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2015年3月18日水曜日

フロイト・ラカン派の「主人のシニフィアン」の遡及性

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

《「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する》(ジジェク)。

なにがマスターシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーcorporatist anti‐egalitarian mottoではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの補足的な説明が必要となる。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

もっとも、主人のシニフィアンとはこれだけではない。たとえば<私>、<僕>というシニフィアンはどうか。

あなたは、すくなくとも最低限の言語構造をもつためには二つのシニフィアンが必要である。だからわれわれは、すでに二つのタームを持っている、すなわちS1とS2である。S1とは、最初のシニフィアン、フロイトの“境界シニフィアンborder signifier”、“原シンボルprimary symbol”、いや“原症状primary symptom”とさえいえるが、それは特別の地位をしめる。それは主人のシニフィアンなのであり、欠如を埋めようとする。その欠如を覆い隠す過程の保証としてのふりposeをする(みせかける)。最も良い、簡略な例であるならば、シニフィアン“私”である。それは己れのアイデンティティのイリュージョンを抱かせてくれる。S2は残りシニフィアン、シニフィアンのネットワークの連鎖の分母である。その意味で、また“le savoir”の分母、知識の連鎖を包含する知識である。(Paul Verhaeghe『 FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』)

他にも、向井雅明氏はトラウマ(原トラウマ)の遡及性を次ぎのように語っている。

トラウマは遡及的に作用する。
S1―>S2->S1
(ラカンの症例)エマの例。店員の笑い→過去の想起 商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。(向井雅明『精神分析とトラウマ』)

ここでは、トラウマ的な原光景でさえ主人のシニフィアンS1であるとされている。これはシニフィアンの遡及性、すなわち最初のシニフィアン S1 は次に来るシニフィアン S2によって意味的に決定されるという構造のこと。

ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。(マルクス『資本論』)

これらは、ラカンがセミネールⅩⅩで強調した「原初とは最初のことではない」にかかわる。

とすれば、原初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)は最初のことではないのだろうか。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」」)

主人のシニフィアンの遡及性の説明は、ジジェクの次の文がよいだろう。

そこには、《最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生された》との文がある。

ここにあるのは、<あなた>が自らの原光景と思っているものは、後の生活での象徴的な袋小路によって遡及的に構成されたものではないか、という問いである。「問い」としたのは、ほんとうにこれだけなのだろうか、という疑念を、わたくしはいまだーー素朴にもーー持ち続けているところがあるから。


アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)