神経症とは何だろう? このシンプルな問いは答えるに難しい。というのは主に、フロイト理論が絶え間なく進化していくからだ。この変貌の主要な理由は、まさに強迫神経症の発見である、そしてそれはフロイトにとって生涯消え去ることのなった欲動をめぐる議論と組み合わさっている。私は、最初から結論を提示しよう。神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスとエロス欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと死の欲動に執拗に専念することである。
What is a neurosis? This simple question is hard to answer, mainly because Freud's theory constantly evolved. One of the main reasons for these shifts is precisely the discovery of obsessional neurosis in combination with the ever-present discussion on the drive. I will give you my conclusion at the outset. Neurosis is a way of handling the inner drive by ascribing it to the Other. Hysteria has everything to do with the oral phallus and the Eros drive; obsessional neurosis occupies itself obstinately with the anal phallus and the death drive.
衆知のごとく、フロイトーラカン派では、神経症の下位分類が、ヒステリーと強迫神経症であり、上の記述はその文脈のなかでの三つの言葉の定義である。
まずはここで強迫神経症と死の欲動の関係を中井久夫のエッセイから引こう。以下の文にある「死の本能」は「死の欲動」として読もう。そしてラカンによれば、すべての欲動は潜在的には死の欲動である。《…toute pulsion est
virtuellement pulsion de mort.》 (Lacan Ecrit 848)
「死の本能」は戦争が生み出したものであって、平時の強迫神経症はむしろ、理論の一般化のための追加である。裁判でフロイトは戦争神経症を診ていないではないかと非難され、傷ついたであろう。これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 53頁)
さて、冒頭の文に戻れば、ヒステリーが口唇欲動とエロス、強迫神経症が肛門欲動とタナトスにかかわるとされている。ここでのエロス/タナトスのポール・ヴェルハーゲの解釈を別の論文から示すが、彼の解釈は、フロイトの最晩年の論文に大きく依拠しているので、まずフロイトから抜こう。
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)
エロスはより大きな統一へ向かい、タナトスはその統一を破壊するとある。
ここからポール・ヴェルハーゲは次ぎのように言うことになる、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》。
タナトスが生をめざす、という意味は、エロス欲動の大きな統一を目指す動きを破壊する。すなわち融合による個の消滅の誘惑から逃れだし個人としての能動性を確保しようとする。しかしながらタナトスは殆んどつねにエロスの欲動と合体して(Triebmischung エロスとタナトスの欲動融合)、反復衝動をする。それは灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動である(参照:エロスとゆらめく閃光)。
主体は、己のa(対象a)への完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母他〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。
The subject wants the (m)other all to itself, to be sure of getting/giving a complete answer to (a). Such a complete answer is impossible, there is always a remainder and a necessity for an “ Encore ” : the “ Drang ” keeps driving .……(『Sexuality in the Formation of the Subject』 Paul Verhaeghe)
もちろんここでの、“ Encore”(もっと、またもっと)とは、ラカンのセミネールⅩⅩの副題である。
さてヒステリー/強迫神経症における口唇欲動/肛門欲動については、ここでも中井久夫の親しみやすい文章を掲げて、その説明のかわりとする。
タバコをやめるということは「タバコを卒業する」ということで、タバコを吸わない前に戻ることではない。このことを言う必要があるのは、喫煙が成人の条件のように理解されているからである。いっぽう、禁煙とは禁欲でないことも言う必要がある。何か代わりに趣味をみつけなさいとはよく言われる助言だが、迫られて趣味を新発見することは現実にはむつかしい。かつての趣味を洗い直してみてだめなら、その人の「食」のレパートリーを聞くのがよい。
口唇的な満足は、同じ口唇的な欲望で代償するのが一番無理がなく、事実、禁煙した人は過食して肥満する傾向を顕著に示すものである。その予防の意味でも、口唇的欲望を量でなく質の向上に当てる方向がよい。職のレパートリーが潜在的にひろいのに、ただ戦後のまずしい食習慣の延長とか、家族の食習慣と相いれないとかで、二次的にせまくなっている場合が意外に多い。家族とではあまり食べない人でも外食では予想外なゲテものまで食べる人が結構いる。日本食しか食べない、それもノリ巻とタマゴ焼しか食べないというような人は生育歴のかたよりでなければ相当に強迫的な人である。口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。
私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。
喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』)
…………
口唇欲動は、〈他者〉へ要求する(ボクから母へ、ボクの欲しいものを下さいという要求)。
肛門欲動は、〈他者〉から要求される(母からボクへ、規則正しくウンコをしなさいという要求)。
眼差し(視姦)欲動は他者への欲望である(ボクに見せて!)。
声の欲動は他者からの欲望である(母はボクから欲しいものを告げる)。
ーー以上の四つの部分対象については、ジジェクの『LESS THAN NOTHING』(2012)に依拠している。ただし四つの項目の語尾の言葉をここではあえて「欲動」としたが、本来部分対象とすべきところ。つまり口唇(部分)対象、肛門対象…、と。
…………
さて冒頭のヴェルハーゲの論文に戻れば、ヒステリーは口唇欲動に特徴づけられるなら、他者への要求する性格類型として定義されることになり、強迫神経症は肛門欲動、すなわち他者から要求される性格類型として定義される。
「OBSESSIONAL NEUROSIS」の最後に、こう書かれることになる。
ヒステリーの子供は〈他者〉から十分に受け取っていない。そして〈他者〉によって取り入れられようと欲する絶え間ない要求主体となる。強迫神経症の子供はあまりにも多く受け取りすぎている。そして可能な限り〈他者〉から逃れようと欲する拒否・拒絶主体となる。
The hysterical child never receives enough from the Other, and turns out to be an ever-demanding subject who wants to be taken in by the Other. The obsessional child receives far too much, and turns out to be a rejecting and refusing subject, who wants la get rid of the Other as much as possible.
かつては女性のヒステリー、男性の強迫神経症と語られた。ということは、すくなくともかつて女児は母の愛が足りず、逆に男児は母の愛が過剰だったといえるのだろうか。
ここではシロウトの臆断は控え、ミレールの文章を掲げておくだけにする。
ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。…(「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ジャック=アラン・ミレール松本卓也訳)
…………
小論「OBSESSIONAL NEUROSIS」は、Paul Verhaegheの『BEYOND GENDER. From subject to drive 』2001の最後に所収されている(http://paulverhaeghe.psychoanalysis.be/boeken/Beyond%20gender.pdf)。
この半年ほどのあいだ断片的に引用してきたが、そこに収められている八篇の論文それぞれはおそらく独立して発表されたものだと思う。この書は、わたくしが2014年にめぐり合った「この一冊」である。とくに五番目の”Subject and Body”はラカンのセミネールⅩⅠの解説、六番目の”Mind your Body”はセミネールⅩⅩの解説として素晴らしい。とはいえ上に書かれたヒステリーと強迫神経症の定義や、とくにエロス/タナトスの定義を信じこみすぎるつもりは毛頭ない。
1,The Riddle of Castrarion Anxiety.
Lacan’s beyond Freud
2,From Impossibility to Inability.
Lacan's Theory of the Four Discourses.
3,Teaching and Psychoanalysis.
A Necessary Impossibility.
4,Trauma and Psychopathlogy in Freud and Lacan.
Structural versus Accidental Trauma.
5,Subject and Body.
Lacan's Struggle with the Real.
6,Mind your Body.
Lacan's Answer to a Classical Deadlock.
7,Dreams between Drive and Desire.
A Question of Representability.
8,Obsessional Nurosis .
The Quest for Isolation.
…………
※附記:途中、図にしめしたラカンの四つの部分対象のもととなるジジェクの文章。
The relationship between the four partial objects (oral, anal, voice, gaze) is that of a square structured along the two axes of demand/desire and to the Other/from the Other. The oral object involves a demand addressed to the Other (the mother, to give me what I want), while the anal object involves a demand from the Other (in the anal economy, the object of my desire is reduced to the Other’s demand—I shit regularly in order to satisfy the parents’ demand). In a homologous way, the scopic object involves a desire addressed to the Other (to show itself, to allow to be seen), while the vocal object involves a desire from the Other (announcing what it wants from me). To put it in a slightly different way: the subject’s gaze involves its attempt to see the Other, while the voice is an invocation (Lacan: “invocatory drive”), an attempt to provoke the Other (God, the king, the beloved) to respond; this is why the gaze mortifies‐pacifies‐immobilizes the Other, while the voice vivifies it, tries to elicit a gesture from it.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")