2016年6月29日水曜日

不気味な親密

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネールⅩⅥーー防衛と異物 Fremdkörper

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・こんな「親しい heimilich」場所を私は今まで見たことがない。(ゲーテ)

・「秘密の heimilich」力なき呪縛を解きうるは、ただ洞察の手あるのみ(ノヴァーリス)

・湖の左手に/牧場は森のなかに 「人眼に触れず heimilich」横たわっている(シラー)

ーーフロイトは100例前後はあるだろうこの類の文例を掲げたあと、次のように記している。

以上の長い引用のうちでわれわれにとってももっとも興味深いのは、heimlichという語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの、気持のいいもの des Heimliche が、気味の悪いもの、秘密のものdes Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)

「故郷の、故郷のような思いをさせる、自宅での、家内での」の意からさらに「人の眼に触れない、人の眼から隠されている」の概念が発生し、多様な関係において展開していった。(グリム辞典)

隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味なunheimilich」と呼ばれる。(シェリング)

『ツェック』の家の人はみんな heimlichだ」
Heimlich?彼らのいうheimlichとはどんな意味であろうか?
「そうだな……私にはあそこの人たちは、埋められた泉か、それとも干上がった池みたいな気がする。この泉か池に行くたんびに、いつかはもういちど水が出てくるだろう、という気にならずにはいらない」
しかし、われわれならそれをunheimlich(気味が悪い)といいます。ところがあなたはそれをheimlichというんですね。じゃ、いったいあなたはどういう点でこの家族が何か隠されたもの、信頼できないものをもっているとお思いなんですか?(グツコー)

≪不気味なものは実際にはなんら新しいものでもなく、見も知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠にされたものである。≫(フロイト『不気味なもの』)

ーーここでの「抑圧」という用語は「防衛」ーー場合によっては原抑圧ーーと読みたいところである。

不安の問題についての議論に関連して、私は一つの概念――もっと遠慮していうと一つの術語――をふたたび採用した。この概念は、三十年前に私の研究の初めにもっぱら使用したが(『防衛―神経精神病』1894)、その後はすてておいたものである。私は防衛過程のことをいっているのである。そのうちに私はこの防衛過程という概念のかわりに、抑圧という概念をおきかえたのだが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの防衛という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。(……)

より一般的な「防衛」の傾向を「抑圧」から区別するのが適切である。抑圧は防衛に役立つ一つのメカニズムにすぎない(フロイト『制止、症状、不安』1926)

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ところで、heimilich = unheimlich とラカンの外密 Extimitéとどう違うんだろうか?

Extimité(外密)は親密の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。異物(フロイトのFremdkörper)、寄生物のようなものである(ミレール、参照

ラカン自身は、セミネールⅩⅥにて、フロイトのモノ das Ding と 隣人Nebenmenschtとを extimeに関連づけてはいる。

隣人が extime なら、フロイトが「不気味なもの」で関連づけた分身 Doppelgänger とどう違うのだろう?

ネット上を英文で探してみたかぎりでは、これといった指摘は見当たらない。当然すぎるからか?

分身とは、究極的には、「欲望の主体」としての自らのExtimitéである「欲動の主体」のことではないだろうか。≪欲望の主体は、欲動の主体のなかの己自身を認知しない。欲動の主体は、「彼の外部」にある。≫(ヴェルハーゲ、1998ーー享楽に対する防衛)

たとえば、漱石の遺作『明暗』の分身の話はそう読めないでもない。

以下、以前要約した文を掲げておこう(「それ自身の影を纏う」刻限(ジュパンチッチ=ニーチェ)

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田は到宿当夜、――翌朝、療養中のかつての女清子に果物籠を届けることになっているーーひと風呂浴びたあと自分の部屋に戻ろうとして、建て増しのために錯綜としている温泉宿の廊下に迷ってしまう。

広い宿は深閑としており部屋の在り処を尋ねる女中も見当たらない。行き当たりばったりに、ふと筋違いの階子段を二、三段あがると、《洗面台の白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ち》ているのに、眼が、軀が、吸い込まれていく。

《縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのと両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるものの如くに揺れた。》

津田はその水の渦巻に魅入られる。《ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。》大きな鏡があって、「自分の影像」が映る。《これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気が先ず彼の心を襲った。》(『明暗』第百七十五章)――こうやって、彼自身のなかにあって彼以上のもの(対象a)、彼の分身、ドッペルゲンガーに出会う。

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ところで、分身についてジジェクは次のように記している。

分身 Doppelgänger との不気味uncanny な遭遇において、我々の眼差しを回避するものは、常に分身の目である。分身は奇妙にも斜めから観察している。我々の目のなかにまっすぐ見詰めることによって、我々の眼差しを返すことはけっしてない。分身がそうした瞬間、我々の生は終わるだろう。

ラカンは指摘している、我々の「現実の経験」の一貫性は、現実から対象a を締め出すことにのみ依拠している、と。我々が正常な「現実へのアクセス」をするためには、何かが締め出されなければならない。「原抑圧」されていなければならない。精神病においては、この締め出しはなされていない。対象(この場合、眼差し、あるいは声)は現実のなかに含まれる。この結果は、我々の「現実の感覚」の崩壊、「現実の喪失」である。

注)この対象が、原初の幻想的対象(ラカンの幻想の式:$‐a を見よ)である限りで、同じ要点を別の言い方で指摘することができる。すなわち、我々の「現実の感覚」は、現実が我々の根本幻想にあまりに近くまで接近したとき、崩壊する、と。

我々は、ここでのパラドックスを逃さないように注意深くなけれなならない。いつ、正確に、「現実の喪失」が起こるのか? 人が思い描くようにではないのだ。「言葉」と「物」を分離する深淵があまりに懸け離れてしまって、「現実」がもはや、我々の象徴的「前-理解」の枠組み、あるいは地平に合致しなくなったせいではない。

そうではなく、反対に、「現実」が「言葉」にあまりもぴったりと合致したとき、我々の言葉の内容が、過剰に「文字通り」の仕方で実現されたとき、「現実の喪失」が起こる。

フロイトの不可思議な反応を思い起こすだけで充分だろう。アクロポリスについて長年の幻想をした後、彼は初めてそこに訪れる。フロイトはひどく驚かされる。青年時代以降、読んできたことが、実際に存在し、書物に叙述されていたのと全く同じ仕方で見ることができるという事実に。彼の最初の反応は「現実の喪失」の圧倒的な感覚だった、ーー「いや、これは本当ではない…」(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

≪我々の「現実の感覚」は、現実が我々の根本幻想にあまりに近くまで接近したとき、崩壊する≫とジジェクは言っているが、長いあいだ「幻想」した女性の性器に最初に遭遇した少年ーーあのときの感覚は、「いや、これは本当ではない…」という「現実の喪失」だったろうか・・・ひどく豊かな腰回りと太腿、そして濃密な陰毛をもった少女だったが、眩暈がしたのはたしかだった・・・





ーーこの荒木経惟の写真はわたくしにはどうもいけない・・・わたくしにはひどく「外密 extime」だ・・・母方の祖父の家の座敷を思い起こすということもある・・・

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって不気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『不気味なもの』)

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柄谷行人の「不気味なもの」の捉え方は、最初に読んだときから異和を感じたし、今もそうだ。

ウィトゲンシュタインは私的言語あるいは独我論に対して、社会的な言語の先行性を主張したといわれる。だが、そのようにいうことは、彼の「懐疑」をほとんど無効にしてしまうだろう。彼が否定したのは、「証明」というかたちをとる共同主観性あるいは対話それ自体の独我論性なのだ。私は、ここで、独我論とは、自分一人しかいないという思考ではなく、自分にあてはまることが万人にあてはまるという考えのことであるといおう。なぜなら、後者においては、結局他者は自己の中に内面化されてしまうのだから。同時に、私は、対話とは、規則を共有しない他者との対話、あるいは非対称的な関係にとどまるような対話であると定義したい。そして、他者とはそのような者である、と。といっても、他者は、人類学者がいうような異者(不気味なもの)ではない。フロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない。また、われわれがいう他者は絶対的な他者ではない。それもまた自己投射にすぎない。われわれが考えるのは、むしろありふれた相対的な他者の他者性である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

そもそも、フロイトの「隣人」とは、ここでいうありふれた「相対的な他者の他者性」であろうし、それをラカンは外密という。「不気味なもの」もそうではないだろうか。

むしろ、以下の文で柄谷行人がいう≪物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない≫に近いものとしての、フロイトのdas Ding が「不気味なもの」はないだろうか。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない


ラカン自身、このdas Ding(la chose) は、≪〈物〉 la Choseは、本質的に、〈他の物〉Autre choseである≫(S.7)と言っている。これ自体アンチノミーである。そしてこのla chose(物)がExtimité(外密)である(S.16)。