このブログを検索

2016年6月30日木曜日

〈モノ das Ding〉というアトラクター

以下、主にメモ

◆ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012より

【対象a の地位の移行と外密 Extimité
ラカンのセミネールXVI へのミレール注釈は、対象a 、欲望の対象-原因の地位の決定的変化を詳述している。すなわち、身体上の標本(部分対象:乳房、糞便…)から純粋な論理的機能への移行。このセミネールで、《ラカンは本当は、対象a を身体上の標本として叙述していない。彼は、対象a を論理的一貫性、生物学の場のなかにある論理的存在として構築している。この論理的一貫性は、身体が、異なった身体的演繹を通して満足せねばならぬ機能のようなものである》(Jacques‐Alain Miller, “A Reading of the Seminar From an Other to the other,” 2007)。

この移行とは、外部の侵入者、徴示化機械 signifying machine のなかの砂粒ーーその砂粒が機械のスムーズな機能を邪魔するーーから、機械に完全に固有の何かへの移行である。

ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 ex‐timacy)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもないのだ。

※「ラカンの身体概念の移行」より(ヴェルハーゲ)

(1) 我々に入り込む外部のエイリアンがいる。
(2) 我々の内部には、我々を決定づけるエイリアンがいる。
(3) エイリアン自体がいる。

ここでのエイリアンとは、corps étranger.、我々に最も親密な異者、Extimité (外密)、あるいはフロイトのFremdkörper(異物)にほとんど等しい。


【本能/欲動】 
これが明らかにしうるのは、本能から欲動を分け隔てる裂け目との関係である。すなわち、一方で、欲動と本能は、同じ「対象」・同じ目的地を持つのだが、この二つを差違化するものは、欲動はその目的地に到達することに満足を見出すのではなく、目的地のまわりを旋回すること・到達の失敗の反復に満足を見出す、ということだ。

もちろん人は言うことができる。欲動が目的地に到達するのを妨害するものは、対象a だと。対象a は目的地を脱中心化する。我々が目的地に到達してさえ、対象は手に入らず、手続きの反復を余儀なくされる。しかしながら、この対象は純粋に形式的なものだ。それは、欲動空間の湾曲なのであり、したがって、対象に到達する「最短の道」は、直接的に対象を目指すことではなく、対象を包囲すること、対象のまわりを旋回することである。

【否定の否定】
この移行は、実にへーゲル的である。それは、ある種の「否定の否定」を形作る。すなわち、先ず、一貫的な「大他者」から始まる。自己包囲された象徴秩序である。次に、最初の否定において、この一貫性は、現実界の剰余によって掻き乱される。剰余とは、外傷的残滓であり、それが象徴界へ統合されることに抵抗し、したがって、その均衡を掻き乱す。象徴界を「斜線を引かれた」ものにし、裂け目、罅割れ、敵対関係 antagonism を導入する。ようは非一貫性である。しかしながら、二番目の否定(否定の否定)は、遠近法 perspective の移行を要請する。その遠近図において、我々は次のことを把握する。すなわち、現実界のこの侵入的残余自体が、唯一の要素ーー非一貫性的な大他者の最低限の一貫性を支える唯一の要素であることを。


【階級闘争としての外密】
階級闘争の論理を取り上げよう。それは、社会を「非一貫的」、敵対的、社会の均衡を掻き乱すものとする。しかしながら、階級闘争は同時に、全ての社会的身体、その底に横たわる構造化原理をひとつにまとめる。というのは、全ての社会現象は、階級闘争によって重層決定されているから。より散文的に言えば、しばしば階級闘争自体、基本的緊張自体が、異なった要素をひとつに保持するのではないだろうか? 闘争が消滅したとき、各要素は別々に彷徨い進む、不毛の冷淡な共存のなかへと

同じような仕方で、トラウマはもちろん、主体に象徴空間の均衡を掻き乱す。だが同時に、主体の心的生活における究極の参照点である。全ての象徴化活動は、心的外傷の対処、その抑圧、その置換等々である。

さらにもっとある。侵入する要素が、大他者を「ひとつにまとめる」だけではない。侵入者の不在のなかでは、大他者はばらばらになる。この要素、対象a は、どんなポジティブな対象的現実も持っていない。その地位は、純粋に論理的一貫性の地位である。それは、大他者の/のなかの非一貫性の原因として、論理的に暗示され仮定される。すなわち、対象a は、その効果を通して、遡及的にのみ識別される。

【アトラクター】 
数学におけるアトラクターを例にとろう。アトラクションの領野内の全ての線や点は、絶え間なく、アトラクターに接近するのみで、決して実際にはその形式に到らない。この形式の存在は、純粋にヴァーチャルなものであり、線と点がアトラクターに向かう形以外の何ものでもない。しかしながら、まさにそれ自体として、そのヴァーチャルな形式が、この領野の現実界なのである。すなわち、全ての要素がそのまわりを旋回する不動の中心的な点が。

このようにして、これらの捻りのヘーゲリアンの論理は、さらにいっそう正確に与えられうる。三段階ではないのだ。ここでは四つの段階が作用している。最初に、一貫的な大他者。次に、侵入する残余としての対象a に非一貫化された大他者。そして、大他者の「一貫性」を支えるものとしてのこの対象(多様な非一貫的象徴化は、侵入する対象への反応のネットワークとしてのみ「全体化」される)。最後に、最初に戻る。だが異なったレヴェルの最初だ。すなわち、「現実界」としての対象a は、象徴秩序自体の、純粋に形式的な歪曲・内的湾曲にとっての「名」に過ぎない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

…………

◆ジジェク『斜めから見る』1991より、「ストレンジ・アトラクター(奇妙な誘引者)」叙述箇所を抜き出す(『身体なき器官』にもアトラクターの叙述はあるが、ここではより詳細に書かれている初期ジジェクから)。

ーー以下、フロイト的な〈物自体 das Ding〉とされている訳語を〈モノ das Ding〉と変更した。

ラカンがフロイトから取り出した〈モノ das Ding〉とは、結局、≪対象aの初期ヴァージョン≫(フィンク、1997)である(もっとも対象aにも数々の使い分けがあり、そのどれに当たるかが問題ではあるが。参考:対象aの五つの定義)。 

一般のエコロジストたちの反応の根本的弱点は、その強迫的リビドー経済である。つまり、自然の回路の均衡を保ち、何か恐ろしい妨害が自然の流れの安定した規則性を乱さないようにするためにはあらゆる努力をしなければならぬ、という彼らの発想である。一般に広く浸透しているこの強迫的リビドー経済から逃れるためには、さらに一歩踏み出して、「死ぬまで病んでいる自然」である人間の介入によって「自然の均衡」が狂ってしまったという考え方そのものを捨てることである。ラカンの「女は存在しない」という命題にならって、自然は存在しないと主張すべきなのかもしれない。自然は「人間の不注意によって軌道から外れてしまった、規則的で均衡のとれた回路」としては存在しないのである。自然の均衡のとれた回路にとって人間は「過剰」である、という発想そのものも、最終的には捨てなければならない。均衡のとれた回路という自然のイメージは人間の遡及的な投射にすぎない。最近のカオス理論の教訓はここにある。「自然」はすでに本質的に乱れており、不均衡であって、その「規則」は、ある定点を中心とする均衡のとれた振動ではなく、カオス理論で「ストレンジ・アトラクター(奇妙な誘引者)」と呼ばれるもの、すなわちカオスそのものを指向する、規則性のげ限界内でのでたらめな散乱なのである。

カオス理論の功績の一つは、かならずしもカオスは計り知れないほど複雑に絡み合った原因を含むとはかぎらない、ということを証明した点である。単純な原因でも「カオス的」な行動を引き起こしうる。どんな過程も放っておけばかならず自然的均衡(静止点あるいは規則運動)へと向かう、というこの古典物理学の基本的「直観」であったが、カオス理論はそれを引っくり返したのである。

この理論の価値転倒的な側面は「ストレンジ・アトラクター」という述語に凝縮されている。あるシステムが「カオス的」・不規則的に行動し、すなわち絶対に以前の状態に戻らないが、それでもなおそれを規制するある「アトラクター」によって形式化の能力を保っている、ということがありうる。その「アトラクター」が「奇妙strange」であるのは、点とか対称図形といった形をとらず、「歪んだ」円とか「蝶々」とかの明確な図形の内部で、どうしようもなく絡み合った曲線の形をとるからである。

さらにここで、「正常な」アトラクター(混乱したシステムが指向すると考えられる均衡状態あるいは規則的振動)と「奇妙な」アトラクターとの対立を、快感原則が必死に向かう均衡状態と、享楽を具現化しているフロイト的な〈モノ das Ding〉との対立に重ね合わせてみたくなる。フロイトのいう〈モノ〉とは、心的装置の正常な機能を妨害し、それが均衡に達するのを阻止する、一種の「宿命的アトラクター」ではなかろうか。「ストレンジ・アトラクター」の形そのものが、ラカンの〈対象a〉の物理学的隠喩なのではなかろうか。〈対象a〉は純粋な形であるというジャック=アラン・ミレールのテーゼが、ここでも確証される。それはわれわれをカオス的振動へと引き寄せるアトラクターの形である。カオス理論の優れた点は、そのおかげでわれわれはカオスの形そのものを見ることができる、すなわちふつうは形のない無秩序にしか見えないところに一つのパターンが見えてくるということである。カオス理論の功績の一つは、かならずしもカオスは計り知れないほど複雑に絡み合った原因を含むとはかぎらない、ということを証明した点である。単純な原因でも「カオス的」な行動を引き起こしうる。どんな過程も放っておけばかならず自然的均衡(静止点あるいは規則運動)へと向かう、というこの古典物理学の基本的「直観」であったが、カオス理論はそれを引っくり返したのである。

こうして「秩序」と「カオス」という伝統的な対立は棚上げされる。株式の変動や伝染病の発生から渦巻きの形成や木の枝の配置にいたるまで、制御不能なカオスと見えたものが、ある一定の規則に従っているものだと見なされる。カオスは「アトラクター」によって統御されているのだ。重要なのは「カオスの背後に秩序を探る」ことではなく、むしろカオスそのものの、つまりその不規則な散乱の形、パターンを探ることである。一定不変の法則(原因と結果の不変な繋がりなど)にもっぱら注目した「伝統的」科学とは裏腹に、これらのカオス理論は、未来の「〈現実界〉の科学」の、すなわち象徴的自動人形とは反対の偶然性を生み出すような規則を作り上げる科学の、最初の青写真を提供しているのである。現代科学の真の「パラダイム・シフト」は、古臭い「機械論的」世界観に取って代わる新しい全体論的・有機的アプローチの確立をめざすと自称する人びとが素粒子物理学と東洋神秘主義の「綜合」と称している訳の分からぬ論文などにではなく、カオス理論にこそ見出されるといってよい。(ジジェク『斜めから見る』1991,鈴木晶訳、PP.79-81)

…………

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesaより、〈モノ das Ding〉をめぐって。

ラカンのフロイト解釈によれば、「至高善 Souverain Bien」は存在しない。なぜなら、その「善」を基礎づける道徳の法が、主体にとって至高の悪として禁止するものだから。《至高善はモノ das Ding である》(S.7)。

ラカンは躊躇わず、その禁じられた至高善ーーモノdas Ding の意味におけるーーを母(近親相姦の対象)と等価とする。

…par FREUD, est celui-ci, c'est de nous montrer qu'il n'y a pas de Souverain Bien, que le Souverain Bien, qui est das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, est un bien interdit, et qu'il n'y a pas d'autre bien.(Lacan,S.7)

(だが)もっと重要なことは、ラカンはまた、母なるモノは本源的に到達し得ない、と強調していることだ。かりに道徳法によって明瞭に禁止されていなくてさえも。

これはどういう意味だろうか? ここで我々は想起しなければならない。ラカンは、モノと原初の現実界をしばしば混同しているという事実があるにもかかわらず、彼は実際には、モノは原初の現実界ではない、と明瞭に信じていることを。すなわち、セミネールVII の文脈において、モノは実際は、原初の現実界のなかのシニフィアンの効果による「穴」である。したがって、享楽の喪失は、定義上、いつも-常に喪なわれている。象徴界の住人である主体にとっては、どんなポジティブな禁止とも関係なく、いつも-常に喪なわれている。

このロレンツォ・キエーザの注釈も、結局、《他のモノは、本質的に、モノである[« Autre chose » est essentiellement la Chose]》 (S.7)への注釈等へと移ってゆく(これは、モノ=対象a ということだ)。そして原初の享楽は決して、《モノとしての母と子どもとの融合ではない》と。

セミネールⅦというのは、上にロレンツォが指摘しているように、混同もある(モノが原初の現実界である、とはかつてはしばしば言われたものだ)。

ほかにも、ラカン注釈者たちにによって、90年代にしばしば強調されてきた セミネールⅦ におけるアンティゴネー叙述の過大評価(これはジジェクにも大いに責がある)や、《違反とは享楽への違反である [la jouissance de la transgression]》なども、(少なくとも今では)眉唾で読まなければならない。

たとえば、後者の《違反とは享楽への違反である≫とは、10年後のセミネール17では、《何も違反などしない![on ne transgresse rien ! ]》と正反対のことが言われており、明らかな移行がある。そして享楽への侵犯ではなく、「享楽の侵入 une irruption de la jouissance」が語られる。

だがこれでさえ、上にジジェク文を示したように、現在の哲学的ラカン組(ジジェク、ジュパンチッチやロレンツォ)は、異なった見解を掲げている。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張 「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。 (ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)
人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身 に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、 「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。( Alenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value" 2006)
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoens と Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界 の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa,2005ーー超越論的享楽)

アラン・バディウの l'Un n'est pascompte-pour-un なども(微妙な差異はあるようだが)、この考え方の文脈のなかにある。

対象Xは、…カントが、起源の統覚、あるいは Einheit (単一性 unicity)と呼んだ超越論的主体の機能である。バディウはこれを、多様性 manifold を「一として数えること counting-as-one」と定義した。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF )

ーーこのようにバディウの捉え方を引用すると、対象aは、ほとんどS1のことを言っているのではないか、と思われる方がいるかもしれない。

(最後の)ラカンは「文字」、あるいは対象 a を、主人のシニフィアン S1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、この S1 は S2 (他の諸シニフィアンの一群)から 隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。 (ヴェルハーゲ、2002ーー欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)

このS1は、ミレールが1996年に(「逆方向の解釈 L'interprétation à l'envers」)、「ひとつきりのシニフィアン Le signifiant tout seul 」と言っているものである。