係性を完全に考え直した。

※参照:防衛と異物 Fremdkörper

(……)古典的フロイト批判のひとつは、フロイトは「すべて」を性化したというものだ。フロイトの『科学的心理草稿』1895 の叙述は忘れられてしまっている。この草稿には、性発達に先行した精神上の機能の起源をめぐる理論が詳述されているのだが。

(……)『科学的心理草稿』における論旨は次の通り。すなわち、人間の発達の出発点は、原初の不快経験、苦痛 (Schmerz)である。それは内的欲求からもたらされる。空腹と渇きがこの状況の典型だ。フロイトはこの苦痛を、圧迫の量的増大として理解した。それは、知覚の保護膜を通した刺激の突破をもたらす。ちょうど、肉体的怪我の場合のように。

言い換えれば、原初の苦痛の条件は、トラウマと比較されている。この不快な条件に対する乳幼児の反応は、典型的なものであり、すべてのそれに引き続く間主体的関係の基礎を構成する。無力(寄る辺なさ Hilflosigkeit)な幼児は、泣き叫ぶことにより、〈他者〉に向かう。この〈他者〉は「特別な行動」を取らなければならない。その行動を通して、内的圧迫は解放される。

この初期状況において、幼児は、余儀なく、他者に向かって受動的-依存的ポジションのなかに陥ることになる。…強調されなければならない。この典型的状況は、原初の内的緊張と他者とのあいだのつながりを引き起こすことを。二つのあいだのつながりとは泣き叫びである。泣き叫びを、より一般的な言い方をすれば、欲動の表現、あるいは欲動の表象である。言い換えれば、原初の身体的欲動は、まさに最初から、間主体的な側面をもつ

フロイトにとって、この状況は、原トラウマ的経験を表す。彼はそれを分離と呼ぶ。そしてその原トラウマ的経験を、大人が幼児の内的圧迫に充分には応答しない経験として理解している。…この不充分性とは、あまりにも過剰か、あまりにも過小かということであり、決してちょうどよいものではないということだ。(……)
(……)ヒステリーにおいては、すべてのアクセントは、快の部分の取り入れ・同一化に置かれる。ヒステリー的主体は、自らが〈他者〉を失うことを許容しえない。強迫神経症においては、すべてのアクセントは、不快部分の吐き出し・分離に置かれる。強迫神経症的主体は、自らが〈他者〉と融合することを許容しえない。

(……)この点において、我々は、ヒステリーと強迫神経症とのあいだの本質的な相違に遭遇する。

ヒステリーの弁証法的交換の場合、母はけっして子どもに充分に与え得ない。さらに、彼女は父のファルスは満足いくものではないことを子供にとてもはっきり分からせる。結果として、子どもは何かをもっと渇望するに至る。ファルスを持っていると想定される誰かに、もっと取り入れ・同一化することを決してやめない。が、別のメカニズムが働く。欲動自体における内的な相克、つまり、他者から分離に向かう傾向と、能動的ポジションに向かう傾向である。

強迫神経症の場合、母は子どもに過剰な存在として現れる。与えることと求めることの両面において。父は、不満足なものとして明示される。結果として、子どもはこの母の息苦しい子育て (s)mothering から逃れようとする。なによりもまず、貪り食う母から独立した分離ポジションを取ろうと試みる。すべての強調は、吐き出しと分離の過程に置かれる。が、ふたたび、ヒステリーの場合と同様に、別のメカニズムは働く。つまり、欲動自体の内的相克、融合と同一化に向かう傾向と、受動的ポジションに向かう傾向である。

これは、典型的な受動的セクシャルファンタジーを説明する。それは、どの強迫神経症者によっても秘かに心に抱かれているものだ。

このように、ヒステリー的な母は充分に与えない。強迫神経症的な母は過剰に与える。ヒステリー的な子どもは、〈他者〉からけっして充分に受けとらない。この帰結として、絶えまず要求する主体となる。〈他者〉によって受け入れられたいという主体だ。

強迫神経症的な子どもは、あまりにも過剰に受けとる。この帰結として、拒絶・拒否する主体となる。〈他者〉から可能なかぎり逃れたい主体だ。(私訳)