坂を上つて行く
女の旅人突然後を向き
なめらかな舌を出した正午
ーー西脇順三郎『鹿門』
◆Millenium Mambo 千禧曼波- opening(侯孝賢・スー・チー 舒 淇)
ここで一目ぼれ coup de foudre の心理学を図解してみましょう。子供をあやしているロッテを初めて見たときのウェルテルを思い出して下さい。これは、アナクリティックのプランにおけるAnlehnungstypus の完璧に満足できるイマージュです。対象とゲーテの主人公にとっての根本的イマージュの一致が、彼の死に至る愛着の火蓋を切ります。(……)これが愛です。彼自身の自我を、愛で人は愛します。イマジネールな水準で実現された自身の自我です。(ラカン、セミネールⅠ「フロイトの技法論」)
◆Love theme from "Les parapluies de Cherbourg" (1964)
車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充満性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。画面は、やがてわたしが愛することになるものを聖別しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「魂を奪われる」の項)
◆Ending of "The Umbrellas of Cherbourg"
――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?
最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”より)
◆Three Times 百年恋歌( 最好的時光)- Opening Scene "Smoke Gets in Your Eyes"(侯孝賢、スー・チー 舒 淇)
対象aは私たちが欲望するものでも追従するものでもない。それはむしろ、私たちの欲望を起動させるものであり、欲望に一貫性を授与する基本的枠組みなのだ。欲望はもちろんメトニミー的なものであり、ある対象から他の対象へとシフトしていく。しかし、その移動を通じて、欲望はそれでもなお最小の形式的一貫性を保っており、実定的対象に出会う私たちに、この対象を欲望するようにさせるファンタスム的な特徴の集合を保っている。欲望の原因としての対象aは、この一貫性の形式的枠組みに他ならない。
やや違った方法において、同じメカニズムが、主体が恋に落ちることを支配している。愛のオートマティズムは、何らかの不慮の出来事が、究極的に相容れない(リビード的)対象が、既に与えられているファンタスムの位置を占めていることを発見するときに起動するものである。愛の自動的な出現におけるこのファンタスムの役割は、「性関係はない」という事実をその条件としている。パートナーとの調和的な性関係を保障する公式やマトリックスは何もないのである。普遍的公式の欠如のために、すべての個人が自分自身のファンタスムを、性的関係の「秘密の」形式を発明しなければならない。男性にとっては、女性との関係は、女性が彼の公式にフィットする限りでしか可能にならない。フロイトの患者として有名な狼男の公式は、「後ろからみて、手と膝をついて、地上にある、彼女の前にあるものを何かを洗うか、きれいにする」であると考えられる。女性がそのポジションにいるところを見れば、自動的に愛が発生するのだ。ジョン・ラスキンの公式はギリシアとローマの塑像モデルにならったものである。結婚初夜の最中に、ラスキンが塑像に陰毛がないことを見たときに、この公式は悲喜劇的な落胆に導かれた。この発見はラスキンを完全に不能にしてしまった。それ以来、ラスキンは妻をモンスターだと考えるようになった。(ジジェク『欲望:欲動=真理:知』松本卓也訳)
◆last tango in paris(with butter)
幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。
欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だね。これがフロイトがすでに一つの特徴der einzige Zugと読んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)
◆Last tango in Paris- Right up into the ass of death
《私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて》(谷崎潤一郎 「痴人の愛」)
永遠に退屈な女性的な質問、「どうしてあなたは私のことが好きなの」という質問を例にとって考えてみよう。本当の恋愛においては、この質問に答えることはもちろん不可能である(だからこそ女性はこの質問をするのだが)。つまり、唯一の適切な答えは次の通りである。「なぜなら、きみの中にはきみ以上の何か、不確定のXがあって、それがぼくを惹きつけるんだ。でも、それをなにかポジティヴな特質に固定することはできない」。いいかえれば、もしその質問にたいしてポジティヴな属性のカタログによって答えたなら(「きみのおっぱいの形や、笑い方が好きだからだ」)、せいぜいのところ、本来の恋愛そのものの滑稽なイミテーションにすぎなくなってしまう。(ジジェク『斜めから見る』P194)
《その女の足は、彼に取つては貴き肉の宝玉であつた。拇指から起こつて小指に終わる繊細な五本の指の整い方、 繪の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗ふかと疑はれる皮膚の潤澤。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であつた。 》(『刺青』)
◆Joan Chen sexy foot scene from The Last Emperor [1987]
まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした
石垣の間からとかげが
赤い舌をペロペロと出している
ーー西脇順三郎『豊饒の女神』
…………
閑話休題(あだしごとはさておきつ)
《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)
とつぜん夏が背中をすきとおした
石垣の間からとかげが
赤い舌をペロペロと出している
ーー西脇順三郎『豊饒の女神』
…………
閑話休題(あだしごとはさておきつ)
閑話休題(あだしごとはさておきつ)。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼が出来上り、それからお取り膳の差しつ押えつ、まことにお浦山吹の一場は、次の巻の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後あとは書かず。読者諒せよ。ーー(永井荷風『妾宅』)
《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)
ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
…………
女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ
ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より
ーーこれはフロイトが『グラディーヴァ』で引用しているホラティウスの言葉。
『グラディヴァ』の主人公は尋常ならざる恋人である。ほかの者なら思う浮かべただけで終るものを、幻覚として体験し、とり憑かれているのだ。それと気づかぬままに愛している女性がいて、そのフィギュールとなるのが、いにしえの女グラディヴァなのであるが、彼はこれを現実の女性として知覚している。そのことが彼の錯乱(妄想? ※引用者)である。ところで問題の女性は、ひとまずは彼の錯乱に同調したうえで、穏やかにそこから引き出そうとしている。ある程度まで彼の錯乱の中へ入りこみ、あえてグラディヴァの役を演じ、幻影を一挙に打ちこわしたり、夢想から唐突んび目覚めさせたりはせず、それと気づかぬうちに現実に近づいていってやろうとするのだ。そのことで、ひとつの恋愛体験が、分析治療と同じ機能を果たすことになるのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「GRADIVA」の項)
◆GRADIVA - by LEOS CARAX
けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを
ーー西脇順三郎『禮記』