2016年4月11日月曜日

欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)

現実界には、《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(Lacan,S.10)

ーーでは、何があるのか。そこにあるのはブラックホールである(参照:二つの欠如 Deux manques

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI,1975)

無意識、それはリアル(現実界)である(……)。それが穴が開けられている troué 限りにおいて。(私訳)

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以下、資料の列挙。

◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan」より。

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。Ⱥ の最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

※外立ex-sistence:「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照のこと。

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◆次に、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2003,原文)より私訳。

ーーわたくしの理解では、症状との同一化が「穴」にかかわり、症状を信じることが「欠如」にかかわる。どちらも同一化の形態だが、前者が身体の現実界との同一化、後者が大他者との同一化となる(参照:ラカンの身体概念の移行)。

同一化とはラカン用語では疎外でもある。ここで面白いのは、アルトーが aliéné authentique(正当的疎外)と言っていることだ。この表現は、ラカンの aliéné(疎外・同一化)の徹底化として捉えうるが、それはcorps sans organes (器官なき身体)になることでもある。この「器官なき身体」が、ラカンの症状との同一化に近似するように見えないでもないことだ(参照:Chiesa, Lorenzo,Lacan with Artaud)。

さて、ポール・ヴェルハーゲ他の論文から掲げる。


【症状との同一化/症状を信じること】
定式の意味ーー症状と同一化することーーは、その反対物ーー症状を信じることーーと比較することによって理解されうる。どちらの定式も、ラカンの教えのある概念的論理にフィットする。

この論理は次のように再構築されうる。R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得したある文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に浸透されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。


【現実界の象徴界による植民地化】
この「文字」の考え方を以て、ラカンは、現実界と象徴界とのあいだの境界は、弱い境界だという事実を強調しようとしている。すなわち、現実界が象徴界によって植民地化されるということは、常に可能である。たとえば、諸シニフィアンの連鎖は、ドラの口唇享楽に侵入した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳 tussis nervosa と嗄れ声 hoarseness の症状を通して、記号化された。フロイトによって分析された症状の全ては、象徴界の表象代理部分であり、ほとんど変わらぬままの姿で後に患者のもとに回帰した。

文字とシニフィアンとのあいだの緊張領野内にて、ラカンは主体の決定を位置づける。主体は、症状と同一化すること、あるいは症状を信じることのどちらかを選択しうる。

《Le bord du trou dans le savoir, voilà-t-il pas ce qu'elle(La lettre) dessine. Et comment la psychanalyse, si, justement ce que la lettre dit « à la lettre » par sa bouche, il ne lui fallait pas le méconnaître, comment pourrait-elle nier qu'il soit, ce trou, de ce qu'à le combler, elle recoure à y invoquer la jouissance ?》(Lacan,Lituraterre  1971)

→《知のなかにおけるの縁、これが驚くことに文字が描くものだ。そして、精神分析は、まさに文字が自分の口から 「文字通りに」 言うことを無視してはならなかったならば、 どのように精神分析はこのが存在することを-この穴を埋めるために、分析はそこで享楽を呼びおこすことに訴えることで-否定することができるだろうか。》(ラカン, リチュラテール,向井雅明訳)


【文字とその三点リーダー points de suspension】
実際上、この選択は、同一化の二つの根源的に異なった形式にかかわる。症状(あるいは文字)を信じることは、文字へ三点リーダー(…)をつけ加えることで構成される。すなわち、S1…。症状を信じることは、最終的シニフィアン S2 の存在を信じることである。つまり、S1 の究極的意味作用と意味を露わにすることだ。この条件は、大他者は欠如していないという保証の存在である。

したがって、症状を信じることは、大他者を信じることを意味する。次のことを観察するのはそれほど難しいことではない。すなわち、このような症状、あるいはS2 を信じることは、「性関係はある」ことを信じることに相当することを観察するのは。

《症状の三点リーダー(省略符号 points de suspension)は、事実上、ーーもし私がこのように言いうるならーー、非関係 le non-rapport 内のクエスチョンマーク interrogatifsである。これは、私が既に提供した定義を正当づける。すなわち、症状を構成するもの、無意識を吸引する se bécotte avec l'inconscient ものは、人が症状を信じることである c'est qu'on y croit。》(Lacan, R.S.I.,1975、私訳)


【症状への信念】
症状あるいは文字への信念は、分析の始まりにとって典型的である。それは分析の最終段階ではない。患者が分析家のところに来るのは、彼が自分の症状の意味を確信しているからだ。そのせいで、分析家は、知っている者(知を想定された主体)の場に置かれる。つまり、隠された意味作用を露わにしてくれる者、どんな欠如もない大他者の場に置かれる。

異なった言い方をするなら、患者は自らの症状を三点リーダー(…)に従わさせる。患者は希望しているのだ、この省略符号 points de suspension は、分析家の解釈を基礎とした分析のあいだに、意味を受け取るであろうことを。だが、それはあるポイントまでしか働かない。その点において、徴示する S2 の連鎖は使い果たされる。すなわち、これは大他者の非一貫性のポイントである。

S2 と大他者のなかの欠如とのあいだのこの岐路において、分析主体(被分析者)は二つの可能な選択肢をもつ。ひとつは、新しい解決法を選び、症状の現実界と同一化すること。もうひとつは、以前の解決法に執着し、別のヒステリー的同一化の方策にて別の意味をさらに探し求めること($ →S1 →S2)。


【症状との同一化/症状を信じることの相違】
「同一化」の定式は、両方の主体化するポジションに当てはまる。というのは、どちらも、異なったアイデンティティをもたらすから。

一方で、症状を信じることにて、主体は己れを、徴示する鎖 S1 →S2 に結びつける。これをラカンは、《無意識にとっての(一意専心の)好み une préférence donnée entre tout à l'inconscient》(S.24)と考えた。この象徴的アイデンティティは、存在欠如(manque-à-être)を伴う。それはアイデンティティとはほとんど捉えられない。というのは、シニフィアンの連鎖を通して常に移行するから。ーーしたがって、典型的なヒステリーの主体の問い、「私は誰?」をもたらし続ける。

他方で、享楽を固着している文字との同一化を通して、主体は現実界のアイデンティティを獲得する。己れをその存在の現実界と結びつけるのだ。これは、主体を定義するアイデンティティである。つまり彼固有の、特権化された享楽の方法である。《主体と対象a とのあいだの相互関係は全的である La réciprocité entre le sujet et l'objet a est totale》(S.20)。


【現実界の応答 réponse du réel/大他者の応答 réponse de l'Autre】
我々は次の事実を強調しなければならない。すなわち、この症状との同一化は、「身を任せること・捕虜 surrendering」には陥らないという事実である。反対に、身を任せることとは、不能の表現である。したがって症状への信念の態度を特徴づける。そこでは、私的失敗は隔離され個人的なものだと考えられ、確信は存続する。確信、つまり他の人びと、大他者は「性関係」の実現に成功しているという確信だ。これは、己れの症状と同一化した主体には当てはまらない。この主体ーー、分析のあいだに、性関係の失敗は個人の不能の問題ではなく、構造的不可能性の問題であることを確証した主体である。

分析は明らかにする、主体のエッセンスーーson être du sujetーーは、大他者の欠如の場に位置づけられることを。この場とは、大他者は我々に答え(応答)を提供しない場だ。分析主体(被分析者)は、次の事実を経験する。すなわち、主体とは「現実界の応答 réponse du réel」であり、「大他者の応答 réponse de l'Autre」ではない、という事実を。

ーーーここに「大他者の欠如の場」という表現があることに注意しよう。それは冒頭に掲げたミレールの《Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。》とともに読むことができる。

《La raison en est que ce que le discours analytique concerne, c'est le sujet, qui, comme effet de signification, est réponse du réel” 》(Lacan, L'étourdit, 1973)

→《その理由は、分析的ディスクールが関係するのは主体であって、主体は意味作用の効果として現実界の返答であるからだ、というものである。》(エトゥルディ、向井雅明試訳)


【二種類の同一化の異なった帰結】
この変化が意味するのは、享楽に対面した主体のポジションにおける変化である。以前には、主体はすべての享楽を、大他者の側に位置づけた。そして、これに対抗する立場を取った(個々の主体に固有のポジション、すなわち根本幻想にて)。この変化の後には、主体は享楽を身体のなかに位置づける。すなわち身体の現実界のなかに。

こうして、もはや大他者によって処方された享楽はない。あるのは、主体の固有の欲動によってもたらされた享楽である。ラカンは、この主体の特異な欲動を「サントーム」と名付けた。この観点における症状との同一化は、象徴界的なものでも想像界的なものでもない。そうではなく、現実界的同一化である。それは、大他者の欠如の代わりの補充(suppléance) として機能する。

他方、自分の症状を信じる主体は、大他者の神聖な処方を信じる…それは決してどこにも到らない。そうこうしているうちに、この主体は不在の大他者の代わりの補充を当てにしなければならなくなる。最も標準的に実践される補充物は、結婚制度である。現代の法と宗教に従って、二つのジェンダーのあいだの関係を統整する制度。もちろん、その制度は、信念の主体がこの制度に不平不満を言うことを妨げはしない。症状を信じることは、大他者の欠如を埋める補充物なのだ。……


…………

※附記(欠如と穴(欲望と欲動)より

◆ ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如lackと穴holeのあいだの区別がされなければならない。「欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す」(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com )

ここには、欲望と欲動のあいだの相違が横たわっている。欲望は、その構成要素である欠如constitutive lackを基盤としている。他方、欲動は、穴、存在秩序の裂け目のまわりを循環する。

言い換えれば、欲動の循環運動は、歪んだ空間の風変わりなロジックに従っている。その歪曲空間では、二つの点の最短距離は直線ではなく曲線である。欲動は「知っている」、目標aimを実現するための最速の方法は、目的goal対象のまわりを循環することであるのを。

各個人に向けられた当面のレヴェルでは、もちろん資本主義は、個人たちを顧客、欲望の主体として扱い、絶えず新しい倒錯的で過剰な欲望を誘発させる(資本主義は人びとに満足をあたえる生産物を提供する)。さらに資本主義は、明らかにまた「欲望する欲望」を巧みに操作する。世に喧伝するのだ、絶えず新しい対象と快楽のモードを欲望することの欲望を。しかしながら、もし資本主義が欲望をすでに操作しているのならーーその操作とは、最も基本の欲望は、欲望としてそれ自体を再生産する欲望である(そして満足を見出さないことの欲望)という事実を考慮した方法にて、であるがーーそうであってさえ、このレヴェルでは、我々はは未だ欲動に到達していない。

欲動は、もっと根本的、システム的なレヴェルで、資本主義に固有のものである。すなわち欲動、全き資本家機械へと駆り立てるものとしての欲動は、非人格的な強迫であり、拡張される自己再生産の絶えまない循環運動へと没入する。我々が欲動モードに入るのは、資本としての貨幣の循環がそれ自体目的になったときである。というのは、価値の拡張は、絶えまなく更新される運動内部でのみ起こるのだから(人はここで念頭に置いて置くべきだろう、ラカンのよく知られた欲動の目標aimと目的goalとのあいだの区別を。目的goalとは、欲動がそのまわりを循環する対象である一方、欲動の本当の目標aimは、この循環の絶えまない継続自体である)。このように、資本家の欲動は個別の個人には属さない。むしろ資本の「代理人agents」(資本家自身、経営者)として振舞う個人たちが、それを露呈させる。

ミレールは最近、「構成された不安 constituted anxiety」と「構成する不安 constituent anxiety」というベンヤミンの区別を持ち出している。それは、欲望から欲動への移行にかんして決定的である。「欲望は、我々に纏いつく不安の怖ろしくも魅惑的な深淵の標準的概念を示す。我々を惹きつけ迫る忌々しい循環である。欲動は、まさに喪失によって構成された対象aとの「純粋な」遭遇を表す。」(同上)

ここでミレールは二つの特徴を正しく強調している。構成する不安から構成された不安を分け隔てる相違は、幻想にかんする対象の地位にかかわる。「構成された不安」の場合、対象は幻想の領野内部に住まわっている。他方、我々が「構成する不安」に直面するのは、ただ主体が「幻想の横断」をしたときのみである。そのときのみ、我々は遭遇するのだ、幻想の対象によって埋められていた空虚、裂け目に。

とはいえ明らかにはっきりしているのは、ミレールの定式は真のパラドックス、あるいはむしろ対象aの両義性を外していることだ。その両義性とは次の問いにかかわる。すなわち、対象aは、欲望の対象として機能するのか、あるいは欲動の対象として機能するのか?

要は、ミレールが、対象aを喪失を覆う対象として定義するとき、かつまた対象aは対象の喪失のまさに瞬間に出現する(胸から声、眼差しまでのすべての幻想的化身は空虚、無の換喩的形象化として)、彼はいまだ欲望の地平内部にとどまっている。ーー真の欲望の対象-原因は幻想的化身によって埋められた空虚である、と。

他方、ラカンが強調したように、対象aはまた欲動の対象である。ここでの関係は徹底的に異なる。どちらの場合も、対象とその喪失のあいだの繋がりは決定的であるにもかかわらず、欲望の対象-原因としての対象の場合、我々は原初に喪われた対象を持っている。それはそれ自身の喪失と一致するものであり、喪失として出現する。他方、欲動の対象としての対象aの場合、「対象」は直接的に喪失自体である。ーー欲望から欲動への移行において、我々は、喪われた対象から、対象としての喪失自体に移りゆく。

すなわち、「欲動」と呼ばれる風変わりな運動は、喪われた対象への「不可能な」探求によって、駆り立てられるdrivenわけではない。「喪失」ーー裂け目、切り傷、距離ーー自体を直接に上演するのが欲動である。

これが、「欲動の満足」というラカンの表現の意味するところである。欲動は、その対象が〈モノ〉の替え玉のために満足をもたらさない。とはいえ、欲動は、あたかもこの失敗を勝利に変換するために満足をもたらす。ーーそこでは、目的に到達することのまさにこの不首尾、この不首尾の反復、対象のまわりの絶えまない循環が、それ自身の満足を生むのだ。

更にあからさまに言うなら、欲動の対象は、空虚の充填物としての〈モノ〉には関係ない。欲動は文字通り、欲望の対抗運動counter‐movementである。欲動は、不可能な全体性を目指して、そして次にその断念を余儀なくさせられ、残余物としての部分対象に身動きがとれなくなって、やっきになるものではない。ーー欲動はまったく文字通りにまさに「ドライヴするdrive」のだ、我々が埋め込まれたすべての連続体を断ち切ろうとするのだ、その連続体にラディカルな不均衡を導入するために。そして欲動と欲望のあいだの相違はまさに、欲望においては、この切れ目、この固着(部分対象への)が、あたかも「超越論的に」〈モノ〉の空虚の替え玉に変換されることである。(ZIZEK,,LESS THAN NOTHING,2012、私訳)