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2015年6月12日金曜日

欠如と穴(欲望と欲動)

動物と人間(本能と欲動)」補遺。

以下、資料の列挙。

ーー今まで掲げたものもあるし、私訳したままで未公開のものもある。当面、欲望/欲動を考える上での個人的には決定版資料(--とまではいかないかもしれないが)。

フロイトは欲動のgoalとaimを区別しています。人は欲動の対象を手にしたり手にしなかったりします――口唇欲動の場合を例にとれば、対象とは食べ物です。しかしそれでもなお、フロイトが言うように、対象そのものは重要ではありません。欲動の対象はこれでもあれでもありえますが、欲動の回路において満足させられるものは同じものとして残り続けます。goalに達しないときですら、aimを実現することができます。それが、享楽です。(ジャック=アラン・ミレール「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」 )
終点は最終目的地だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道wayそのものである。ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(ジジェク、斜めから見る、1991)

※ 参照:「資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

この欲動と欲望の関係について、われわれは精神分析の倫理に関するラカンの有名な格言ーーー「自分の欲望を諦めてはいけない」---を少々修正してもよいだろう。欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。「欲望する」ということは、欲動に道を譲ることを意味する。アンティゴネーに従い、「自分の欲望を諦めない」かぎり、われわれは欲望の領域から外へと足を踏み出し、欲望の様相から欲動の様相へと移行するのではないか。(ジジェク『斜めから見る』 1991 鈴木晶訳)



◆ ジジェク『LESS THAN NOTHING』より。

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如lackと穴holeのあいだの区別がされなければならない。「欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す」(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com )

ここには、欲望と欲動のあいだの相違が横たわっている。欲望は、その構成要素である欠如constitutive lackを基盤としている。他方、欲動は、穴、存在秩序の裂け目のまわりを循環する。

言い換えれば、欲動の循環運動は、歪んだ空間の風変わりなロジックに従っている。その歪曲空間では、二つの点の最短距離は直線ではなく曲線である。欲動は「知っている」、目標aimを実現するための最速の方法は、目的goal対象のまわりを循環することであるのを。

各個人に向けられた当面のレヴェルでは、もちろん資本主義は、個人たちを顧客、欲望の主体として扱い、絶えず新しい倒錯的で過剰な欲望を誘発させる(資本主義は人びとに満足をあたえる生産物を提供する)。さらに資本主義は、明らかにまた「欲望する欲望」を巧みに操作する。世に喧伝するのだ、絶えず新しい対象と快楽のモードを欲望することの欲望を。しかしながら、もし資本主義が欲望をすでに操作しているのならーーその操作とは、最も基本の欲望は、欲望としてそれ自体を再生産する欲望である(そして満足を見出さないことの欲望)という事実を考慮した方法にて、であるがーーそうであってさえ、このレヴェルでは、我々はは未だ欲動に到達していない。

欲動は、もっと根本的、システム的なレヴェルで、資本主義に固有のものである。すなわち欲動、全き資本家機械へと駆り立てるものとしての欲動は、非人格的な強迫であり、拡張される自己再生産の絶えまない循環運動へと没入する。我々が欲動モードに入るのは、資本としての貨幣の循環がそれ自体目的になったときである。というのは、価値の拡張は、絶えまなく更新される運動内部でのみ起こるのだから(人はここで念頭に置いて置くべきだろう、ラカンのよく知られた欲動の目標aimと目的goalとのあいだの区別を。目的goalとは、欲動がそのまわりを循環する対象である一方、欲動の本当の目標aimは、この循環の絶えまない継続自体である)。このように、資本家の欲動は個別の個人には属さない。むしろ資本の「代理人agents」(資本家自身、経営者)として振舞う個人たちが、それを露呈させる。

ミレールは最近、「構成された不安 constituted anxiety」と「構成する不安 constituent anxiety」というベンヤミンの区別を持ち出している。それは、欲望から欲動への移行にかんして決定的である。「欲望は、我々に纏いつく不安の怖ろしくも魅惑的な深淵の標準的概念を示す。我々を惹きつけ迫る忌々しい循環である。欲動は、まさに喪失によって構成された対象aとの「純粋な」遭遇を表す。」(同上)

ここでミレールは二つの特徴を正しく強調している。構成する不安から構成された不安を分け隔てる相違は、幻想にかんする対象の地位にかかわる。「構成された不安」の場合、対象は幻想の領野内部に住まわっている。他方、我々が「構成する不安」に直面するのは、ただ主体が「幻想の横断」をしたときのみである。そのときのみ、我々は遭遇するのだ、幻想の対象によって埋められていた空虚、裂け目に。

とはいえ明らかにはっきりしているのは、ミレールの定式は真のパラドックス、あるいはむしろ対象aの両義性を外していることだ。その両義性とは次の問いにかかわる。すなわち、対象aは、欲望の対象として機能するのか、あるいは欲動の対象として機能するのか?

要は、ミレールが、対象aを喪失を覆う対象として定義するとき、ーー対象の喪失のまさに瞬間に出現するものとしての対象a(胸から声、眼差しまでのすべての幻想的化身は空虚、無の換喩的形象化として)であるがーー、彼はいまだ欲望の地平内部にとどまっている。真の欲望の対象-原因は幻想的化身によって埋められた空虚である、としている。

他方、ラカンが強調したように、対象aはまた欲動の対象である。ここでの関係は徹底的に異なる。どちらの場合も、対象とその喪失のあいだの繋がりは決定的であるにもかかわらず、欲望の対象-原因としての対象の場合、我々は原初に喪われた対象を持っている。それはそれ自身の喪失と一致するものであり、喪失として出現する。他方、欲動の対象としての対象aの場合、「対象」は直接的に喪失自体である。ーー欲望から欲動への移行において、我々は、喪われた対象から、対象としての喪失自体に移りゆく。

すなわち、「欲動」と呼ばれる風変わりな運動は、喪われた対象への「不可能な」探求によって、駆り立てられるdrivenわけではない。「喪失」ーー裂け目、切り傷、距離ーー自体を直接に上演するのが欲動である。

これが、「欲動の満足」というラカンの表現の意味するところである。欲動は、その対象が〈モノ〉の替え玉のために満足をもたらさない。とはいえ、欲動は、あたかもこの失敗を勝利に変換するために満足をもたらす。ーーそこでは、目的に到達することのまさにこの不首尾、この不首尾の反復、対象のまわりの絶えまない循環が、それ自身の満足を生むのだ。

更にあからさまに言うなら、欲動の対象は、空虚の充填物としての〈モノ〉には関係ない。欲動は文字通り、欲望の対抗運動counter‐movementである。欲動は、不可能な全体性を目指して、そして次にその断念を余儀なくさせられ、残余物としての部分対象に身動きがとれなくなって、やっきになるものではない。ーー欲動はまったく文字通りにまさに「ドライヴするdrive」のだ、我々が埋め込まれたすべての連続体を断ち切ろうとするのだ、その連続体にラディカルな不均衡を導入するために。そして欲動と欲望のあいだの相違はまさに、欲望においては、この切れ目、この固着(部分対象への)が、あたかも「超越論的に」〈モノ〉の空虚の替え玉に変換されることである。(ZIZEK,,LESS THAN NOTHING,2012)


◆柄谷行人による欲望と欲動

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)

※附記

……同じことが資本主義にもいえる。資本主義の永続的な自己革新のダイナミズムは、不可能性のポイント(最終的な恐慌、あるいは崩壊)の絶え間ない延期に依っている。…資本主義において、恐慌は内面化され予め考慮に入れられている。すなわち、不可能のポイントとして、であり、それが資本主義を継続的な活動に駆り立てる。資本主義は構造的に常に恐慌のなかにある。それが、いつまでも拡大していく理由である。資本主義は「未来から借金する」ことによってのみ、それ自身を再生産することが出来る。fuite en avant(破れかぶれで前に突き進む)ことによって未来に向かう。全ての借金が支払われる最終的な決着など決して到来しない。マルクスが提示した、不可能の社会的ポイントの彼自身の名は「階級闘争」である。

たぶん、人はこれを人間性のまさに定義として拡張すべきである。人間を動物から究極的に区別するものは、あるポジティヴな特徴(会話する、道具を作る、反省的思考等々)ではない。そうではなく、フロイトやラカンによって「モノdas Ding」として表現された不可能性の新しいポイントの出現にある。「モノdas Ding」、すなわち欲望の不可能なリアルに究極的参照点である。しばしば注目度される人間と類人猿のあいだの相違は、ここであらゆる重要性を獲得する。類人猿が手の届かない対象に直面するとき、何度かそれを掴もうと試みた後にそれを放棄して、より穏当な対象に転ずる(例えば、より魅力の劣る性的パートナー)。他方、人間は、不可能な対象に釘づけになったままで努力をしつこく繰り返す。

これが、主体自体がヒステリー的な理由である。主体、享楽を絶対的なものとする主体。その主体は、満足されない欲望の形式としての享楽に絶対性に応答する。そのような主体はゲームの限界の外側にいるままの状況に関係し得る。実際、「ゲームの外」という用語へのこの関係性は、主体自体を構成する。ヒステリーは、このように絶対的な享楽の偽装のもとに不可能性のポイントを設置する初歩的な「人間的」方法である。ラカンの「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel 」も人間であることを構成する不可能性のポイントではないだろうか?(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012 私訳)

…………

※追記:以下、同じジジェク2012からだが、タメ口訳。

ラカン派のドゥルーズの読解の手始めは、情け容赦ないダイレクトな読み替えだね。ドゥルーズとガタリが“欲望機械” (machines désirantes)について話しているときは、その語を欲動に置き換えるべきさ。ラカンの欲動――この“身体なき器官”による匿名の/無頭の不滅の反復への執拗さは、オイディプスの三角形とその禁圧的な法と違反の弁証法に先行しているものでね。――この欲動は、ドゥルーズが前オイディプスのノマド的な欲望の機械として境界線を引こうと試みたものと完全に一致するんだな。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の“機械的な”特質を強調しているからね、それに反有機的なanti‐organic性質、その人工的な要素やあるいは異質の成分からなる部分のモンタージュなどをね。

といっても、これはただ手始めにはそうだというに過ぎないんだ。すぐさま問題をこみ入らせるのは、次の事実だな。すなわちこの読み替えによってなにかが失われてしまうんだな。欲動と欲望のあいだにある消しがたい相違というものがあって、この相違の視差による特質というのは、縮減しようがないし、また一方から他方を生みだすなんてことも無理だな。

いいかえれば、ラカンにとってまったく異質なのはドゥルーズの反-表象主義者としての欲望の概念だね。原初的な不断の変化primordial fluxとしての欲望、その流動自身が表象や抑圧の場面を創造するっていうヤツだな。これはまたドゥルーズが欲望の解放について語る理由なんだけどさ。表象主義者のフレームから解放する欲望のなんたらというのは、ラカンの地平ではまったく無意味だな。

ドゥルーズにとっては、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流れのことなんだけど、ラカン派の欲動というのは、基本的な解決できない袋小路によって本質的に刻印されてるからな、――欲動というのは行き詰まりであり、それはまさに行き詰りの反復によって満足を見出すってことさ。

ドゥルーズ自身の用語で言うなら、彼の欲望の流動fluxといののはBwO、すなわち器官なき身体なんだけれど、ラカンの欲動はOwB、すなわち身体なき器官でね。欲望は部分対象ではなく、他方、欲動は対象そのものなのだよ。ドゥルーズが強調するように、彼の敵は器官organsではなく有機体organismなんだな。ひとつの身体の分節が階層的な調和あるそれぞれの器官の全体へと移行すること。それぞれがその場所においてその機能をすること。《CsO(器官なき身体)は少しも器官の反対物ではない。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。》(『千のプラトー』)
(……)(こういうわけで)間違ってるんだよ、“純粋な”死の欲動は(自己)破壊への不可能な“全的な”意志とするなんてのはね、主体が母なる〈モノ〉の全体性へと回帰する法悦の自己消滅ででもこの意志が実現されえないとか妨害されていて“部分対象”に凝り固まるなんてのは。そんな考え方なんてのは、死の欲動を欲望とその喪失した対象のタームに再翻訳しただけさ。欲望においては、現実の対象は不可能な〈モノ〉の空虚の換喩的な代役なのさ。欲望においてこそ、全体性へのあこがれは部分対象へと配置転換されるってわけさ。ラカンがいってるだろ、これを欲望の換喩だって。ここのところは極度に厳密でなくっちゃな、ラカンのポイントを捉えそこなわないようにな。欲望と欲動を混同しないように、だな。

欲動ってのは、部分対象へ固着した〈モノ〉への果てしない切望じゃないんだよ。“ドライヴ(欲動)”は、すべての欲動の“死”の次元に住まうこの固着自体なのさ。欲動は(近親相姦的な〈モノ〉へ向かう)堰きとめられかつ支離滅裂になった普遍的な渇望じゃないのだよ。ブレーキ自体、本能のブレーキなのであって、“凝固stuckness”って、エリック・サントナーがいってるとおりだね。――(意訳者:なんて訳すんだろうな、stucknessってのは。「Attachment差し押さえ」とか「capture捕虜」などの語でもいいんじゃないかね)――。

欲動の基本的な母型はこうじゃない、すなわち、すべての個別の対象を超えて〈モノ〉の空虚、それは換喩的な代役によってのみ手が届くってわけだが、その〈モノ〉の空虚に向かうことじゃない。そうじゃなくて、われわれのリビドーなんだよ、ある個別の対象にstuckしてしまう(すなわち凝り固まったり差し押さえられてしまう)。そしてその対象のまわりを永遠に旋回運動に囚われることなんだな。(意訳者:欲動は、《灯火にむれる蛾の灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動である》と誰かが言っていたけどさ)。

というわけで、すなわちいままで見てきたとおり、欲動の概念は二者択一、〈モノ〉によって燃え尽きるとか、あるいは安全な距離を維持するのどっちかなんての嘘っぱちさ。欲動においては、〈モノそれ自体〉が空虚のまわりを旋回することなのさ(ちょっと待てよ、空虚というより、穴だな)。

さらにもっと的を得た言い方をするなら、欲動の対象は、空虚のフィルターとしての〈モノ〉ではないのだよ。欲動とは欲望の対抗運動なのさ。次のようにやっきになることではないのだ、不可能な全体性に向けて進んでいって、その断念を余儀なくされ、その残余としての部分対象に凝り固まるなんてことではない。欲動driveはまさに文字通り、“ドライブ”なのであり、そのドライブはわれわれがはまり込んだ継続性の全てを取り除き(breakし)、継続性の全てに根源的な不均衡を導入することさ。欲動と欲望の相違とは、厳密にいってこうなんでね。欲望においては、この切断、この部分対象への固着が、まるで「超越化」されたかのように、〈モノ〉の穴の代役に転換されるのだな。


※追記2:ジジェクの『パララックス・ヴュー』2006からだが、邦訳が手元にないので私訳。

……ダマシオの考え方の限界は、レイシストの感情的暴発を、感情の反作用ーーそれは元々の機能としては全く妥当なものであるーーとして説明しようとするとき、最も明瞭になる。

《人種的かつ文化的な先入観に導く反作用は、進化論的な社会的感情の自動的配備に基づいている。その意味は他者における相違を見つけるということだ。というのは相違は恐れや危険のシグナルなのであり、撤退や攻撃性を促すことになるのだから。この種の反作用はおそらく部族社会ではとても役に立っただろうが、我々の社会では、もはや有用ではないし、ましてや妥当でない。我々の脳は、何時代も以前の異なった文脈においてした方法で反作用する機械をいまだ備えているという事実に気づき得る。そして我々はそのような反作用を無視するよう学び、他者にも同じように振舞うよう説得し得る。》(ダマシオかららしいが註を見ても出典が曖昧)

この説明の問題は、異なった〈他者〉に向けられたレイシストの「嫌悪」の二つの鍵となる要素が説明されていないことだ。一つは、この嫌悪が生じる(そのメカニズムが起動させられる)仕方は、「抑圧された」他の心的外傷の経験の置き換えとしてである(例えば、我々の根源的〈他者〉への憎悪において、我々は攻撃的に「アクティングアウト」し、我々の社会的不能、我々の社会的「認知地図」の欠如を覆い隠すのだ)。もう一つは、民族的〈他者〉の現前へのレイシストの感情的反作用において、嫌悪は明らかに倒錯的喜び、魅惑、羨望の形式と結びついていることである。

これらの複雑な状況を説明するために、ラカンによって繰り返し強調された精神分析の基本的なアンチダーヴィニズムの教訓を銘記すべきだ。すなわち、人の環境への根源的かつ基本的な不-適応、悪-適応を。

最も根源的には、「人間であること」は環境における没入から「外されるuncoupling」ことによって成り立っている。適応の要求を無視するある自動作用に従っているのだ。ーーこれが「死の欲動」が究極的に意味するものだ。

精神分析は「決定論的」(「私がすることは、無意識の過程に決定されている」)ではない。自己破壊的構造としての「死の欲動」が、自由のミニマム、功利主義的生存主義者の態度から「外された」行動のミニマムを表す。

「死の欲動」が意味するのは、有機体は、もはや十全には、環境によって決定されない、すなわち、自律的行動の円環へと外破/内破するということだ。これは決定的なギャップである。そのギャップとは次の二つのあいだのものだ。すなわち、自由の根源的「存在にかかわるontic」否定(私の行動を決定する条件をコントロールする者が私をコントロールする)としての功利主義者と、カントの(そして、サドを忘れないでおこう)非-条件的な自律性の主張(倫理の法の、享楽することの気まぐれの)のあいだである。